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ロスジェネ人生論(仕事探しに迷ったら)

「クリスマスキャロルの頃には」サンタの服の赤さに愛と寛大さを想い、キズナって哀しみの中で初めて生まれるよねって思い出した

 街にはクリスマスソングが流れ、行きかう人々の表情もなんだかウキウキしていて、というのは昔の話で、地味な感じの年末だなぁ、なんて思いながら歩いている。だいたい、みんなマスクしていて、街を行きかう人々が笑っているのか、泣いているのかよく分からない。人々はなるべく集まったりしてはいけないし、なるべく直接触れ合ってはいけないのである。会話もディスプレイ越しが望ましい。という具合の昔はSFの設定以外になかったような時代に、幼少期や思春期や青春を過ごした人たちが、我々の数十年後の老後を支えることになっている。いや、支えないだろう。感情なくゴミのように捨てるかも。自分たちだって貧しいし、別に年寄りだからって尊敬できるわけでもないし、そもそもアイツら生産性が低いし、みたいな感じで。

来年あたりから、「大学時代にサークルとか入る機会なかったですよ。講義も大半がリモートだったし、飲み会なんて高校時代の友人数人とオンラインで時々やったくらいですね」みたいな人たちが、新入社員としてやってくる。昭和から本質的には脱却できていないこの組織や社会にだ。もはや世代間の価値観の違い、とかいう次元の話ではなく、宇宙人との交信くらいを想定しておいた方がよろしい。

 クリスマスというと、恋人と過ごす、というのが定番なのは、バブル真っ盛りの商業戦略が当たった日本くらいのものである。海外ではたいていクリスマスは家族と過ごすのが定番だ。恋人と過ごすなんて強迫観念は全くない。

「いやいや違うでしょ。サンタの服が赤いのはなぜか知ってる?あれはキリストの血の色だぜ。要するに愛と寛大さとそれを支える絆(きずな)を意味しているんだ。なので俺は今から、愛と寛大さをもって(相手は誰でもいいから)、キズナを求めに行く(ナンパしに行く)」

なんてイヴの夜の街へ飛び出して行った不届き者の同僚がいたが、今はちゃんと家庭を持って、良きパパとして子供のもとへ帰って行く。今ごろサンタの恰好でもしてプレゼントでも渡しているのだろうか?築いた家族との絆(きずな)を大切に、それを守り抜くために、毎日頑張っているんだもんね。

ジングルベル、ジングルベル、鈴が鳴る♪

 僕はバブルが崩壊してすっかり暗い時代に入ってから東京で青春時代を過ごしたが、それでも且つての栄光とウキウキ感がまだ世の中に残っていて、失業率が高かろうが、大卒のかなりの人々が就職できずにフリーターや派遣社員で働いていようが、「クリスマス」となると、町中にジングルベルが流れ、なんだかみんなソワソワし出して、なんだかみんな人恋しくなる雰囲気だった。

恋人がいない場合?

つくればいい。つくる機会にしては?気になっているあの人をイヴに食事に誘っては?みたいな雰囲気があって、まぁ要するに、社会の人口のまだ大きな比率が若かったのである。前述の同僚も、そして僕もまだ若かった。

そして、人恋しさを解決する手段はまだまだアナログで、相手の顔を見て「直接」伝えるのが常套(じょうとう)だったのである。何かのツールを使ったりそれを通して間接的に伝えるのではなく、相手の目を見つめ、相手の吐く白い息を見つめ、そこから一緒に飛び出してくるコトバをしっかり受け止め、自分は自分の口で相手に「直接」伝えるのである。

勿論、仕事でもオンラインで何かをするのは特別な時だけだった。普通は直接人に会い、人と触れ、人と衝突し、人と語り合い、人に思いを伝え、人と一緒に歩いて仕事をしていた。

だから、プライベートで過ごす時間は、携帯電話で誰かと長時間話すこともあったが、お金かかるし、散々携帯電話ごしに喋ったけど、結局、部屋を飛び出し、電車に乗って逢いに行き、直接顔を見て、直接話をして、直接触れた。そんな時代である。直接逢いに行く途中で乗った電車の、窓に映る自分の顔、その向こうに見えている電飾(イルミネーション)で飾られた街の風景、高揚感と焦燥感が入り混じった表情の、そんな若い頃の自分の姿が、記憶の片隅に残っている。

 さて、とは言っても、仕事が大変で、マジで忙しくて、プライベートとか恋人とか言っている場合ではなくて、アレ?、今年のクリスマス・イヴ?、きっと普通の金曜日で、きっと普段通りサービス残業して深夜に家に帰って、やっと寝れる!みたいな感じなんだけど、みたいな場合も多かった。

「今から遊びに行くけど、一緒に行かない?」

夜の9時。

週末だから工場は夜勤もなく稼働が止まったけど、管理事務所はガンガン明かりが灯っていて、僕はそこでPCに向かってひたすら数字を打ち込んでいた。若者は、あくまで擦り潰して使う消耗品だった時代の話だ。

帰り間際に声を掛けて来たのは3つ年上のカオリさんという女の人だった。工場で現場で作業者として働いていて、確か青森出身で何年か前に上京して来た人だった。酒が滅法強く、目が丸くて色が白く、いわゆる東北美人だ。が、ガラが悪かった。十代の頃は車やバイクで町中を蛇行する同好会?の類に入っていたらしい。結婚、出産、離婚という定番のコースを経て、上京後、今の会社に入った。

この前の会社の懇親会でたまたま席が近かったので、「直接」たくさん話す機会があり、二次会も一緒に行って、酔いが回るにつれ色々と話をしてくれたのである。

結婚はしたが旦那が博打好きで、あっちこっちで借金を作って来たこと、子供に暴力をふるうサイテーな奴だったこと、でも旧家の出身で、義母が何かとやたら出て来て上品ぶって自分に説教して来るのがムカついたこと、結局、我慢できず離婚して子供を抱え、逃げるように上京して来たこと、上京したけど仕事がなかったこと、昼間のバイトだけでは子供を託児所に預けるお金とアパートの家賃を払うお金が稼げず、風俗店で働き始めたこと、風俗嬢をしながら子育てしている事がバレて、青森から義母と自分の両親がやって来たこと、そのあとの喉の奥に釘を一本ずつ刺して行くような家族会議。

子供は結局、青森に義母が連れて帰り、今は旧家の将来の大事な跡取りとして、元旦那と一緒に暮しているのだと話していた。カオリさん自身はそのまま東京に残り、風俗の仕事は辞め、バイトだけど工場で普通の仕事をして、運送業をやっている彼氏と阿佐ヶ谷で一緒に暮していた。

「あれ?彼氏がアパートで待っているんじゃないですか?」

「いやそれがさ、向こうが今日は夜勤で朝まで帰って来ないのよ。今から飲みに行くから一緒に来ない?」

僕はデスクを見回し、山積みの書類と、結局まだまだ終わりそうにない入力と、月曜日に必要な資料の作成はどうやったって土日にココへ来てやるしかないぞ(もちろん無給)というのを思いめぐらし、今日はもう遊んじゃえって思って、「行きます」と笑顔で答えた。

何十年も前の、寒い寒いクリスマス・イヴの夜の話である。

 カオリさんの飲み方は豪快だった。最初の一軒こそ、上野のもんじゃ焼き屋でジョッキ片手に大人しく食べてビールを飲んでいたが、その後はどんどんテンションが上がり始め、居酒屋を2件、3件とハシゴし、日本酒、焼酎、ワイン、何でもござれでドンドン飲み続けた。

ハシゴの合間に冬の夜の冷たい風が一瞬、身体を包み込むと、酔いがいい感じに醒めて行き、また次のアルコールを求めて、二人でヨタヨタ肩をぶつけながら通りを歩いて行く。

カオリさんはずっと大声で上機嫌に喋り続けていた。現場の作業の話、意地悪なバカ主任の話、今の彼氏がさすが運送業で肉体労働しているだけあって脱ぐと筋肉が隆々(りゅうりゅう)である話、同じ作業者の山岡ちゃんは実はそんなバカ主任と不倫しているという話、故郷の青森の冬は雪に閉ざされ、その空気の凍るような冷たさは非情なもので、こんな東京の冬の寒さなんて寒さのうちに全く入らないという話、そして大好きだったバイクの話。

時々、隣のテーブルに座っているサラリーマンの集団や、学生たちのサークルの飲み会にもいきなり大声で話し掛け、あれっトイレからなかなか戻って来ないぞと思って振り返ったら、ずっと向こうで全然知らないお爺ちゃん達と一緒に馬鹿笑いして飲んでいた。僕を見つけると、手招きして「アンタもこっちへ来てこの人たちと一緒に飲もうよ」と叫んでいる。

そんな感じでクリスマス・イヴの夜は更けて行き、終電間際の時間になった。

「ねぇ、今から自由が丘へ行かない?」

「えっ?今からですか?」

「うん、面白い店知ってるんだ。遊びに行こ」

自由が丘なんて山手線の反対側を越えたところだし、昼間は上品でおしゃれなイメージしかなく、こういっちゃ失礼だけど、この人とあんまりイメージが結びつかないんだけどなぁ、なんて二人で電車に乗った。そして駅前に着いた時には既に終電なんてない時間だった。

「行くよ」

カオリさんは相変わらず上機嫌だ。どんどん前を歩いて行く。

その時まで知らなかったけど、自由が丘という街は色んな顔があって、夜は夜で、もちろんおしゃれなバーも軒を連ねているけど、ちょっと行けば昭和感が満載のスナックやパブがたくさんあって、僕たちはその中の一軒(雑居ビルの中)に入って行った。

 そこは、いわゆる「おなべバー」だった。その辺りの男連中なんかよりよっぽどイケメンの元女性たちがずらりと並び、一緒にお酒を飲み、客と一緒に歌っていた。

カオリさんはお気に入りのスタッフを指名し、一緒に酒を飲み始めた。僕はというと、そんな店は初めてだったし、もしシラフだったら少しくらいはドギマギしていたのかもしれないけど、既にだいぶ酔いが回っていたから、普通に「乾杯!」って一緒にグラスを合わせ飲み始めた。カオリさんがマイクを手に当時流行っていた「亜麻色の髪の乙女」を歌い始める。雪国の人はむちゃくちゃ歌が上手いや、なんて、僕は飲みながらムニャムニャ言っていた。カオリさんのお気に入りのハンサム君は、気を遣って僕に笑顔で何かを話し掛けてくれている。

 隣のテーブルでは別の女性客がスタッフに肩を抱かれながら酒を飲んでいた。夢見心地という表情でワインを飲んでいる。「仕事が終わって店からすぐにここへ逢いに来た」とか言っているから、服装とか持っているブランド物のバッグを見る限り、水商売でもしているのだろう。仕事でモノとして扱われる代償を、刹那的であってもここにある優しさで贖いに来ているのかもしれない。

「テメェ、ふざけんなよ!」

いきなり掴み合いが始まった。

僕はちょっとお腹がすいて来たので、頼んで出て来たグラタンをスプーンで一生懸命食べている最中だった。なんだなんだって顔を上げると、すぐそばでカオリさんと、さっきまで夢見心地の顔でワインを飲んでいた隣のテーブルの女性客が取っ組み合いをしている。

どうやら歌っているカオリさんを見て、隣のその客がクスクス笑ったのが原因らしい。馬鹿にされたと思い込んだカオリさんが、掴み掛かって行った。スタッフたちが二人を引き離し、優しい言葉でなだめ、上手に距離を離し、また喧嘩が始まらないように別のテーブルへそれぞれを案内する。その辺りは日常茶飯事の業務だろうから慣れたものだ。僕も立ち上がって、グラタン皿とスプーンを手に、食べながら新しく用意されたテーブルの方へ歩いて行った。新しい席につくと、カオリさんは僕にイザコザを起した事をちょっと謝って、それから、アイツがトイレに行ったら自分も後から入って行ってボコる、なんて息巻き、やっぱりスタッフになだめられていた。僕はケラケラ笑って、今度は自分がマイクを手に歌い始めた。

そうやってバカ騒ぎの夜が更けて行った。何時間も遊び、明け方の太陽の薄明かりが、ようやく自由が丘の通りを照らし始めたころ、僕たちはその店を出た。一晩中騒いだのだ。二人ともさすがに遊び疲れ、喉もかれ、二日酔いの予兆が頭の奥で始まろうとしていた。

「吉野家で味噌汁が飲みたい」

カオリさんがそう言ったので、僕はうなずいた。駅から来る途中に確かに吉野家があったのだ。当時20代だった僕は、数時間前にグラタンを食べたけど、そう言われると、なんだかまたお腹が空いてきて、うん、牛丼をさらさらっと味噌汁でかき込んでから家に帰ろうか、なんて思ったのだ。まだ若かったんだね。

カオリさんは「アンタ、どこまでも付き合いがいいねぇ」なんて、僕の腕を組んで大股で歩き始めた。一瞬だけ、服の上から伝わって来る二の腕のその肉感にドキッとしたけど、僕も笑顔で大股で歩き出した。冷え切った街のアスファルトの上を、二人は上機嫌で元気に歩き出した。

が、吉野家で二人で牛丼を食べ、味噌汁をすすっている間は、ずっと無口だった。さすがに遊び疲れていたのと、味噌汁が身体に沁みていたのだ。二人で並んでカウンターに座り、静かに食べ続けていた。

食べ終えてお茶を飲むころ、カオリさんが爪楊枝を口に入れてボソッと言った。

「去年のクリスマスは青森にこっそり帰ったのよ。親にも誰にも会わなかったけど」

「・・・・・・・」

「なんかさぁ、急に子供に会いたくなってさぁ。衝動的に夜行電車に飛び乗って行ったのよ。結局会わなかったけどね」

「そうなんですか?」

「ウン、元旦那の実家の門のところから、中庭で遊んでいるあの子をちょっと見ただけ」

「どうして?せっかく行ったんだから話せばよかったじゃないですか?」

「いや、ババアが一緒にいたのよ。あの女、私の事を母親として失格だって言ってゴミを見るような目で見て来るからさ」

「そうですか」

「だから今年はあんまり一人で過ごすのも嫌だなぁって思ってさ」

「・・・・」

「もうあそこには帰れないってあの時、分かったし」

窓の外は粉雪が舞っていた。ビュンビュンと強い風がガラス戸を叩きつけている。

あ、そうだったんだ、と僕はお茶をすすりながら、カオリさんの横顔をそっと見た。そこには、さっきまでお酒を飲んで大暴れしていた元ヤンの姿はなく、一人の母親の顔があった。

ジングルベル、ジングルベル、鈴が鳴る♪

あれから数十年たっても、この季節になると、白いマスクの群れの頭の上に、相変わらずジングルベルの曲が流れ続けている。そんな街の風景を見ながら、だいぶ年を取った僕がコートの襟を立てて歩いて行く。今年のイヴは雪が降るらしい。そう、このマスクの一つ一つに物語があって、それは喜びだったり苦しみだったりするけど、それでも人間は生きて、年を取って、病を得て、死んで行く。それを知りながら、それぞれの事情を抱えながら、それでも生きて行く。

