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ロスジェネ藝術論(仕事探しの間の休日に)

芝居のチラシを見て、演劇と演技を考え、バイオリンと旧車の曲線美を思い出し、芸術の秋を感じた

 古いアルバムの積み重なった隙間から芝居のチラシが出て来た。休日に部屋で衣替えをしているうち、アレ、これ懐かしい本だぞ、なんて読み出して、衣替えは遅々として進まず、ついでにCDラックはもう邪魔だから捨ててしまおうか、なんてあれこれ引っ張り出しているうちに部屋がどんどん乱雑になり、遂に怒られ、ハイハイやりますよって片づけていたら、懐かしいそのチラシを見つけた。

 別に自身が芝居をやっていた訳ではない。学生時代に、芝居見物が好きだった友人から劇団を旗揚げするから手伝ってくれと言われ、裏方として手伝ったことがあった。人集めとか練習場所の確保とかそういった類(たぐい)だ。学生時代の僕は、映画でも音楽でも絵画でも、要するに創作されたものがなんでも好きだったから、芝居見物もよくした。その延長で、趣味の高じたその友人の手伝いをしたのである。

 旗揚げされた劇団は学生も社会人も混ざっており、土日を使って練習していた。夏には清里のコテージで合宿までやり、朝から晩まで役者の人たちがそこで練習をしていた。そして夜はお楽しみの飲み会だ。芝居をやる連中はそもそも表現したくて仕方がない人たちだから、たいていディープなキャラをしている。毎晩、激しく、ちょっと乱れつつ、楽しい飲み会をした。いわば古臭い言い方をすると青春の一幕として、そこで出会った懐かしい面々が僕の記憶に残っている。参考の為に彼ら(彼女ら)と一緒に見に行った他の劇団の公演や、そこで知り合って一緒に飲んだ別の劇団関係のやっぱりディープな人たちのギラギラした雰囲気が、そのチラシを見てふと蘇って来た。そうそう、これはまさに、あの連中と一緒に東京中あっちこっちの芝居を見に行っていた頃、パンフレットに挟まれていたチラシの一つだ。

みんな元気にしているんだろうか?

もう普通の中年として、あるいは良き父親、母親として、フツーに生活しているんだろうか?

地元に帰った?

それともまだ、東京のどこかの場末の酒場で演劇論を熱く語りながら、夢を追いかけ続けているのだろうか?

 高校生の頃、小林秀雄とか加藤周一とかの評論を読み漁っていて、他にも山崎正和の芸術論がとても読みやすく、僕は大好きだった。その中にアランの芸術論を紹介した文章があって、一言で言うと、「自分はこれがイイと思うんだ!これがまさに自分なんだ!」にたどり着く道(創作活動)の上で、素材の抵抗というものが重要、という話があった。例えば彫金師は、銀の皿に自分の表現したいイメージを彫り続けるが、その際、銀という金属の固さが鏨(たがね)を持つ手に伝わり、その固さと闘いながら、いわば素材の抵