だから、人種の違いも、貧富の差も、年齢の差も、境遇の違いも関係なく公平に結びつき、もし人間がキズナを築けるとしたら、それはどんな人生にも公平に訪れる「哀しみ」の中でだろう。それでも生きて行く、という哀しみの中で、僕たちはやっとその違いを越えて結びつける。

ジングルベル、ジングルベル、鈴が鳴る♪

はい、明日はクリスマスです。愛と寛大さとそれを支える絆(きずな)を大事にする日でした。大切な人の為にプレゼントを買いに行かなきゃね。

若かった頃に過ごしたイヴの一夜を思い出しながら、平和な国で、静かに、静かに時間が流れ、こうやって僕は年を重ねて行く。

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ロスジェネ美食論(仕事探しの活力の為に)

「絶望ライン工ch」を観ながら、アジアの奥地で食べたダイナミックな野菜炒めを思い出し「貧しさ」について考えた

 もうすぐ師走である。この国はどんどん貧しくなって行くけど、そして、国ごとオワコンだなんて言われているけど、大丈夫、ショッピングモールに行けば、結構みんな大きな袋を抱えて楽しそうに買い物をしている。クリスマスケーキの予約も、お節料理の予約も、人気のあるやつはあっという間に完売だ。そしてモールのレストラン街に行けば、そう、みんな少々値段が張っても美味しいものを食べる為にはお金を出し、さらに行儀よく並んで待っている。

要するに内需の国なのだ。1億人も人口がいるっていうのは、実は非常に大きなマーケットがあるということ。自信を持って日本人が日本人に対してガンガン商売をしかけ、ガンガン稼いでガンガン消費すれば、かなりいい感じの経済になるのである。

だから、一人当たりのGDPがついに隣の国に抜かされたぁ、なんて周りと比較して落ち込まなくても、このたくさん消費者がいる日本の国で、日本人を相手に商売すればいい。

が、問題は、せっかく数はいるのに、その三分の一が年金暮らしで「ガンガン稼いでガンガン消費」していないということだ。これではいくら人口がそれなりにいても意味がない。なので、年金なんて死ぬ直前まで与えないでおいて、「ガンガン稼いでガンガン消費」させれば問題解決じゃん、という発想が出て来るのは当然だろう。

ということで、僕たちの老後は「もはや老人という概念はない、むしろ差別用語だ。健康寿命の70歳過ぎまで働くのは国民の義務だ。それまでは年金なんて貰おうとしてはいけない。甘えては駄目だ。みんなでこの国を支えるのだ。がんばろう日本!」という時代になるのを知っている。知っていて、それでも尚、僕たちは愚直に働き、税金を納め、生活をしている。「みんなでこの国を支えるのだ」なんてスローガンのもと、70歳を過ぎた自分たちが、ハローワークでアルバイトの奪い合いをしている姿を想像し、20代の就職難の頃と全然変わってないじゃん、もっと上の世代から早くこれをやっておいてくれよぉ、なんて愚痴り合っているのかな、なんてクスクス笑って想像しながら、この厳しい中年期を過ごしているのである。戦後で一番忍耐力がある世代であると言ってよい。

 なので、例えば家族を連れてちょっと贅沢に外食なんてしていたら、「こんな風にちょっと贅沢、なんて自分たちが年寄りになったら出来ないんだろね。今のうちに食べておこう」という類(たぐい)の会話が始まり、どんどん体が衰え死に向かいながらも、少なくともそこへ上乗せして「どんどん貧しくなって行く」なんて想像する必要がなかった上の世代を羨ましいなぁ、なんて考えるのだ。自殺の理由の多くは健康問題であり、次いで生活・経済問題である。僕たちが年寄りになるころ、またこの国は自殺者が3万人を越えて行くのだろう。その頃には安楽死とかが合法化されていて病死にカウントされ、そういった暗い不名誉な数字が解決されるのかな?高級官僚が考えそうな解決策だ。

 じゃあ、「貧しくなって行く」その先で、年寄りになった僕たちは、体のあっちこっちが痛いよぉ、昼間やったバイトがキツかったよぉ、なんてブチブチ言いながら、夕ご飯を食べているのだろうか?その時食べているものは一体何?

昭和風に言うなら、毎日毎日、白米とめざし?

いやいや、めざしって今や結構な値段で、貧乏暮らしで食べるものではありません。それは偏見というものです。

じゃあ数十年後、70歳になった僕たちが、年金も貰えずに食べている質素なご飯って何だろうか?納豆と卵かけご飯?

いやいや、納豆も卵かけご飯も馬鹿にしてはいけません。いずれも栄養価が高く、熱々の白米に納豆を乗せた時のあの幸せ、卵かけご飯の白身と醤油が混ざって舌の上をツルンと流れて行くときの食感と味わい、それらを是非思い出して下さい。食生活が貧しくなるなんて、間違った考え方です!

というのを、「絶望ライン工ch」という有名なYouTuberの方の作品を観ていて、改めて思った。そうだよなぁ、食事って奥が深く、料理をする際、それがスーパーで安くで買って来た食材であっても、創意工夫と、何より「美味しいものを作ってみせるぞ」というワクワク感のプロセスを楽しめれば、もうその時点で半分成功しているのである。もはや「貧しい」食事などではない。「絶望ライン工ch」では、こじんまりした炊事場で、モヤシとかシャケとかコンニャクとか味のある食材が並べられ、それが魔法のように美味しそうな料理に生まれ変わって行く。そこにあるのは、ステレオタイプに収まろうとしない食生活の楽しみ方であり、厳しい時代を生き抜いて行く為に何だって楽しんで味わってやるぞ、という逞(たくま)しい覚悟である。出来上がった料理は、YouTubeの中で「カンパーイ」と共にビールでお腹に流し込まれ、定番の素敵な音楽が流れ始める。

 アジアの山奥に駐在していた頃、そこはまだ経済発展の恩恵を受けていない地域で、人々の大半は貧しい暮らしをしていた。小さな家に、お爺さんとお婆さん、両親、叔父さんとその奥さんと生まれたばかりのいとこ、それから自分の兄と兄の奥さんと甥っ子、さらに自分の妹と・・という具合で一族が大勢で一緒に暮らし、雑魚寝(ざこね)し、ご飯を食べ、トイレで排泄し、密集してみんなで水道水のシャワーを浴び、ワイワイガヤガヤ賑やかに暮らしていた。会社のスタッフの家に食事に招かれて行くと、大抵、暮らしぶりはそんな感じだった。

僕は当時、ホテルで暮らしていたけど、周囲に日本食が食べられる場所なんてなく、地元の料理を食べるしかなかった。且つ、最初の頃はコトバもほとんどしゃべれなかったし、メニューも読めないし、そもそもどこに美味しい店があるのか分からなかった。

なので、休日の昼食はホテルの食堂へ行って、身振り手振りと筆談で料理をオーダーし、ステンレス製のボールにその料理を入れて貰って食べていた。

貧しい地域のどローカルなホテルの汚い食堂である。コックの男は不愛想で、エプロンの首元が垢で汚れていて、もちろんエプロン自体も洗っていないから汚れていた。全身からなんだか変な臭いがしていた。でも仕方ない。

「何を食べたいのだ?」

「野菜を食べたい」

「何の野菜を食べたいのだ?」

「トマトと、それから緑の野菜」

「緑の野菜ってなんだ?」

「う~ん、何というか、ほら、要するにキャベツとかレタスとかキュウリとか」

「今は季節が違うからそんなものはない」

「う~ん、じゃあ適当に緑の・・・」

「緑だったらいいのか?」

「いい」

「分かった。作ってやる」

出て来たのはトマトとニガウリを油たっぷりで炒めた料理だった。このあたりでは何でもニンニクをぶち込んで油でダイナミックに炒めるのだ。食材については、毎朝、地元の農家の婆さんたちが、大きな麻袋に採れたての野菜を入れて、食堂の裏口に持ち込み、この不愛想なコックと値段交渉して売っていた。

お金を払う。日本円で60円だった。えらく安い。ずっしりと中身の入ったボールを抱え、部屋に戻ると机の上に置いて、スプーンですくって一口食べる。

美味しい!

塩コショウで炒めているだけなのに、こんなに美味しいんだ、ってやみつきになり、それ以降、僕の休日の昼ご飯の定番になった。この料理は、たぶん自分の一生で一番、美味しさに対する費用対効果が高かった料理だ。ニガウリも強火で油で炒めることによって、ほどよくエグ味が消え、そこにニンニクの芳ばしい風味が加わって本当に美味しかった。僕はホテルの窓の外ののどかな風景を眺めながら、あっという間にその料理を平らげた。食事を楽しむというのは、決してお金をかければいいってもんじゃないのだ。貧しいからって食生活が貧しくなるなんて、間違った考え方なのである。

 が、いったん豊かになった国が貧しくなる場合、かつて貧しかった頃のような豊かな食生活は戻りにくいのかもしれない。そこにワイワイガヤガヤと一緒に食べる大家族はおらず、新鮮な採れたての野菜も口にするのは難しく、そもそもそういうものは健康志向の食材だから無茶苦茶値段が高い。だから、一人で、アパートで、スーパーで買ってきた普通の食材(必ずしも採れたてではない)を使って、どうやって美味しい料理を作り楽しむのかが、これから貧しくなって行くこの国で、それでも楽しんで生き延びて行く為の処世術になるのである。

生きてるって悲しいね~

「絶望ライン工ch」の軽快な音楽が素敵な歌詞とともに流れる。

そうだね、悲しいね。昔、誰かが「ニヒリズムぎりぎりのオプティミズム」という言葉を使ったけど、そう、人生は方丈記で言う「うたかた(水面に浮かぶ泡)」のように、そして「ゴミ」のように続いて最後には全員が平等に骨になるのだけど、それでも生きて行く、楽しみを見つけしみじみ味わって行くんだ、という楽観が、僕たちを支え続ける。

 ところで、遂に80億人に達した世界の人口のうち、10億人が深刻な飢餓状況に陥っているらしい。これは、せっかくオギャーと人間に生まれても、8人に1人は食べることさえ難しいということだ。だからあんまり贅沢を言ってはいけない。羨んではいけない。世界は広く、まだまだ途方もない悲しみが広がっているのである。この小さな島国で、かつて繁栄を極めた古い国で、僕たちは、最後まで逃げ切る為に目の前の富にしがみ続ける年寄りたちをおんぶしながら、ヨロヨロしながら、それでも、それぞれのやり方で黙ってサバイバルをして行くのだ。

目の前の小さな幸せを見落とさないように、ゆっくり生きて行こう。

アジアの僻地で食べていた、あのダイナミックな野菜炒めを思い出しながら、僕はニヤニヤとYouTubeを観ている。

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ロスジェネ藝術論(仕事探しの間の休日に)

芝居のチラシを見て、演劇と演技を考え、バイオリンと旧車の曲線美を思い出し、芸術の秋を感じた

 古いアルバムの積み重なった隙間から芝居のチラシが出て来た。休日に部屋で衣替えをしているうち、アレ、これ懐かしい本だぞ、なんて読み出して、衣替えは遅々として進まず、ついでにCDラックはもう邪魔だから捨ててしまおうか、なんてあれこれ引っ張り出しているうちに部屋がどんどん乱雑になり、遂に怒られ、ハイハイやりますよって片づけていたら、懐かしいそのチラシを見つけた。

 別に自身が芝居をやっていた訳ではない。学生時代に、芝居見物が好きだった友人から劇団を旗揚げするから手伝ってくれと言われ、裏方として手伝ったことがあった。人集めとか練習場所の確保とかそういった類(たぐい)だ。学生時代の僕は、映画でも音楽でも絵画でも、要するに創作されたものがなんでも好きだったから、芝居見物もよくした。その延長で、趣味の高じたその友人の手伝いをしたのである。

 旗揚げされた劇団は学生も社会人も混ざっており、土日を使って練習していた。夏には清里のコテージで合宿までやり、朝から晩まで役者の人たちがそこで練習をしていた。そして夜はお楽しみの飲み会だ。芝居をやる連中はそもそも表現したくて仕方がない人たちだから、たいていディープなキャラをしている。毎晩、激しく、ちょっと乱れつつ、楽しい飲み会をした。いわば古臭い言い方をすると青春の一幕として、そこで出会った懐かしい面々が僕の記憶に残っている。参考の為に彼ら(彼女ら)と一緒に見に行った他の劇団の公演や、そこで知り合って一緒に飲んだ別の劇団関係のやっぱりディープな人たちのギラギラした雰囲気が、そのチラシを見てふと蘇って来た。そうそう、これはまさに、あの連中と一緒に東京中あっちこっちの芝居を見に行っていた頃、パンフレットに挟まれていたチラシの一つだ。

みんな元気にしているんだろうか?

もう普通の中年として、あるいは良き父親、母親として、フツーに生活しているんだろうか?

地元に帰った?

それともまだ、東京のどこかの場末の酒場で演劇論を熱く語りながら、夢を追いかけ続けているのだろうか?

 高校生の頃、小林秀雄とか加藤周一とかの評論を読み漁っていて、他にも山崎正和の芸術論がとても読みやすく、僕は大好きだった。その中にアランの芸術論を紹介した文章があって、一言で言うと、「自分はこれがイイと思うんだ!これがまさに自分なんだ!」にたどり着く道(創作活動)の上で、素材の抵抗というものが重要、という話があった。例えば彫金師は、銀の皿に自分の表現したいイメージを彫り続けるが、その際、銀という金属の固さが鏨(たがね)を持つ手に伝わり、その固さと闘いながら、いわば素材の抵抗を受けながら、少しずつ自分の主題を形にして行く。だから、素材の抵抗とは、作り手にとって、自分の主題を見える化して行く重要な契機であり、逆にすんなり抵抗なく作ってしまっては、しっかりと自分の主題を見つめ直す時間が足りないので、結局、そのような作品は簡単に作れるけど、やっぱり迫力がない。僕たちが「手作り」で丁寧に作ったモノに感動するのは、そんなところに理由があるのである。

 これは工業製品にも当てはまる。コンピュータで製図をする前までは、車のデザインだってカメラのデザインだって、炊飯器のデザインだって、みんな人の手で描いた。車のデザインも、CADなんてなかった時代は、デザイナーが手書きでラインを引き、それに基づいてクレイモデルを作った上で、板金をプレスする金型を作成した。

「だから昔の車の曲線は暖かいんだ。ボクは製図を手でやっていたころの工業製品の曲線の暖かさが好きで、いつか旧車に乗りたいと思っている。曲線はね、人の手が生み出すと、暖かいもんなんだよ」

前に勤めていた会社の工場に、派遣社員として現場で作業者をしていたカマタさんという人がいた。僕より2つほど年上で、九州の名門国立大学を出て、大阪のバイオリンを作る専門学校に就職し、上司のひどいパワハラを長期間受けて心を病み、退職して東京へ出て来た。東京で正社員の中途採用の試験を何社も受けたが門戸は全て閉じられていたので、カマタさんは仕方なくアパートの家賃を払うために、派遣社員で作業者として働くことにした。当時ではごく普通の話だ。誰も守っちゃぁくれないのである。つぶれる奴はつぶれるし、誰も気にしない。そもそもパワハラなんて言葉も概念もなかった。野垂れ死にする奴はするだけで、誰も気にしないのである。それが僕たちの20代だ。そうして、僕たちの70代や80代の頃には、若者ではなく今度は年寄りとして、再びそういう扱いを受ける時代がやって来るんだろう。野垂れ死にする奴はするだけで、どうせ誰も気にしないのである。

カマタさんは工場で毎日汗まみれになって作業しながら、少しずつお金を貯めていた。いつかどこかの田舎に移住して、自分の工房を持ってバイオリンを作るのが夢だった。僕とは妙に気が合い、よく会社の帰りに飲みに行った。非常に温厚な性格で、謙虚で、物知りで、焼酎が大好きだった。

「人の手が生み出すと、曲線は暖かいもんなんだよ」

酔って紅潮した顔をこちらに向け、カマタさんは微笑みながら静かに語っていた。渋谷の安酒場で飲んでいて、熱い夏の夜だった。これも懐かしい思い出だ。

今はどこにいるんだろうか?

無事に生き延びている?

自分の工房でバイオリンを作るという夢は叶った?

その工房のガレージには、いつかカマタさんが乗りたいと言っていた、あの暖かみのある曲線を持つ昭和の旧車が停められている?

 一方、芝居という芸術の創作活動にあって、素材は人間そのものであり、素材の抵抗とは、その人間の肉体と個性である。肉体は演技の練習によってある程度、制御できるかもしれない。一生懸命に技術を磨けば、それなりに演技できるようになる。でも個性は制御が簡単ではない。演技の向こう側に、制御できない自分の個性が滲(にじ)んだ時、役者はその役になり切れず、しかも見え隠れしているその個性が平凡でしょうもないものだったら、確実に大根役者と呼ばれる。

だから、芝居という芸術では、画家がキャンバスに向かって格闘するように、役者が自身に向かって格闘しているのである。迫力がない訳がない。芝居に関わる全てが迫力だらけである。そこにディープな魅力を感じ、そこに魅せられ、抜け出せない人が多いのは当たり前の話なのである。「自分はこれがイイと思うんだ!これがまさに自分なんだ!」に向かって、自分の肉体を、個性を、人格を、人生を、全力で投げ出すのである。

 出て来た古いチラシを手に、そんな懐かしい人たちの事を思い出していた。いかん、いかん、全然、衣替えが進まないぞ。部屋の状況は更に悪化している。また怒られるかも・・・

僕は一瞬そのチラシをゴミ箱に捨てかけ、やっぱりアルバムの隙間に挟んでおいた。今度目にするのは何年後だろうか?

晩秋の休日の昼間の木漏れ日が、部屋に柔らかく射していた。もうすぐ冬がやって来る。

僕は衣替えしながら、こうやってどんどん年を取っていくんだなぁ、なんてぼんやり考えていた。確実に言えるのは、「自分はこれがイイと思うんだ!これがまさに自分なんだ!」の挙句に、全員どのみち骨になるということである。芸術に打ち込もうが、仕事に打ち込もうが、家庭に打ち込もうが、独りでいることに打ち込もうが、いずれ僕たちはみんな、たった数十年で平等に骨になる。

いかん、いかん、って僕は冬物の服を衣装棚から取り出し、順番にクローゼットへ掛けて行った。今年は寒いのかな?なんて呟く。あと数時間したら、家人を車に乗せて、前から行きたいと言っていた中華料理店へ連れて行かなきゃ。

もうすぐ冬がやって来る。

僕の生きる時間は、そうやって静かに過ぎて行く。

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ロスジェネ旅行論(仕事探しを少し離れて)

嬬恋再訪で、父親の思い出とキャベツ畑の記憶の為に、軽井沢でペイネのグラスを買った

 秋の初めに嬬恋へ行った。再訪である。浅間山の麓(ふもと)一帯に広がるキャベツ畑を観たいと思っていたのだ。

夏前に初めて行った時はまだ時期が早過ぎた。キャベツは芽が出始めたところだった。でも、もしこれが全部丸いキャベツとして成長したら、きっとすんごい景色なんだろうな、いつか絶対に観に来たいな、なんて思っていたから、ついに念願がかなったのである。

で、実際に目の当たりにしたけど、こりゃ有名になるだけあると思った。広大な畑に緑色のキャベツたちが延々と育っていた。その向こうに浅間山と高い秋空が広がり、まさに壮観である。

僕たちは車に乗って、どこまでも続くキャベツ畑の間を走り抜けた。美しい景観だった。最高のドライブコースだ。何度も行ったり来たりし、「愛妻の丘」でおにぎりを食べ、また走り出した。ずっと走っていたい風景だった。

 その昔、ヤマトタケルが東国征伐に行く途上、海上で暴風雨に遭った。船はうねりに飲み込まれ、岸辺に戻ることさえ出来ないひどい嵐だった。同行していたヤマトタケルの妻は、戦(いくさ)に女である自分が付いて来てしまったので、きっと海の神が怒っているのだと考え、沈みそうになるその船から荒れ狂う海に身を投げた。結果、海は嘘のように静まった。ヤマトタケルは無事に東国に到着し、その後、あまたの豪族たちを打ち負かし、伝説を作り、無事に都への帰途についた。

そうして浅間山の麓に来た時、空を見上げたヤマトタケルはふと、自分を想って身を挺したあの妻の事を思い出した。急にたまらなく恋しくなって、「あぁ、我が妻よ!」と泣き叫んだ。

そこから嬬恋のある「吾妻(あがつま)郡」や「嬬恋(つまこい)」の地名が生まれた、という事らしい。

なるほどねぇ、なんて、延々と続くキャベツ畑を横目に、僕はハンドルを握っている。ヤマトタケルがほとんど神話の人物であり、実在したかどうかはともかく、少なくとも、仕事はバリバリ出来たが、男としては平凡な人だったんだろね、って考えてしまうのだ。一人の平凡な男として、だろうね、って思うのである。

若者から脱皮して以降、仕事の面白さが分かり始めると、ベテランの一人としてある程度の役割を任され、或いは担い、さらに面白くなって、生活や価値観の中心にシゴトを据えてしまうのはよくある事だ。仕事に没頭しているその間、他のこと、例えば家族や友人や自分の趣味でさえ、二の次になるというのは、一種の幼児性であり、男が陥りがちな、どうしようもなさでもある。本人にとっては、妻も子供も実は人生の副次的な産物に過ぎず、シゴトに、もっと厳密に言うと「シゴトが出来る自分に」夢中になってしまうのである。妻の小言を聞いている間も、子供と一緒に遊んでやっている間も、頭の中は仕事のことでいっぱいで、どうやって結果を出してやろうか、そんな事をずっと考えている。

で、そんなのは所詮、バランスを欠いた幼児性でしかないから、仕事が一段落したりとか、転職や部署移動で新しいステップに移る直前のエポックに入った時とかに、急にふと我に返るのだ。

アレ?いつの間にか自分は独りで立っているぞ、あんなに自分に向かって笑顔で話しかけてくれていた、そしてその時はちょっと自分は億劫だと思っていた妻や子供たちは、もうそこにいない。いても既に心を閉ざしていて、こちらを見てくれない。全然話しかけて来ない。こちらから話しかけてみると、かつて自分が面倒だと感じていたように、妻や子供たちは露骨に面倒くさそうな態度を取るばかりだ。

アレ?なんでこんなことに?と気づいた時には既に遅く、あとは寂しい思いのまま、仕事に没頭し続け、それで結果が出続ければいいけど、どこかで頭打ちになって自分の限界を知ってしまうと、その後は「シゴトが出来る自分」さえ感じることも出来ず、家では誰も話しかけて来ず、茫洋(ぼうよう)と生きて行く。バランスを欠いたかつての幼児性の罰を受けるのだ。組織にとっても、誰かにとっても、それほど重要な存在ではない。平凡な男の人生の、平凡な中年期が到来するのである。

 という古臭い生き方を否定し、奥さんや子供のために会社員生活を辞め、バンライフで日本一周したり、地方の田舎に移住して自給自足の生活をしたり、要するに「家族」の為に自分の時間(=命)を費やそうと覚悟を決めた若い男たちが、YouTubeで溢れかえっている。これも一つの世相だ。改造した車で寝起きし、焚火で沸かしたコーヒーをニコニコ笑って飲んでいる。みんな幸せそうだ。リモートワークで仕事しながらバンライフを楽しむ夫婦も多い。もはや、ヤマトタケル的な男の平凡さは、平凡ではなくなりつつあるのかもしれない。

 が、40年前の昭和の時代にあって、同世代の大半がモーレツ社員として「平凡な」男の生き方を選択していた頃、僕の父親は明らかに違う生き方を選択していた。生活のすべてを家族とともに過ごし、自分の好きなことに時間を費やし、仕事は二の次だった。まるでYouTubeに出て来る今の若いカップルの男のような、そんな生き方だった。

時代の先を行っていた?

いや、ちょっと風変わりな男だったのだ。

朝、といっても既に昼前になって、ようやく布団から出て来た父親は、台所で新聞を読みながら、何時間もかけて妻の作っておいてくれた朝ご飯を食べる。朝ご飯は、妻がパートに自分の昼ご飯として持って行ったお弁当のおかずの内容と一緒だ。ハンバーグもあれば煮物もある。食パンを焼いてジャムを塗ってサランラップに巻いてあったりもする。大好きな妻の手作りの料理が、彼はなんだって大好きだ。新聞を読みながら、ゆっくり味わって食べ、優雅な朝食の時間を過ごす。

昼頃、ようやく仕事部屋に向かって作業を始める。高級紳士服の仕立ての仕事だ。仕事部屋には隅の方に二つの勉強机が置いてあって、家の中では二人の息子たちはここで勉強したり遊んだりしている。大好きなジャズのナンバーをかけ、ハイライトをスパスパ吸い、裁断ばさみを手に腕前をふるう。腕前はコンクールで表彰されたくらいいい。そしてちょっと疲れたら台所に行って、近所からお裾分けでもらったお菓子か何か甘いものを口に放りこみ、めっぽう濃いコーヒーで流し込む。

で、そのまま仕事部屋に戻るのかと思いきや、自転車に乗って近所のホームセンターに向かう。下の息子が「ニワトリを家で飼って卵を産ませ、その産みたての卵を食べたい」と言っていたから、お手製のニワトリ小屋を作ってあげる予定なのだ。

ホームセンターで木材と、扉に使う蝶番(ちょうつがい)などの金具一式、それからニワトリがフンをしたら網目越しに下にポトリと落ちて、新聞紙を敷いた底の引き出しから簡単に取り出せる(簡単に掃除が出来る)ような工夫をするので、金網などの材料も買って、自転車の後ろの荷台に括り付け、帰って来る。一回では持って帰れないから、二往復して家に材料を揃える。

材料が揃ったら早速、大工仕事だ。大工仕事は子供の頃から大好きだ。ニワトリ小屋だって子供の頃自分で作ったし、それを今回、下の息子の為に作ってあげたいのだ。事前に鉛筆で書いた図面をもとに、ノコギリで木材を切り、釘を打って組立て行く。

夕方前までそうやって好きなことをしていると、上の息子が小学校から帰って来る。慌てて仕事部屋に戻り、仕事を再開だ。しつけ縫い作業の続きを始める。

上の息子は学校から帰って来ると、勉強机に向かって勉強を始めた。学校の宿題はすぐに終わらせてしまい、いつもやっている通信教育の算数と国語のドリルをやって、それを自分のところへ持ってくる。自分は仕事を中断し、手元の解答集を使って答え合わせし、間違ったところについては、解答集の解説を読みながら、間違いの理由と正しい解答を教えてあげる。上の息子は下の息子と違って本当に勉強が好きだ。一生懸命間違ったところの説明を聞いている。そしてその通信教育のドリルが終わると、今度は最近始めたNHKラジオの基礎英語を聴き始めた。そうやって夕ご飯までずっと何かの勉強しているのだ。

夕方になって、やっと下の息子が帰って来た。コイツはいつも、さんざん道草しながら小学校から帰ってくるから、こんな時間に家に着くのだ。上の息子と違ってあんまり勉強が好きじゃないから、家に帰ってからも、台所でお菓子を食って牛乳を飲んでダラダラやっている。お前もお兄ちゃんと一緒に勉強しなさい、と台所へ言いに行ったら、「ニワトリ小屋は?」と聞かれ、つい庭へ一緒に出てしまった。

下の息子が熱心に作りかけのニワトリ小屋を見ている。これからどんな風に完成させるのか、話してやると「いつできるのか?」と目を輝かせて聞いてくる。本当に楽しみで仕方ない様子だ。ニワトリは近所の養鶏場からひな鳥を分けてもらう予定である。この子は生き物が大好きだから、完成したニワトリ小屋で飼い始めたら、きっと本当に喜ぶんだろうな、なんて考える。

妻がパートから自転車で帰って来た。マズイ。昼間あんまり仕事しないで過ごしていたのがバレる。慌てて仕事部屋に戻り、仕事を再開する。妻が家の中に入って来た時には、まるで朝から一生懸命仕事し続けていたかのような様子で「おかえり」なんて言ってみる。下の息子も、さっきまで一緒に庭でニワトリ小屋の話をしていたのに、今はちゃっかり勉強机に座って、今まで勉強していたかのように振る舞い、妻に「お母さん、おかえり」なんて言っている。コイツはそういう奴だ。上の息子は無表情に、ずっと勉強机に向かって何かの勉強を続けている。

妻が庭に干してあった洗濯物を取り込んでたたみ終わると、自分は台所へ行って妻の為にお茶を入れてあげる。パートから帰って来た直後、夕ご飯を作る前のこのひと時が、彼女にとって1日で一番ホッとする大切な時間なのだ。お茶を入れてあげ、テーブルに向かい合って座り、妻の仕事場での愚痴をずっと聞いてあげる。自分は妻のことが大好きだ。この貧乏な借家暮らしにも文句を言わず、パートに出て家計を支え、子供たちにとってよき母親をやってくれている。そして何より美人だ。よく息子たちの前でも「君って美人だね」と言って怒られることがあるが、本当にそう思うからつい口にしてしまうのだ。

夕ご飯は家族全員で7時のニュースを見ながら食べる。アナウンサーのスーツの仕立てがカッコ悪いとプロらしく批判してみるが、家族は誰も反応しない。上の息子は黙って黙々と食べ、下の息子は料理の味付けが薄いと文句を言って妻に怒られている。

夕食後、8時くらいまでは子供たちと一緒にテレビを見ている。世界名作劇場とか、うる星やつらとか、要するにアニメを一緒に見る。これが結構面白い。月曜日は7時のニュースの代わりに北斗の拳を見る。

8時過ぎにお風呂に入って仕事部屋に向かう、ここからは比較的真面目に仕事する。洗い物を終えた妻がやって来てミシン縫いを手伝ってくれる。子供たちが勉強机で本を読んだりしているから、ジャズは聞かず、4人家族で同じ空間で黙々と時間を過ごす。

子供たちが寝室へ寝に行き、妻も寝に行く。もう12時前だ。カセットテープに録音した浪曲とか落語を小さな音で聞きながら、ハイライトをスパスパ吸って、マイペースに仕事する。家族は隣の部屋で眠っている。静かに夜はふけて行き、明け方まで黙々と仕事する。

そんな気ままな職人生活を長々やって、全然稼げず、バブルの真っただ中で失業し、もはや正社員として雇ってくれるところはなかったから、バイト生活を始めた。それまで職人として生きて来たプライドが打ち砕かれた部分もあったと思うが、だからと言って気持ちが荒れることはなかった。バイトから帰ってくると、子供たちの勉強の相手をし、相変わらず妻の為にお茶を入れた。父親にとってあくまで主軸は家族と自分の好きなことだったのである。一風変わった人だった。

 そこからさらに遡(さかのぼ)ること20数年前、日本が高度経済成長期に入ったころ、地方の農村で生まれ育った父親は、中学だけ卒業して地方の都市部に集団就職した。「かっこいいスーツを自分で作って着てみたい」という夢があったから、仕立て屋の職人に弟子入りし、兄弟子たちと一緒に寝起きしてひたすら修業した。

その数年後、修業を終えて独立すると、親類のおばさんが縁談を持ってきた。相手は自分が生まれ育った村の隣村の評判の娘だった。写真を見ると無茶苦茶かわいい。5人兄弟の一人娘で、大切に育てられたらしい。一張羅(いっちょうら)のスーツを着て、見合いすることにした。実際に会ってみたらホントに美人だった。しかも気立ても良さそうだった。結婚することにした。最初の子供は流産してしまったが、やがて長男が生まれ、次男が生まれた。

家で仕事し、家族とともに時間を過ごし、酒は飲まず、付き合いは一切せず、自分の好きなことをして、大好きな妻と子供と一緒に暮らし続けた。途中で仕事が無くなったが、バイト生活をしながら暮らし、そのうち成長した息子たちは順番に家を出て行き、そうして60歳になった時、肺に癌が見つかった。

 父親が癌で手術を受けた時、僕は群馬の工場で働いていた。20代の半ば過ぎだった。母親からの電話で手術の話を知り、しかも「メスで開いたが全身に癌は回っていて、もはや手遅れ」という話だった。僕は群馬の借り上げアパートの一室で号泣し、翌日、有休をもらって電車を乗り継ぎ、新幹線に乗って帰省した。

地元の病院に到着すると、すっかりやせ細った父親がそこにいた。僕は前日に一人で号泣しておいたから、冷静さを装うことが出来た。軽く右手を上げた。父親は不思議な表情でこちらを見ていた。

半日くらい病室でとりとめの無い会話をし、いよいよ帰る時間が来た。もうこの様子では、次に会うのは危篤状態になってからだと分かっていた。

「じゃぁ、行くよ」

「遠いところ悪かったな」

「うん」

「母さんを頼むぞ」

僕は振り向かずにそのまま病室を出て、階段を降り、病院を出て駅に向かって歩き出した。涙が止まらなかった。まだ20代半ば過ぎだった。何一つ親孝行していなかった。早過ぎる、という怒りがこみ上げていた。

「母さんを頼むぞ」

本人に告知はなかったが、先がない事は悟っていたのだろう。大好きで仕方ない妻と一緒に暮らし、その大好きな妻に看取られて死んでいく一人の男があそこにいた。

僕は電車に乗って群馬へ戻った。

 そんな群馬にある嬬恋村だ。僕は家人を助手席に乗せ、キャベツ畑の間を走り続けている。秋空はどこまでも青く、どこまでも高い。運転しながら、ずっと父親のことを考えていた。

 宿は前回と同じ旅館を予約して宿泊し、夕食に旬のキャベツ料理を腹いっぱい食べた。キャベツの冷静スープ、キャベツと豚肉の冷しゃぶ、回鍋肉など、全部が本当に美味しく、大満足だった。キャベツって本当に美味しい!

翌日、軽井沢を抜けて家路につくことにした。途中、ペイネ美術館へ立ち寄って作品を眺め、グラスをお土産に買った。ペイネは好きな人と長く長く一緒に暮らし、90歳まで生きたフランスの画家だ。「ペイネの恋人たち」というシリーズの作品をたくさん残していて、ほのぼのとした画風は見る者の心を本当に穏やかにする、そんな画家である。

 僕はめったに土産物を買わないが、グラスに刻まれたイラストがあまりにも魅力的で、父親の思い出と、今回の家人との嬬恋旅行の思い出と、キャベツ畑の記憶と、そして何より祈りを込めて、そのグラスを買った。

「あぁ、我が妻よ!」

ヤマトタケルの泣き叫ぶ声は、未来永劫(みらいえいごう)、どうしようもない男たちが放つ、哀しい咆哮(ほうこう)である。嬬恋(つまこい)なんてロマンチックな名前だけど、情けない男の姿が表裏一体となった、際どい名前だと思った。

秋の突き抜ける青空が、運転席の頭上いっぱいに広がっている。僕は平凡な男の一人として、ここで生きている。

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ロスジェネ美食論(仕事探しの活力の為に)

落ち込んだ時に効く魔法のコトバをきっかけに、人生で出会って来た料理の数々を思い出した

 仕事でもプライベートでもなかなか上手く行かない、前に進んでいかない、苦しい、みじめだ、空しいなんて、腐るほど経験するのがフツーだけど、それが「フツーだよね」って寝そべりながらゲップでもするように言えるのは、その人が年をとっているからである。人間の年齢は我々に、肉体の衰えという悲しい試練を与えるが、同時に、「面の皮が厚くなる」という素敵な贈り物もくれるのだ。

が、若い人はそうは行かない。若い人たちは可能性という希望がある一方、傷つきやすさの呪縛の中で生きている。なかなか上手く行かない、前に進んでいかない、苦しい、みじめだ、空しい、のまま落ち込んで行き、そのまま気持ちが底の底まで墜落して行って、ある日、「仕事を辞めようと思います」と打ち明けて来る。

何?仕事辞めてどうするの?ユーチューバーになってバンライフとか始めるの?仕事なんてどこだって一緒だよ。どうせ天然資源がこれぽっちもない貧しい国なのに、しかもこんな年寄りだらけの国なのに、GDPが未だに世界第3位だなんて、みんなヒドイ目に遭いながらヒーヒー言って働いて税金納めて何とか成り立っているのがこの国のカラクリだよ、どこの会社行ったって国を飛び出さない限り一緒なんだよ。この国で働くってそういうもんだよ。

なんて言ってはいけない。これはド昭和の言説である。そんな事を落ち込んでいる若い人に言っても、「昔はね、防空壕というのがあってね」と僕たちが子供の頃、お爺ちゃんやお婆ちゃんから聞いてポカンとしていたように、彼らの心に何も響いて行かないのだ。

で、若い人が離職するのは、会社組織がそもそも古いとか、日本という国がそもそもオワっているとか、そういう事は置いておいて、マネージャーたちが活き活きした職場づくりを出来ていないからだ!と人身御供(ひとみごくう)のように中年たちが責められ、責められたそんなマネージャーたちがため息をついてうなだれているのを見て、あぁ、あれが自分たちの数十年後か・・・なんて若い人たちはますます仕事を辞めて行く。これが世相というやつだ。

落ち込んだ時にどのようにそこから抜け出せばいいのか?これを傷つきやすさの呪縛の中にいる若者たちに、どうやって効果的にアドバイスするのか?

若い部下の人たちと面談をする度にその問いを考えてみるが、これだけ年齢が離れると、世代が違い過ぎて、つまりは価値観が違い過ぎて、そのくせ一緒に生きているこの国や社会は老人たちが牛耳り続け、昔のまま閉塞感でいっぱいで、希望のある上手な答えが見つからないのである。

「苦しい時には、自分のそれまでの人生を振り返ってみて、一番みじめで悲惨だった頃の自分を思い出すんだよ」

僕が若者だったころ、上司だった40代の課長が僕にそうアドバイスしてくれた事があった。もちろん、これは昭和のアドバイスである。今じゃ全く使えない。

「これまで頑張って来て今の君があるわけでしょ。昔、頑張って乗り越えて来たその過去の自分がさ、大丈夫だよ、あんな大変な時期も乗り切って来たんだから君は大丈夫だよ、なんてな具合に、今の自分を励ましてくれるんだよ。最後の最後に自分を支えるのは、親でも友達でもなく、過去の頑張った自分であって、その自分が今の苦しんでいる自分の横に立って励まし続けてくれるんだよ。」

これは昭和のアドバイスをちょっと丁寧に言い換えただけである。平成くらいまでは通用したけど、令和の若者にはやっぱり「防空壕」でしかない。はぁ~・・・

という話を家人にしたら、

「イヤなことがあった時は、美味しい食べ物のことを考えればいいのよ」

と明快なお言葉を頂いた。男前な見解である。

美味しい食べ物かぁ、なるほどね。確かに、人は美味しい食べ物を食べている間は、死にたいなんて絶対思わない。

僕はそっと頬を撫で、出来る限り長生きし、そしてこの人より数日だけ長生きし、見送る時には院号に「満腹院(まんぷくいん)〇〇〇〇」と付けてやろうと密かに考えている。

結婚前に家人が作ってくれた迫力いっぱいのアップルパイ

画質が悪いのは大昔のガラケーで撮影しているから。でも初めてこれを作ってくれた時、そのリンゴの大きさに、そして全体のつくりの迫力に圧倒され、その向こう側でこちらをニコニコ見ている家人の笑顔にすっかり参ってしまって、僕は携帯電話をおずおずと取り出し、撮影した。もう大昔の話だ。でも人生で本当に「美味しかった!」食べ物の一つである。

中国の奥地で食べた舌の根元まで痺れる本場の本物の麻婆豆腐

駐在時代に中国の山奥のローカル料理屋で本場の麻婆豆腐を食べた。本物の麻婆豆腐は「辛い」のではなく「痺れる」のである。その痺れ方が癖になるほど美味しく、僕は何杯もお替りした。

神戸へ遊びに行くたびに必ず食べるずらっと並んだ明石焼き

さあ、片っ端から食べるぞ!という感じで、お椀にだし汁をいっぱい満たし、箸でつまんでパクパク食べ始める瞬間のあの幸せ。

郡上八幡で郡上踊りを見に行ったついでに食べた鯉のあらい

鬼平犯科帳を読んでいて、頻繁に登場するのが、軍鶏鍋とこの「鯉のあらい」。昔から食べたくって、いつか食べようと思って、郡上踊りを見に行った時に立ち寄った老舗の料理屋で、念願かなってついに食べることが出来た。酢味噌をつけてキュッと食べたら喉越しがサイコ―!日本酒が欲しくなる訳です。

道後温泉に浸かったあと道後ビールを飲みながら食べた鯛めし

鯛めしというのを、そんなに期待していなかったのに、食べ始めたら止まらなくなって、お櫃(ひつ)を空けてしまった。鯛のだしは、コメを別次元の美味しさに進化させる、というのを思い知った。腐っても鯛、だなんて、昔の人はよく言ったもので、鯛って魚の中ではやっぱり別格なんだね。

温泉旅館の自動販売機で売っている焼おにぎり

温泉と言えば、旅館で湯に浸かっては出てビール飲んで、湯に浸かっては出てビール飲んでいるうちに、夜半、ちょっと小腹がすき始めると、ふらふらビールの自販機の隣の食べ物関係の自販機に行って、ついつい買ってしまうのがこの「焼おにぎり」だ。

中身はこんな感じ。自販機で温められてから出て来るので、開ければ芳ばしい香りがプンと飛び出して来る。ハイ、またビールが進みます。

ふと立ち寄った料理屋で出て来たブリかまの塩焼き

ブリかまの塩焼きなんて、近所のスーパーで買って来て家であら塩をまぶして焼いて作れるから、ちょっとこんなお金を出して食べるかな?と迷ったけど、注文して大正解だった。プロの手にかかると、塩の種類、焼き具合でこんな風味豊かな「料理」になるのかと、ひどく感嘆したのを覚えている。あれ以上美味しいブリかまの塩焼きを、僕は食べたことがない。

海老と甘露の東海寺焼

胡蝶蘭という出て来る料理全部が絶品の旅館で食べた焼物料理。「ワカメ、シメジ、玉ネギ、ベーコン、チーズ、パスタ、パセリ」が入っていて、要するに美味しいものをギュッと器に詰め込んだ美味しい一品だった。

「おふくろの味」の一つである桜餅

田舎育ちの人だから、母の料理はなんでも味が濃くて、餡子はめっぽう甘く、周りを包む桜の葉はめっぽう塩辛い。その田舎臭い味付けも含め、愛情のこもった「おふくろの味」。

あ、元気が出たかも。

ひどい一週間を終えて、あぁもうウンザリだよ、キツいよぉ、なんて落ち込んだ気分のまま、死んだように眠る週末だけど、これまで食べて来た美味しい食べ物の数々を思い出しているうちに、なんだか気分がすっかり良くなって来たぞ。

「イヤなことがあった時は、美味しい食べ物のことを考えればいいのよ」

僕はこの単純明快な魔法のコトバを思い出し、お風呂に浸かっている。今日は金曜日の夜だ。

さて週末。ゆっくり休もう。

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ロスジェネ美食論(仕事探しの活力の為に)

たねやの末廣饅頭を食べながら、秀次の人生と角川映画ばりのブルジョワ家庭のお坊ちゃんの事を思い出す

 「たねや」の末廣饅頭(すえひろまんじゅう)が食べたくなって、家人を連れて近江八幡を訪れた。残暑のまっすぐな青空が頭上いっぱいに広がる休日だ。

 近江八幡は八幡堀を挟んで古い町屋が建ち並ぶ美しい水郷の街である。豊臣秀次が築いた城下町を起源とし、一日のんびり歩いて過ごすにはちょうどいいくらいのサイズで、土産物屋も多い。

僕たちは八幡堀沿いをゆっくり歩き、時々立ち止まって手漕ぎ船が流れて行くのを眺め、たねやに向かった。本当に美しい街である。豊臣秀吉の甥である秀次は、18歳でこの地に入城し、街を築き、大人たちに補佐されて善政を敷いた。彼はこの地では名君として名を残すことが出来た。

で、末廣饅頭である。黒糖を使った茶色い素朴な饅頭を、僕たちはたねやに入って並んで買って、店の外のベンチに腰掛け早速食べた。ちゃんと甘いけど、全然クドくなく、サイコーに美味しい。小さな饅頭なのでついパクパク行ってしまう。やっぱり焼きたては絶品だ!

和菓子を味わって楽しむというのは、年をとってからの格別な楽しみだ。逆に、スイーツとか洋菓子の類が、最近ではぜんぜん目が向かなくなった。ホテルのバイキング料理でも、デザートはさらっと果物を数切れ皿に盛る程度である。

和菓子については、昔は「餡子(あんこ)とか入っていて全部一緒じゃん」なんて思っていて、ほとんど興味がなかった。それが今や「いやいや違うでしょ、餡子の世界は深いよぉ」てな具合に、材料や製法によって種類がたくさん分かれるという話を饅頭を食べながらペラペラ喋って、やはり家人に「黙って食え」と言われる始末だ。

 豊臣秀次という人は、たまたま秀吉という天下人の甥っ子として生まれ、あれよあれよと高い身分がお膳立てされ(最後は関白まで)、あれよあれよと追い詰められて自害した。自害については、秀吉が謀反を理由に命令したという説以外にも、自分で身の潔白を訴える為にやったという説もあり、或いは石田三成を始めとする官僚たちの暴走だったという説もあるが、一人のお坊ちゃんが、なんか物凄い勢いで伯父さんが出世して行くのに引きずられ、大きなプレッシャーとざらっとした不安感を持ちながら、必死で生き、一瞬で死んだ、そんなイメージだ。

生まれ持って身分が用意されるというのは、その立場にならないと分からない重圧や不安を、実は本人はずうっと抱えて生きているので、傍目(はため)から見えるほど幸せでもなさそう、と感じるのである。これは現代でも同じである。

 大学生の時に家庭教師をした相手が、まさにそんな「身分を用意された」大金持ちの息子だった。先祖が横浜で代々続く名家で江戸時代からの豪商だった。父方は地元の不動産会社を一族で経営し、父親自身は誰もが名前を知っている一部上場企業の副社長をしていた。母方の祖父も財閥会社の会長を務めていた。一族ごと、とんでもないセレブである。

初めてその家に行った時、僕が元町の駅で待っているとベンツが迎えに来て、そのまま山手の高級住宅街へ車は入って行った。そして一軒の大豪邸の前で車が止まると、自動シャッターがゆっくり開き、車は中へ入って行った。20歳の貧乏学生だった僕は、ベンツの後部座席の中で小さくなりながら「堅気だよな・・」なんてやはり小さく手を握り締め、周りをキョロキョロ見ながら、思わず口に出して呟きそうになったのを覚えている。

教え子となるそのお坊ちゃんは、痩せた長身の子供だった。高校3年生だったから、当時の僕と2歳しか違わなかったが、ずっと子供に見えた。実際、話をしてみると中身も子供であり、ミニカーが大好きで、普通の家のリビングくらいある大きさの自分の勉強部屋の棚に、世界中から集めた大量のミニカーが並べて置いてあった。

「六大学くらいは挑戦させてやりたいので」

ご挨拶に来られた父親は、大組織の中にあってトップを走っていただけに、眼光鋭く精悍な体つきで迫力があった。息子が色白だったのに対し、その父親は物凄く黒光りした肌の色をしていた。ギラギラした現役の経営陣の一人だったのだろう。

で、そのあと学力テストをしてみて、僕は口をあんぐりと開けていた。六大学なんてレベルではない。そもそも勉強をするという習慣がない子供だ。高校1年生からやり直しが必要な学力である。もう夏休みを過ぎていたから、少しでも名前のある大学に行きたいのなら、どう頑張ったって現役では合格出来そうにない。あの迫力のある父親はそれで納得してくれるだろうか?

テストの後、初日ということで勉強はそれまでとし、今後の学習計画は僕がそのテストの結果を踏まえて立てて、次回持って来ることにした。スケジュールに合わせ、出だしで必要な参考書も買って来てあげる必要があった。

「ありがとうございました。お食事を用意しましたのでどうぞ」

通された「食堂」は最上階にあった。個人の家なのに5階建てで、僕は階段を上りその食堂に入って行った。

そこはガラス張りの広い広いリビングで、大きなテーブルに中華街から持って来させた料理の数々が並べてあった。ガラス窓の向こうは広いデッキになっていて、その向こうには眼下に広がる横浜港の夜景があった。僕はもう一度、口をあんぐりと開けた。昔の角川映画に出てきそうなブルジョアの住まいだ。そんなことを考えていた。そういや近所には沢田研二も住んでいるんだっけ。

その息子はそんなお城の中に住んでいて、友人はほとんどおらず、おそらく思春期に味わうべき「一般的な」楽しさも苦しさも味わってこず、ずっと家にいる母親との閉鎖的な環境の中で静かに生活していた。きちんとこちらと目を合わせて話が出来ず、ちょっとオドオドしていて、そのくせ口は悪かった。そして攻撃的だった。

「ボクが現役で大学行けなかったら、先生も親父にぶっ飛ばされるよ」

うん、確かにぶっ飛ばされそうだが、そんな事はお前に心配される話ではない。僕は買ってきた参考書と問題集を開き、まず勉強のやり方から教え始めた。決して頭が悪いわけではないのはすぐ分かったので、あとは興味を持って自分で効率的に取り組む術(すべ)を身に着ければ、光明は見えて来るはずだった。

家庭教師と生徒の関係というのは、どのみち受験という戦争に対面した戦友のような関係になるもので、最初は心を開かず、目をそらしながら「許せねえ」「意味が分かんねえ」「死んだ方がいいんじゃないの」なんて悪態をついていたその息子は、雰囲気は体育会系だけど中身は文化系のちょっと年上のこの先生に対して、少しずつ心を開き始めた。何しろ外の世界を知らないのだ。外の世界への好奇心でいっぱいだった。

 大学生活ってどんな感じ?先生もコンパって行ったことあんの?やった事ってある?やるってどんな感じ?先生ってどんな友達がいるの?何をして遊んでいるの?自分の母親が自分に干渉して来るので嫌で仕方ないんだけど、どうすればいい?あの父親とは子供の頃から普通に会話した記憶がないし、どうせ上手く喋れなくて「何を言っているんだ?」ってすぐ怒られるから、いつもこっちは黙っているんだけど、先生の父親もそんな感じ?先生は将来どんな仕事をするつもり?

 大学生活はそれまでに逢った事がない類(たぐい)の人と出会って友達になれるから、すごく楽しいよ。うん、コンパは時々行く。やった事もあるよ。どんな感じかって言うと・・・お前も早く大学デビューしてやりゃいいじゃん。寄宿舎に住んでいるから、同じ寮生が友達の大半だね。そいつらと寝食を共にして毎日、家族みたいに暮らしている。一晩中、屋上で酒を飲んで喋り倒したり、そのまま一緒に大学へ午前の授業を受けに行ったり、電車に乗って渋谷へ服を買いに行ったり、それこそコンパに行ったり、害虫駆除の臨時バイトに一緒に行ったり、いろいろだよ。母親かぁ・・・母親なんてそんなもんだよ。でもその干渉っぷりが、離れて暮らすと思い出すだけで有り難みを身に染みて感じ始めるから、お前も大学に入ったら一人暮らしをした方がいいぞ。僕の父親?親父は仕立て屋の職人をしていたけど、失業して今はバイトしている。「何を言っているんだ?」ってお袋によく怒られているような父親だよ。僕の将来の仕事?う~ん、な~んにも考えてねぇ。

 そもそも大学なんてその息子は行かなくても、将来は一族が経営している不動産関係の会社の一つを任せてもらえるだろうし、要するにいずれはどっかの社長になれるはずだった。が、その道を担保する後ろ盾の父親はあくまで厳しく、期待に応える為には頑張らなければいけないと思う一方で、必ずしも結果が出るとは思えず、一般の人々が暮らすずっと上の世界に彼はいたけど、そこは一本の綱の上のような場所で、いつか真っ逆さまに落ちるのではないのかという漠然とした不安を感じながら、高級な生活をしていた。あぁ、これが上流階級のお坊ちゃんって奴だね。僕はそう思っていた。僕のような平凡な庶民の息子は、頑張って石段を積んで行けば少しずつは上に上がって行けるが、そもそも人の一生に積み上げられる石段なんて大して高くないし、落ちたってちょっと怪我する程度の高さでしかないし、そういう遥か高い場所から真っ逆さまに落ちて行く不安なんて微塵もない。その息子が感じていたであろう大きなプレッシャーとか、ざらっとした不安感とは無縁の生活をしていたから、ぶっ飛んだ金持ちの家に生まれるのも大変なんだなぁなんて、思っていた。

 結論を言うと、やはり現役合格は無理で、一年の浪人の後、彼は関東では名前のある大学に合格した。約一年と半年間の家庭教師生活の中で、僕は友達のいないその息子の話し相手になり、遊び相手になった。母親が僕になつく一人息子の様子を見て非常に喜んでいたのだ。僕は夏には招待されて葉山の別荘で数週間を過ごした。午前中は勉強を教え、昼は海へ泳ぎに行き、ボートに乗って遊び、一緒に昼寝し、夕方には豪華なご馳走を頂いた後、夜はまた勉強を教えた。その息子はいつの間にか僕の目を見てしっかり話せるようになり、失礼な態度は取らなくなり、一生懸命言う通りに勉強して、一生懸命合格しようとしていた。この素直さが脆(もろ)さの裏返しなんだよな、なんて感じながら、僕は僕で貰っているお金だけの成果が出せるよう、一生懸命に勉強を教え、悩みごとの相談に乗ってあげた。

 合格した時、彼の父親は「そうか」しか言わなかったらしい。

その息子はそう言っていた。「やっぱり不満なのかな?」と僕に聞くから「自分で聞いてみろよ。息子が必死で頑張った結果に対して不満なのか?ってさ」と答えた。

 息子は結局、父親に「不満なのか?」を聞けなかったみたいだけど、そしてその後も父親に対してちゃんと向き合って会話できなかったみたいだけど、大学に入学後、母親の反対を押し切り家を出て一人暮らしを始め、その後、大学を辞めて起業した。後は知らない。もううんざりして我慢出来ず、高い場所にある一本の綱の上から思い切って飛び降りて、そこから自分の足で歩き始めたのかもしれない。

 なんて、たねやの末廣饅頭から豊臣秀次に想像が巡り、家庭教師をやっていた頃に出逢ったあの長身で痩せぽっちのお坊ちゃんの事を思い出した。もう四半世紀前の話だ。元気にしているんだろうか?思い切って高い場所から飛び降りて良かった?でこぼこの地面の上を、自分の足で立って歩くって本当に面倒でしんどいけど、結構楽しかったでしょ?と、今なら聞くかも知れない。

 秀次は、小牧・長久手の戦いで大失敗した時、秀吉に「このままの体たらくだったらいずれ手討ちにする」と宣言され、その後、秀吉の甥という事で自動的に身分を上げて貰いながらも、必死で武功を挙げ、善政を敷き、その細い綱の上を生真面目に歩き続けた。が、最後に謀反の疑いを掛けられ、謁見も許されず、高野山へ行けと言われ、それさえ素直に従った上で、あっさり腹を切った。一本の綱の上を歩くのがもう嫌になったのかもしれない。大きなプレッシャーの中で、漠然と不安を抱き続けた生涯を、彼は高野山で閉じることに決めた。

 八幡堀の上に広がる青空は澄み渡っている。僕は何百年も街の上に重ねられた歴史に包まれ、橋の上を家人とのんびり歩いている。

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ロスジェネ藝術論(仕事探しの間の休日に)

「何かいいなぁ」と芸術の必要性と人類の滅亡について考えてみた

 小学校5年生の時に現場学習でバスに乗って奈良に行き、薬師寺の本堂と東塔の美しい姿に息をのみ、土産物屋で見た赤膚焼(あかはだやき)の器(うつわ)の暖かい手触りとキッチュな奈良絵に感動した。なんて、どんだけジジ臭い子供だったんだと言われそうだけど、別にませていたわけではなく、或いは年寄り臭かった訳ではなく、末っ子だったので、「いいなぁ」と思う気持ちをそのまま素直に表せる環境だった。もちろん普通の子供だったから、キン肉マン消しゴムを集め、ガンプラの製作に熱中していた。

が、キン肉マンのキャラクターがカッコいいと思ったり、ガンプラのシャーザクの立ち姿に男の子のロマンと憧れを感じたのは事実だけど、それ以外に、もし他の友人たちが評価しないものであったとしても、自分がいいと感じたものはその気持ちを抑え込む必要が全くなかった。そう、「いいなぁ」という気持ちを臆することなく、そう感じた瞬間に口に出来たのである。

これは子供の世界にあって、幸せな環境だった。もしくは幸せなメンタリティだった。要するに、のびのびと育ててもらったのである。

 小学生時代のある日、いじめられっ子でクラス全員から嫌われていたキヨシが、宿題で書いてきた詩を朗読した。「水たまり」というタイトルだったけど、本当に瑞々(みずみず)しく、僕は「いいなぁ」という事で、一番いいと思った作品として投票した。だいたい、詩とかポスターとかが宿題で出て翌日の授業で発表があると、授業の最後に一番いいと思ったものをみんなで投票するのが当時はフツーだった。キヨシの詩に投票したのは僕だけだった。

他のクラスメイトの大半は人気のある学級委員長(スポーツ万能で勉強も出来て快活な性格)の作品に投票していた。子供の世界にありがちなカーストというやつだ。存在するのは全肯定か全否定の二択である。とにかく、キヨシの「水たまり」は濁った水たまりで泥んこになって遊ぶって内容だったから、いかにも普段から不潔な身なりをしているキヨシらしくて、机の下に自分の鼻クソを擦(なす)り付けるキヨシが書きそうな詩だという事で、恐ろしく不評だった。みな「キタナイ」という言葉を口々にしていた。

でも僕はその作品に繰り返し現れる「ちゃぽん」という擬音の使い方とリズムがとても好きで、聞いた時にいいと思った。友人たちはなぜキヨシのなんかに投票するのか?と訝(いぶか)しげだったけど、僕は一切気にしなかった。ほら昨夜、テレビドラマで山下清の話を見たでしょ?いい作品ってのは、あんな感じの人からあんな感じで生まれたりするもんよ、くらいの気持ちでいたのだ。もちろん、キヨシが授業を受けながら、鼻クソを自分の机の下に擦(なす)り付ける癖は大嫌いだったし、軽蔑していたが、それと作品の良さは別である。

 その後、自分の「いいなぁ」を大事にするのは、大人になってからも変わらなかった。若者時代になると、ちょっとアイデンティティの構築にも絡んで来るから、やっぱりありがちな話だけど、メジャーな作品の良さを認めつつ、少し拘(こだわ)りをもってミニシアターにマイナーな映画を観に行ったり、個性的な演劇、個性的なアート作品を見に行った後、喫茶店で煙草をふかしながら友人と感想を議論したりしていた。でも、普通の若者だったから、マニアックなジャズを聴きながら大学に通いつつも、普通にミスチルのCDを買って、「いいなぁ」なんて感動して聞いていた。あくまで自然体である。これは幸せなことだった。

世の中には自らの個性の強さをコントロールするのに苦闘し、叩きつけるように作品を生み出そうとする人もいるし、逆に自らの個性の無さに果てしない自己嫌悪を感じ、「人とは違う」趣味や感性を他人に見せつけることで何とか死なないで済ませようとする人もいる。

だから僕は、子供時代からのほほんと「いいなぁ」を自然に口に出来たことが何よりも幸せだったと思えるのだ。平凡ゆえの幸せというやつである。

でも、この「いいなぁ」は一体どこからやって来て、何のためにそんな気持ちが生まれるのだろうか?僕のように平凡に楽しみながら「いいなぁ」を呟(つぶや)ける人もいるし、「いいなぁ」の為に(芸術の為に)平凡な道を捨てて月と六ペンスの世界へ走り出す人もいるけど、いずれにせよ、われわれ人間にとってこの「いいなぁ」はどういう意味があるのだろうか?人間という哺乳類が種を存続させていく上で、「いいなぁ」は本当に必要?そういう疑問が湧いて来るのである。

 脳みその発達し過ぎた生き物として、人間は自由を手にした。昆虫を見れば分かる。昆虫に迷いはなく、生まれたら捕食し、消化し、排泄し、交尾し、産卵し、朽ちて微生物に分解されるか、その前に他の生物に捕食されるかだ。何かを見て「いいなぁ」なんて考える必要はなく、生きることに必要最低限の選択肢しかないから、そこに迷いもない。生きて、死ねばいいのである。

これが脳みそが発達し始めると、人間に近い哺乳類でも、好き嫌いが発生し、創造活動の一歩手前の「遊び」をやるようになる。イルカもチンパンジーも遊ぶ。

人間まで脳みそが発達してしまうと、抽象化能力なんて言葉はカッコいいが、要するに好き嫌いに個性が現れ、「何かいいなぁ」が始まってしまう。もちろん「何か嫌だなぁ」も同じように始まる。我々はこの「何かいいなぁ」と「何か嫌だなぁ」の間でたくさん迷い、或いは所属した文化の制約の中で我慢し、生きて行く。迷うということは、自由であるということだ。交尾一つをとっても、人間は嗜好が複雑化し、自由と言えば自由だが、昆虫たちから見れば「複雑で面倒くさそうだね」と思われかねない有様(ありさま)である。

どこかの学者が昔、「人間は本能が壊れた動物である」と言ったが、我々人間は、脳みそが発達し過ぎたせいで、選択肢が増え、自分にとって一番しっくり来るものを選ぶのに迷い続ける。「何かいいなぁ」を探し始めるのである。シンプルに、生きて、死ねない。

こうして芸術が生まれる。芸術は、創作する側も、創作されたものを鑑賞する側も、自分の主題(=何かいいなぁ)に出会う旅に出るということだ。脳みそが発達し過ぎて進化したせいで、自分の嗜好が何か、自分の個性が何か、自分が何か、我々は迷いの中で生きながら、芸術を通してこれを解決しようとする。ある人はのほほんと楽しみつつ、ある人は死に物狂いで寿命を縮めつつ、「何かいいなぁ」を追い求める。

ではなぜ「何かいいなぁ」が多種多様である必要があるのだろうか?種の存続にとって多様性は有利だから?

でも、モーツアルトに感動して神と崇める人、ジミヘンドリックスのギターに痺れる人、マイルス・デイビスのトランペットに涙を流す人が同時に存在することで、人間という種は存続するチャンスを広げることが出来るのだろうか?

これはよく分からない。多様性が種の存続にとって重要なのは分かるが、我々一人ひとりが「何かいいなぁ」を追い求めることが種としての進化の産物だったとしても、どっかの大国の権力者が核ボタンを「ポチっとな」と押すのに対抗できるとは思えないからだ。結果として、人間はやっぱり一種の失敗作だったのでは?と思う。恐竜は1億6千万年栄えて滅んだ。僕たち人間はアウストラロピテクスから400万年しかたっていない。人間は、これまでこの地球で発生し滅んで行ったあまたの生物の一つなのでは?なんて想像するのだ。「何かいいなぁ」はわれわれ人間が獲得した立派な進化であり、平凡な僕のような人間には幸せの糧(かて)だけど、核戦争の回避には役立ちそうにないのである。

赤膚焼の奈良絵から核戦争まで話が飛んで行ってしまった・・・

 ところで、話は変わるが「ムダの進化」という学説があるらしく、これは、生物の個体数が増え過ぎると異性にモテるための多種多様な進化が始まり、繁殖そのものへのエネルギー投資が疎かになって、結果的に個体数が減って行く、という話だ。

なるほど確かに、例えばこの国で言うなら、第二次世界大戦直後(1945年)に7千万人だった人口は、高度経済成長が終わった1960年末ごろに1億人を超え、そのすぐ後の1970年代に入って以降は婚姻率が低下をし始めた。社会が豊かになり人口が増えてピークを迎えると、恋愛そのものが社会の前面に押し出され、婚姻・出産といったイベントが後ろに下がって行く。

「世の中が豊かになったら、みんな何だかんだ言って恋愛は頑張るけど、結婚とか子育てに対しては慎重になるよねぇ」という東アジアで起こっている(真っ先に日本で起こり、今は中国で起こっている)状況を鑑みると、う~ん、東京ラブストーリーとかを始めとする昔のトレンディドラマは全部、「ムダの進化」の頂点だったのかなぁ、なんて思うのだ。種は増え過ぎると、繁殖そのものではなく、その前段階の「モテたい!楽しみたい!」に熱中し始め、結果として人口は減り始める。

で一方、種というのは増え過ぎると、殺し合いを始めるというのが往々にしてあり得るし、第二次世界大戦直後(1945年)に20億人超くらいだった世界人口は、もうすぐ80億人に達しようとしているから、もうそろそろ、どっかの大国の権力者が核ボタンを「ポチっとな」と押しそうだ。

そうすると、ひょっとすると、アレ?「何かいいなぁ」は核戦争の回避に役立つかもしれない。役立たないとは限らないぞ。だって、「モテたいなぁ」も「何かいいなぁ」も世の中が豊かになって初めて可能な「ムダの進化」だから。一見、種の存続には貢献しなさそうだけど、我々はこれのおかげで絶滅しないで済むかもしれない。要するに、人間はこの100年で爆発的に個体数を増やしてしまったけど、別にまた大規模な殺し合いをやらなくても、頑張って全員が豊かになって「モテたいなぁ」「何かいいなぁ」をみんなでワイワイやっているうちに、地球に優しい、ちょうどいい規模の個体数に戻って行くかもしれない・・

 なんて、昔買った赤膚焼のぐい呑みを眺めながら、地球規模に能天気なことを考えていた。非現実的な空想だね。アフリカ大陸も含め、全員が豊かになるには、我々の前に立ちはだかる壁はあまりに高い。

で、ここは平和な日本の地方都市だ。今のところ、街を焼き尽くす眩い光線は見えて来ない。ある日、それはやって来て、我々の人生を、家族の人生を、何千年もかけて築いてきた我々の文化を、何十万年もかけて維持してきた我々の種の営みを、すべて瞬時に焼き尽くしてしまうかもしれないけど。

 ちなみに、奈良絵はもともと釈迦の生涯をモチーフにしていたが、赤膚焼はそもそも庶民の為の陶器だったので、素朴な奈良の風物、鹿とかお堂とかが描かれ始め、要するに庶民の「いいなぁ」が描かれるようになって、今の姿になっている。大和(やまと)の土器色の上にすうっと描かれたそれらの愛くるしい絵は、見ていてほのぼのした気分にさせてくれる。

「いいなぁ」

僕たちは地球の裏側から届く悲しいニュースを毎日見ながら、静かにここで生きている。

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ロスジェネ映画論(仕事探しの合間に一息)

映画「花束みたいな恋をした」を見てマグネシウムの燃焼と焚火を想像した

 以前「明け方の若者たち」という映画を見て、作品の中に若者時代に暮らしていた明大前の風景が頻繁に登場し、ひどく懐かしい思いをしたが、人づてで「花束みたいな恋をした」という、これまた青春ど真ん中の恋愛映画も明大前が登場すると聞いて、Amazonプライムで観た。

「明け方の若者たち」の時は、懐かしい街の風景が次々と現れて目をつい奪われ、ストーリーそのものが全然頭に入って来なかったけど、今回の作品で明大前は主人公たちが出会う場面(終電を逃す場面)で使われていただけで、その他のシーンも甲州街道沿いを歩くシーンが少しあったくらいで、「懐かしい!」というのが最小限に収まり、僕は物語をすっかり満喫した。

こんなオッサンが、こんな眩(まばゆ)い青春真っただ中の作品を映画館に見に行くのはちょっと恥ずかしいけど、その点、サブスク万歳である。僕は家のリビングでソファに横になりながら、時々うたた寝しつつ、また巻き戻して(この「巻き戻して」という表現が既に昭和!ビデオテープ世代!)、のんびり鑑賞した。

こんな感じが一人で過ごす休日の最近の定番である。外は残暑だ。エアコンの効いた家の中で、じっくり時間と手間をかけてアイスコーヒーを作ってみたり、そうやって寝そべって映画を観たりするのが、何より幸せに感じる。

 「花束みたいな」という表現は本当に素直でセンスがいいなぁ、なんて見ながら思っていた。やたらヨーロッパ映画を観ることに凝っていた若者時代は遥か大昔に過ぎ去り、今は自然に、邦画でも若者向けでも子供向けでも老人向けでも、そして日本人向けでも外国人向けでも何でも一切気にせず、なんとなく見始め、そのまま見ている。そういう鑑賞の仕方が出来るようになったのが、とても嬉しい。こだわりが無くなるって、本当に幸せへの近道である。というのに初老に差し掛かってやっと学び始めた。

さて主人公たちは明大前で終電を逃す場面で偶然出会い、そこから恋が始まる。趣味が合う、好きな小説も音楽も一緒。世の中で不思議に思っていたことも一緒。要するにセンスとか価値観がパチンとハマって、交わすコトバ、会話がすべて楽しくて仕方なくて、そうか、こんな人が世の中にいたんだ!ってその偶然性に興奮して、恋は一気に燃え上がる。

とここまで書いてみて「燃え上がる」なんて表現も昭和だなぁなんて思った。が、表現は既にカビ臭いかもしれないけど、毎度毎度、若者たちが主人公の映画を観るたびに思うのは、やっぱ日本人って変わらないなぁ、ナイーブだなぁ、真面目だなぁ、という事だった。燃え方が静かで行儀いいのだ。

この映画の中で、ごく普通のカップルが、一緒に生活を始め、等身大のまま一生懸命生き、一生懸命恋し、結末を迎えている。至極まともな生き方を、必死でナイーブに生きている。現実の若者たちも同じような感じなんだろな。そう思った。最近じゃ車窓の外を歩く若いカップルを見ていても、なんだか眩(まぶ)しいものを見ているような気分だ。

「燃え上がる」という昭和な表現を使ってしまったので、ついでに書くと、20代前半、要するに人格形成の最終段階が終わった直後の、人としてアクなくフレッシュな状態でやる恋愛は、マグネシウムの燃焼だ。一瞬で燃え尽き、その燃えている間に放たれた閃光(せんこう)は、一瞬だけど我々の心に焼き付き、その美しさは一生、残像として脳裏に焼き付く。が、あっという間に、そして確実に燃え尽きてしまうのだ。だって最初に大好きになって、あとは減点方式だもの。

一方、これまた昭和風でありきたりな表現だけど、人格形成が終わってだいぶ時間がたち、人格にアクが付き始めた30歳前後ころからの恋愛は焚火(たきび)の恋愛もオプションとして選択可能だ。焚火(たきび)を選んだ場合、上手く行けば長々と炎は消えず、忍耐力が備われば、その燃え具合の微妙な変化や、木の燃える芳(こお)ばしい香り、パチパチと小気味よい音、その全てをゆっくり味わって一緒に生活して行ける。運よく薪(まき)が豊富に確保できて質が良ければ、或いは、たいてい晴れの日が続くなどして炎を焚き続ける環境が整っていれば、二人の寿命が尽きて一生を終えるちょうどいい頃に、二人は灰になれる。要するに「なんだ、こんな風にも燃えるんだね」なんてチマチマと加点方式をやるのである。

でも、あくまで20代にやる恋愛はマグネシウムの燃焼なのだ。繰り返されることで麻痺して行く感情とか、変わって行く二人の関係性とか、それに耐えるだけの忍耐力はなく、燃え尽きるのみである。

そうして30歳前後になって改めて始まる恋愛を、マグネシウムの燃焼にするのか、焚火(たきび)にするのか、人は道を選ぶ。30歳前後から再びマグネシウムを手に取るのもアリだけど、今度はほぼ確信犯的に光を放つ。いずれ灰になるのを知りながら、刹那(せつな)的に感情の高まりを、肉欲の発露を楽しむのだ。今度は燃え尽きても、20代に燃え尽きたようなヒドイ傷つき方はしないだろう。やがてすぐに立ち直り、次のマグネシウムを探す。そういう道だ。

一方、焚火(たきび)は忍耐力勝負だ。いくら年を取り始めたからと言って、30歳前後じゃ、まだそんなに「じっくり味わう」なんて出来ない。だから、ちょうど面白くなり始めた仕事に没頭したり、時々恐ろしく背徳的なアバンチュールを楽しんだり、子育てという便利な煩雑さで己(おのれ)を殺してしまったりする。そうやって選んだ道をなんとか歩き続けようとする。もちろん歩くのを止め、全部を捨てて別の町でマグネシウムを手にするのもアリだ。人生は悲喜こもごもである。

では40代から始まる恋愛はどうだろうか?

50代の恋愛は?

もちろん、マグネシウムを選ぼうが、薪(まき)を選ぼうが自由である。人はどうせ何をやろうとやり遂げようと、平等に年をとり、肉体が滅び、数十年で無になる。

 26歳の頃、勤めていた会社に50歳過ぎの事務員の女性がいた。僕は昼ご飯は有名な玉子屋の弁当を食べていたが、その人も同じように玉子屋のを食べていて、いつもインスタントの味噌汁を僕の分も作ってお椀に入れて持って来てくれた。そして昼休みの雑談の中でよく身の上話を聞かされた。北海道出身の彼女は早稲田中退で、70年代初頭の学園紛争の激しかった最後の時期に大恋愛をして、結婚し、子供を産み、その後、相手と別れたこと。今の夫とは40代から付き合い始め、バツイチ同士の再婚であったこと。お互い子供もいたが、付き合い始めた頃はバイクに乗って2人であっちこっち旅行に行ったこと。楽しそうに話していた。夫に結婚5周年の記念に買って貰った赤いバッグを肩に掛け、毎日、上機嫌で出勤して来た。笑顔が絶えず幸せそうだった。

 その彼女が、ある日から急に笑わなくなった。深酒をしているのか、顔色も悪くなり、相変わらず味噌汁を作って持って来てくれたけど、ものすごく疲れている感じだった。

その頃ちょうど会社も傾いていて、都内にある工場は閉鎖する予定だった。事務所も営業部門のみを残し、あとの部門に所属する全員が、北関東の工場へ転勤するか会社を辞めるかを迫られていた。彼女は東京に残ることを決意し、辞める予定だった。

「彼とは上手く行かなくなったの。頑張ったけど相手の子供とも上手く行かなくて・・なんかね、タイミングが全部悪くってね。別れるんだけど、新しいアパートも探さなきゃいけないし、こんな年で雇ってくれそうな所もなさそうだし、後々のことを考えて、いよいよ青いビニールシートでも買おうかしら」

青いビニールシートとは、もちろんホームレスのテントを指す。ある日、昼食の雑談で、味噌汁をすすりながら、彼女がそう言った。冗談とも本気ともつかない顔だった。そして僕はまだ26歳で、相手にかける言葉は思いつかなかった。ただただ、成熟した大人だって、きっと僕たちなんかよりずっと忍耐力のある、いわば酸いも甘いも知った大人だって、こんな風に恋愛ってやっぱり上手く行かなくなる時は一瞬なんだな、と思っていた。寒い東京の冬の日だった。

その後、工場閉鎖と北関東の工場への生産移管の段取りで忙殺されている僕の座席の前に、営業マンとして新規で採用された人が座った。営業部門は残るのだから、人員補充という訳だ。でも新人といってもその男性は既に50歳を過ぎていた。以前は教材の営業をやっていたらしく、畑も違うし、全然使えないって、30代の営業課長が怒り狂っていた。50過ぎの新人はその課長の罵倒に毎日耐えながら、リストを片手に順番に電話を掛け、アポが取れると外へ飛び出し、深夜になると帰って来た。温厚な人で、見るからに忍耐力のありそうな人だった。

その時期は辞めて行く人と、これから営業として生き残ろうとする人が交わる、不思議な期間だった。僕は北関東へ行く準備をしながら、辞めて行く大人の怨嗟(えんさ)と、必死で生き残り食いつないで行こうとする大人の後ろめたさの交差する事務所の風景を見ていた。

「新橋に馴染みの美味しい料理屋があるんですけど、今度一緒に飲みに行きませんか?」

50過ぎの新人はあくまで丁寧だった。親子くらい年が離れていたのに、こちらが恐縮するくらい丁寧な言葉で僕を誘ってくれた。夜中近くまで働いて、事務所に二人きりになることも多く、話す機会もあった。僕は人生の後輩として堂々とついて行き、本当にそこの料理は美味しく、盃を交わしながら相手の話を聞いた。人の話を聞くのは若いころから大好きだった。その人は時々白髪をかき上げながら、娘が前年に成人式を迎えたこと、離婚した相手とはずっと上手く行っていなかったけど、娘の為に別れるのを我慢し、晴れて成人したので、こちらから切り出したこと。せいせいしたと思っていたら、今度は30年近く務めた会社をリストラされたこと。別れを切り出された側って大抵、自分はそんな事言われるなんて予想していないから驚くんだけど(前の奥さんも離婚を切り出したらひどく驚いていた)、切り出す側はもう相当前からそんな事を考えていたんだよね、って事は前の会社はきっと、ボクの事をだいぶ前から切りたがっていたのかも、なんてケラケラ笑い出した。

昼間、事務所の中では「すいません」と小さな声で繰り返し謝っている姿が印象に強かったから、なじみだというその狭い料理屋で明るく笑う彼の笑顔を見て、僕も暖かい気持ちになったのを覚えている。時代も組織も人に非常に厳しかったけど、そしてそれは今もこの国の現実だけど、一人ひとりの個人は一生懸命生き、そして時にはふざけた異常者が暴れ回って無差別に人を殺すことがあっても、ほぼ大半の人々は生真面目に、謙虚に、小さな幸せを忍耐強く噛みしめて生きている。今も昔もそれは変わらずだ。

「そうそう、いつも味噌汁を作って持ってきてくれる方がいるじゃないですか。本当にボク嬉しくて、でも、もう辞めてしまわれるんですよね?」

あ、と思った。興味があるんだ、と思った。

キューピット?いやいや、無理でしょ、こっちはただの若造だし、年齢違い過ぎて何をアピールしてあげればいいか分かんないし、とか思っているうちに、次の話に話題が移って行った。

が、この話には後日談があり、僕が何もしなくてもその1か月後、工場閉鎖の最終日、レストランで行われた会社主催のお別れパーティの後で、二人で仲良くスナックへ入って行くのを僕は目にしている。二人の身の上話を聞いた僕としては、今となってからの想像だけど、いよいよ老いが迫ったその瞬間に、心と体を温めるための火をくべようと、二人で薪(たきぎ)を取りに行ったのかもしれない。そのあと一つずつ組み上げ、火をつけて、炎をかざし、炎が消えてしまわないように、薪(まき)をくべ続けたかもしれない。それまでの人生で培(つちか)った忍耐力は、今度こそ命が尽きるまで炎を灰にせず、静かに燃やし続けるかもしれない。

これは幸せな想像だ。

 さて、キャンプブーム真っただ中にあって、焚火(たきび)に振りかけると炎の色が七色に変化する粉が売っているらしい。You Tubeで見たら本当に七変化していた。そして炎がなんだかマグネシウムを燃やしたみたいな明るい閃光に見える瞬間があった。フォトジェニックなキャンプファイヤーになるというので若者に人気らしい。で、その七変化は30分くらいで終わるらしい。

分かっちゃいないなぁ、なんてほくそ笑んでみる。フォトジェニック?

焚火(たきび)のような恋をしたい。忍耐力をもって薪(まき)をくべ続けよう。なんて大人向けの地味でストレートな恋愛ものでもないかな?

休日の午後の時間がのんびりと過ぎて行く。僕はソファに寝そべり、次の映画を探している。

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ロスジェネ読書論(仕事探しの息抜きに)

風鈴寺から「カラマーゾフの兄弟」に出て来るイワンの悪魔の話に空想が飛んだ

 酷暑が続いている。涼を求めて風鈴寺へ行った。石段を上った先にたくさんの風鈴が吊るされ、チリンチリンと気持ちのいい音が真っ青な夏空に響いていた。

あぁ夏だなぁと、空の青を見上げた。

風鈴の音を聞いて涼しさを感じるのは日本人だけらしい。まぁ蚊取り線香の匂いで夏を感じるように、文化による条件反射みたいなものなんだろうけど、そういう風流な感性を自然に持たせてもらえた日本文化に感謝だ。もっとも、起源を遡(さか)のぼると中国に行き着き、大昔の留学生の僧が日本に持ち帰って寺の魔除けになり、最初は青銅製でガランゴロン鳴らせていたが、やがてサイズが小さくなり、江戸期にビードロを作る技術が伝わると、風鈴はガラス製が現れ、庶民の文化として一気に広まった。

江戸の庶民のことだ、どうせ涼を求めるなら徹底してやろう、という心意気で、ビードロには粋なイラストが描かれ、金魚や朝顔やトンボのような、なんだかオシャレでとっても涼しげな絵が流行った。そして今に至っている。

 子供の頃、実家の軒下に吊るしてあった青い風鈴は星空のイラストだった。昭和の子供だった僕は、廊下で本を読み、お菓子を食べてゴロゴロし、夏の太陽の光に照らされながら揺れるその風鈴を眺め、まどろむのが夏休みの楽しみだった。夏休みの宿題なんて、自由研究とポスターの絵を描くというのを除いたら最初の数日で終わってしまったから、あとはそうして星空の風鈴の下で、好きな本を読んでゴロゴロしていればいいのである。

 子供の頃の僕はいろいろと空想するのが好きで、ずっと一人で遊んで考え事していることがあった。別に、朝のラジオ体操は友達とワイワイ楽しんだし、友達に誘われて近所のドブ川に銀ブナを釣りに行く普通の子供だったけど、時々、ふうっと一人になって、例えば、そんな風に軒下でゴロゴロしながら風鈴を眺め、何時間もぼんやり空想していることも多かった。

青い風鈴の中には一個の宇宙があって、銀河系もあって、たくさんの星の中にたくさんの国があって、そこにたくさん人々が住んでいる。そしてその人たちは、自分たちのいる宇宙が、実はこんな小さな家の軒下の風鈴の中に閉じ込められていることに全く気づいていないし、そうやって悦に入っている僕がいるこの地球も、実は誰かの家の軒下に飾ってある風鈴の中の宇宙の星たちの一つかもしれない、なんて、とりとめもない空想である。

 空想癖は今も変わっていないのかもしれず、病院で待つ何時間でも、空港で待つ何時間でも、僕は携帯電話ひとついじらず、考え事しながらじっとしていられる。そしてその大半は、しょうもない空想だ。

 ちなみに宇宙はどんどん膨張しているというのが有力な説らしい。ビッグバン以降、宇宙はどんどん膨張し、星と星との距離が広がり、どんどん熱量が下がって、やがて、無限の死を迎える。死が無限なのか一時的なのか(要するにまたドカンと行くか)は良く分からないけど、どんどん膨張して行く宇宙というのは、肌感覚として「あぁなるほど、そうだろうね」なんて僕は感じるのだ。

 人の生というのは、とにかく時間と空間に支配され、時間と空間に引きずられて消えて行く。だって、肉体という檻(おり)があるから、僕たちはちょっと地球の裏側に行くにも、空港で手続し、それから十何時間も飛行機を乗り継いで、ようやく辿り着くのだ。そして過去には遡(さかのぼ)れず、未来にも遊びに行けないから、織田信長がどんな顔をしていたのか見に行く事は出来ず、未来の宇宙戦争時代(どうせ人間は戦争を繰り返すから)のガンダムが、実際のところはどんな形をしているのか、確かめに行く術(すべ)がない。時間と空間の制約の中でもがき、肉体が劣化により空間上で機能を停止したら死に、そこで個人としての時間も終了する。生きるとは時間と空間の奴隷として息をするという事だ。

 なので、ひょっとしたら生の反対の死は、時間と空間に支配されないことなのかも、なんて空想をしてみる。僕は子供時代に見上げていた青い風鈴の宇宙を思い出し、すっかり年を取ってしまったけど、そんな空想をしてみるのだ。

 ありゃ、どうやら死んじゃったみたいだよ、運転が荒かったもんなぁ、お気に入りの車だったのにヒドイ状態じゃん、そういうことかぁ、マジかぁ、一瞬だったねぇ、でもまだ意識があるみたいだ、不思議だねぇ、しかもどこへでも行ける感じだ、地球の外へ行ってみる?、、っておいおい、ここ宇宙じゃん、一瞬じゃん、むっちゃ星が綺麗じゃん、すごいねぇ、まさかどこへでも行けるってこと? アメリカの南部とか行ってみる? だって生きてた時に行きたかったとこだし、ってここ、しかも50年代のアメリカじゃん、マイルス・デイビスがいるよぉ、生(なま)でジャズの神様のトランペットが聞けるよぉ、サイコー!

というのはかなりおバカか空想だけど、子供時代に見た宇宙模様の風鈴は、そんな楽しい想像に僕を連れて行ってくれる。僕たちはたった数十年を、この時間と空間の狭い制限の中で生き、死んで行かねばならない。だから、今は小山となった誰かの墓を見て数千年前のの人の営みを想像しながら歴史ロマンを味わい、パンデミックが過ぎ去ったら、スーツケースを持ってきっとどこか遠く遠くへ旅したいと願う。

 でもどうだろうか?車の事故から始まった僕の死後の世界で、僕はそのあと、もちろん月の上を歩いてみたり、エッフェル塔の上に立ってパリの夜景を眺めたり、「ブルータス、お前もか」の現場を見に行って、カエサルの実際の言葉がなんだったか知ってゲラゲラ笑ったり、太古の世界でよく知らない恐竜に追い掛け回されたり、太陽の表面の6000度って熱を間近で見て感じたり、そんな好き勝手なことを何十年も何百年も何千年もやっていたら、いよいよ見に行くところ、経験したいことが全部なくなってしまって、何もかもに飽きてしまうのだろうか?死ぬことで時間と空間の制約から自由になった僕は、結局、「もうこれ以上は何もないや」って肩を落とすのだろうか。

たぶん違うと思う。

 ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の中で、登場人物のイワンが悪魔と対話する有名なシーンがあって、悪魔はイワンにある男の話をする。

その男は法律も良心も信仰も否定するいわばニヒリストだったが、実際に死んでみたら信じていなかった来生(らいせい)があったので、「これは自分の信念に反する」と怒り出してしまった。で、そういう不遜な輩(やから)は罪があるということで、裁判にかけられ、闇の中を千兆キロ歩いてから天国の扉を開いてようやく赦す、という判決が下った。

が、そういう男である。そんなのやってられるかってな具合に、道のど真ん中でふて寝してしまった。歩くのを拒否したのである。

ところが、その男が、千年たったころ、突然むくっと起き上がって歩き始めた。ふて寝する、自分の信念の為に歩くのを拒絶する、というのに飽きたのかもしれない。

僕は「闇の中を千兆キロ」となっているのに、初めて読んだ当時は、なぜか宇宙の真っただ中(周りは美しい星々が囲んでいる)に遥か向こうまで続く白い道をイメージし、その上を男が歩いて行く姿を想像をしていた。そのシーンの中で、悪魔がそんな話は嘘だと言うイワンに対し、「でも考えて下さい。千年だろうが何億年だろうが、そんなの関係ないじゃないですか。だってこの地球だって十億回も繰り返されて来た(宇宙が何度も滅び、また生成されて地球がその度に生まれて来た)かもしれないでしょ。時間軸なんてそんなもんです」みたいな話をしていたので、なおさら、その歩き続ける男が、宇宙の中で星に囲まれテクテク歩いて行く映像を想像したのである。

さて、その男はいよいよ千兆キロを歩き通し、ついに天国の扉を開けた時、歓喜のあまり「サホナ(アーメンみたいな賛美の言葉)!」と叫び、自分は千兆キロを千兆倍した道だって歩き通してみせるぞ、と息巻いた。つまり、無神論者だった彼が歩き通した喜びのあまり、一気に神様バンザイに転向してしまったのである。人間なんてそんなもの。だからこそ大衆の為に天国というものを設定し、それに至る様々な物語を用意してあげる必要がある。そこにプラグマティックな宗教の意味があるのだと、悪魔は言いたかったのである。

もちろん、イワンはこれに対して反駁(はんばく)する。実は悪魔はイワンの一部、もう一人のイワンであり、彼自身の幻影でしかないのだけど、ドストエフスキーはイワンの悪魔に対する憤りを通して、人間はそんな固定された理想や天国に縛られるべきではない、もっと自由な存在であるはずだ、と物語を展開して行く。要するにドストエフスキー流の自由論だ。

人はどんなに天国のような平和なところであっても、時間や空間を越えた果てのどんな魅力的な世界であっても、もしそこが固定されて限定されてしまうなら、自由を求めて、もっと素晴らしい世界へ、もっと新しくて面白い光景を見に、更に向こうへと歩いて行きたいと願う。これはどんどん宇宙が膨張して行くのと同じことである。宇宙が外へ外へと膨らんで行くように、その中にいる僕たちの好奇心とか、喜びとかは、一か所にとどまることを知らず、もし時間や空間の制約がなくなったとしても、それは変わらない。

 だから、交通事故で死んで時間と空間の制約がなくなった僕が数千年の好き勝手のあとに、もう行きたいところに全部行き、見たいものを全部見たとしても、ガッカリすることはなく、もっと宇宙の先はどんなところ?何十億回前に滅んだ地球にはどんな生命体がいたの?宇宙の無限の死の向こう側は?永遠に続く無なのか、またドカンと新しいビックバンが起こるのか?生きていた頃に学んだことだけでなく、死んだ後に学んだことも踏まえて、また新しい別の知りたいこと、見てみたい風景を見に、僕は歩き出すのだろう。好奇心はどんどん膨らみ、もっともっと外の世界、過去と未来の世界へ行ってみたいと思うのだろう。宇宙の膨張は、肌感覚としてよく理解できるのである。

 実家にあった青色の風鈴から、えらいところに話が広がってしまった。

さて、余談だけど、僕は風鈴寺の階段を降りた時に足をくじいて捻挫してしまった。靭帯が切れて松葉杖生活の開始である。あ~あ。

僕たちは空間と時間に支配され、生きて行くしかない。ブチっと音がして激痛が走ったあの瞬間だけは、目の奥に星が煌(きら)めき、宇宙の外へ意識は飛んだけど。

やっぱり現実の生はあんまり自由ではなく、僕は恨めしそうにギプスを見ている。

 

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ロスジェネ読書論(仕事探しの息抜きに)

小浜の青空から恩讐の彼方に向かい、峠越えを運転しながら仇討について考えてみる

 せっかく梅雨が早く明けたのに、土日になると雨とか曇り空で、あぁ休日くらい突き抜けるような青空が見たいなぁ、なんて車で走り出した。途中のSAで天気予報を調べてみると、日本中が雨か曇りなのに、日本海側の若狭湾あたりだけがぽっかり晴れマークがついている。

僕はそちらに向かって走り出した。

突き抜けるような青空の下で、家族と手をつないで散歩する。しかもこんな安全で衛生的で便利な国で。その価値に勝るものは恐らくこの世にない。僕はそう思っている。我々は次の時代に投資せずジジババ優先で彼らの面倒を見ているうち、すっかりみんなが貧しくなっちゃったかもしれないけど、でもこの国に残っている安全とか、この国の人々が持ち続けている衛生観念、緻密さ、生真面目さは、大きな財産として確かに残っているのだ。

ちなみに日本の10万人あたりの殺人件数が0.25人に対して、メキシコは30人だ。両国はほぼ人口が同じなのに、向こうでは毎日100人くらいが殺されている。我々は本当に安全な国で暮らしているのだ。

だから、「最近、物騒になって来た」なんてコトバは印象に基づく話でしかなく、高齢化に伴い、この国の殺人件数はむしろどんどん減っている。それが事実だ。

そりゃそうでしょ。かつてドンパチやっていたその道のプロたちは、今やすっかりお爺ちゃんになって介護施設でオムツを交換されている。僕たちが子供の頃はたくさんあった事務所も、大半は取り壊され、または空きビルになっている。

無敵の人による殺人?それも印象でしかない。じゃあ件数は?もし無敵の人による殺人が増え、暴対法施行以前のかつての殺人件数に戻るなら、議論する価値はあるのだろう。数字は嘘をつかない。殺人の件数は確実に減り続けている。これは国ごと年をとったことによる一種の効用だ。世評する者も、その言動に影響を受ける我々も、まずは事実としての数字を押さえなければ、冷静な判断はできない。印象のみで議論するのは、議論のための議論であり、それはエンターテイメントでしかない。

が、こんな安全な国にあっても、時には運悪く、殺人に出くわすことがあるのだろう。重過失や悪意のある他人の娯楽によって家族を奪われることもある。酔っ払い運転に轢かれるとか、子供がイジメつくされて死に追いやられるとかも、家族にとっては一種の殺人だ。

万が一そんな目に遭った時、平凡な僕たちの人生は一変し、奈落の底に落ち、光が消え、目に映るこの世から青空は消え去るのだろう。

僕の運転する車は雨の中を走り続けている。

だいぶ走って、ちょっと疲れてしまって、若狭の手前で一晩の宿にたどり着き、その夜はそこでゆっくり休んだ。

夏の雨は嫌いだ。どこを運転していても同じ風景にしか見えない。面白くない一日だったな、なんてシャワーを浴び、ビールを飲んだら酔いが回ってそのまま寝てしまった。要するに、ふて寝である。

翌朝、目を覚まし、また走り出す。家人は助手席でニコニコしている。

そして走り出した1時間後、トンネルを抜けたその時、突如、そこには真っ青な青空が広がった。予報通りだ。昨日まで雨の中を走っていたので、青空のその青色を見た瞬間、心の中まで一気に晴れ渡ったような気がした。サイコーだ!ついアクセルを踏み込んでしまいそうになる自分に気づく。最近の天気予報の精度の高さに脱帽である。

 しばらくそのまま気持ちよくドライブして、9時過ぎに僕たちは小浜に到着した。そのあと「お魚センター」に入って、たらふく刺身を食べた。日本海側の新鮮な刺身は格別だ。このお魚センターにはイートインスペースにテーブルがあって、買ったその場で刺身を食べることが出来るので、小浜に来たときは必ず僕たちはここに立ち寄り、買ったばかりの刺身を、ついでに買ったあら汁を飲みながら一緒に食べることにしている。アジの刺身も、ハマチの刺身も、肉厚の大きな生牡蠣も本当に美味しかった。海鮮バンザイだ。

           刺身でも寿司のネタでも一番大好きなアジを堪能!
           ハマチもたっぷり脂がのっていて絶品!
           肉厚な牡蠣の触感はもはや海のステーキ!

そして生き物をたらふく食べてからって言うのはちょっと不敬かもしれないけど、せっかく小浜に来たので、僕たちは相談して、やっぱり仏像巡りをすることにした。

 若狭にある小浜は大陸から都(奈良・京都)への文化の玄関口として、有名な仏閣が立ち並ぶ、歴史好きには垂涎ものの観光地である。だって、魅力的な国宝級の仏像や建築をすぐ手の届くところで眺めることが出来、しかも観光客がまばらなので、いわば古(いにしえ)の時代にタイムスリップして心行くまで大昔の時代を満喫できる、コアで穴場のスポットだからだ。京都や奈良とは違った魅力に満ちた場所である。

僕たちは妙楽寺、羽賀寺、明通寺と有名な寺を順番に廻った。日曜日なのに他には1組か2組の観光客しかいない。広い境内にときには自分たちしかいない場面もあり、苔むした道を、青空を頭上に、手をつないでゆっくりと歩いて行く。

いずれの寺も、そこでしみじみ眺めた仏像たちも、数年ぶりに鑑賞した。妙楽寺の千手観音の個性的なデザインは何度見ても飽きず、千数百年前の仏像なのに、その立体的で個性的な表現がまるで現代アートの一つみたいだ。20代の芸術家がまっさらな頭でこれを見たら、新しいインスピレーションが湧くのでは?そう思った。

羽賀寺の十一面観音のなまめかしさ、石段を登ってたどり着く、山間に佇んだ明通寺の本堂の威容、僕たちは1000年前にタイムスリップして、何時間もかけて、そこで手をつないで歩いた。至福の時間である。時に手を合わせ、時に欄干に腰かけて深呼吸し、塵(ちり)の積もった気持ちの洗濯をし続けた。

そしてあっという間に昼過ぎである。帰らなければいけない。

ところで、小浜で獲れた鯖(さば)を京の都へ運んだ「鯖街道」というのがあって、当時は腐敗を防止するため保存に塩を使っていたが、その鯖街道を1日かけて運んだため、鯖が都に着く頃にはちょうど塩のあんばいがよく、京の人々に大変喜ばれたらしい。

なので、ミュージアムのようなところで「鯖街道を通って京都へ行きたいのですが、車で行けますか?」と聞いたところ、山越えのウォーキングコースであり、車で通るような道ではないとのこと。ありゃ、ダメじゃん。

でも、今日はまだ休日。どうせ夜中に家に帰ってもいいのだから、慌てる必要もない。せめて下道でタラタラ走って京都に出て(なんとなく鯖街道を想像しながら)、そこから高速に乗って家に帰ろうと思った。

で、これがちょっと失敗だった。カーナビの指し示す通り走っていたら、どんどん道が細くなり、対向車が来たらアウトってくらい細くなり、しかも本格的な峠越えの道なので、急角度で登り、急角度で降りる、というのを繰り返した。

何度も激しくハンドルを切り、ハードな運転が続く。どうやら最終的には鞍馬山を抜けて京都市街へ出るらしい。車内はひどく揺れ続けたが、家人はさっきたくさん歩いて疲れたのか、助手席でスヤスヤ眠っている。どこでもスヤスヤ気持ちよさそうに寝る人である。そうして目を覚ましたら、こっちを見て寝ぼけまなこでニコッと笑うのだろう。

そんな人だ。

険しい峠道が続いて行く。渓谷はとても深く、人家はなく、がけ崩れを最低限のお金をかけて防止しただけの、荒涼とした山肌が道の両側に連なる。「落石注意」って看板が頻繁に現れるけど、もし本当に大きな岩が山の上から転がり落ちてきたら、ひとたまりもなく、そして避けることが出来ないのだろう。

そう、僕たちは時には運悪く、殺人に出くわすこともあるし、重過失や悪意のある他人の娯楽によって家族を奪われることもあるのだ。

そして僕たちはそれを乗り切って行くことが出来るのだろうか?

 学生の頃、それこそ何でも読み漁っていて、当時はドストエフスキーにどっぷり浸かっていたけど、癖の強いそんなロシア文学の合間に、菊池寛のシンプルで硬質な文体を読むと、たくさん焼肉を食べた後にウーロン茶を飲んだ時みたいに、気分がすっきりして、なので寝る前によく読んでいた。神保町で買ってきた「菊池寛 全集」という本である。

その菊池寛の代表的な作品「恩讐の彼方に」には、父の仇討(あだうち)で諸国を旅する中川実之助が登場する。

彼は流浪の末に遂に見つけた父の仇(かたき)である市九郎が、長い時を経て既に改心し、罪滅ぼしの為に生涯をかけて人助けをしているのを知る。たくさんの人々が命を落とす絶壁の難所に、市九郎は洞門(トンネルを含む覆道)を手で掘削する作業を、自らに課した修行のように何十年もやり続けていたのだ。実之助は見つけたその場で父の仇(かたき)を斬ろうとするが、市九郎とともに洞門を掘削していた石工たちに説得され、「洞門が開通したら本懐を遂げる」ことにする。

そうして仇討(あだうち)を猶予した実之助だったが、次第に、ノミと槌だけで洞門を通すということの気の遠くなるような困難さと、人助けの為にそれに半生をかけて何十年も取り組み続け贖罪し続けてきた市九郎の姿に、激しく心を揺さぶられ始める。そして遂には実之助も一緒になって岩を掘り始め、一年半後、いよいよ洞門が開通した時、二人は共に感激にむせび泣き、実之助は仇討(あだうち)を取りやめる。もはや慈しみも恨みも彼方に消えて、実之助には相手を赦すという決断しかなかった、というお話だ。

なにしろ菊池寛の作品は文体のリズムが美しいので、一個の旋律を聴いているみたいで、もうストーリーとかテーマなんてどうでもいいのだが、ふと「こんな安全な国で家族と手をつないで散歩する幸せ」から考え始めた「万が一、家族が殺されたら」に思いが至り、この「恩讐の彼方に」という小説のことを思い出した。

こんな安全な国にあっても、万が一、家族を奪われるようなことがあったら、僕は相手への復讐を考えるだろうか?それとも恩讐は彼方へ散って消え去って行くのだろうか?そういう空想だ。

鞍馬山へ向かう峠道を苦戦して運転しながら、僕はそんな空想でずっと頭を満たしていた。もしそんなヒドイことが起こったら、自分は何をするのだろうか?

野生の鹿の影が、うっそうとした木々の向こうにチラッと見えた。どえらい山道だ。ところどころにガードレールがない箇所もあって、ちょっと汗ばむ。鯖街道どころの騒ぎではなくなっている。僕の空想はどんどん駆け巡った。

 そうそう、数日前にテレビで見た素人の男性が、娘を交通事故で失い、相手への怒りと恨みのやり場なく、お遍路をした話をしていた。話をしながら涙を流し、改めて怒りと恨みを語っていた。お遍路には色んな意味があるのだろうが、焼き付くような過酷な太陽の日差しが、または凍えるような冷たい海風が、それを受け止めながら歩む自分を見つめることで、大切な人を救えなかった、可哀そうに、辛かっただろう、痛かっただろう、でも助けられなかった、自分は生き残ってしまったという罪の意識を、その間だけは緩めてくれるのかもしれない。困難を受け入れることで、守れなかった申し訳なさを償っているのである。

が、お遍路をやり遂げ、家に戻って日常がまた始まれば、怒りや恨みはなお消えず、そして自分を責め始める。結局、恩讐は彼方へ去らず、僕たちは自分を許せないのだろう。

だから、実は仇討(あだうち)という且つてこの国にあった制度は、もちろん家(イエ)制度の延長線にあったのだろうが、理にかなっていたと言えばいえるのかもしれない。自らの手で仇(かたき)を殺めて、殺人者となり業(ごう)を背負うことで、守れなかった大切な人への申し訳なさを償うのか、或いは、実之助のように仇(かたき)を許して、ということは一生、故郷には帰れなくなることによって、父への申し訳なさを償うのか、いずれにせよ己(おのれ)を罰することで、死んで行った者たちへの償いが出来るのである。現代の死刑制度のように、自分の手から遥か遠く離れた執行室で、仇(かたき)が国家という漠然としたものに殺されてしまっては、生き残った者は一生、自分を赦すことが出来ない。仇(かたき)のことではなく、罰を受けない自分のことを許せないまま生きて行かねばならない、という事である。これは極端な死刑反対の立場だろうか?人道的な理由ではなく、生き残った者が救われないから、生き残った者の意思を尊重するために死刑反対、遺族に仇討(あだうち)をさせるべし、なんていっぱしの社会人が口にすべき話ではないのかもしれない。が、もし家族を奪われるようなことがあったら、僕はお遍路をせず、即座に自らの手を汚す決断をし、業を背負って、守れなかった申し訳なさを償おうとするかもしれない。

いつの間に人家が現れ、すぐ真横を叡山電鉄が走っていた。峠を越えたのだ。鞍馬山を抜けていた。雨は降っていない。まばらな観光客の横を、車で通り過ぎて行く。

京都市街に出たころには、ホッとして、なんだか長い悪夢を見ていたような気がしていた。信号待ちして車窓の外を眺めながら、街の風景を目に、仇討ってなんだよって思い返した。峠越えの運転で始まった空想は、恩讐の彼方の実之助につながり、テレビで見たあの男性の涙につながり、やったこともないお遍路につながり、僕の家族を奪った(と仮定した)男の死刑執行の場面へつながって行った。現実には何にも起こっちゃいないのに、そして昼間あんなに美しい青空と、美しい古寺の情景の中で家人と手をつないで僕は散歩していたのに、鯖街道から始まったヒドイ悪夢だと思った。

「ねぇ、何を難しい顔してるの?」

助手席で目を覚ました家人がニコニコこちらを見ている。寝が足りて満足って顔だ。

「うん。なんかね」

「何?」

「どうやら鞍馬山には天狗がいるみたいだよ。ヒドイ悪夢を見させられた」

「あなた運転してたのに?」

「うん」

僕たちは時には運悪く、殺人に出くわすこともあるし、重過失や悪意のある他人の娯楽によって家族を奪われることもある。

でも恩讐の彼方へ向かうには、僕は人間が出来ていないし、とても生きているうちにそんなところに行けそうにない。恩讐(慈しみと恨み)のど真ん中で、最後まで生々しくもがきながら、生きて行くような気がするのである。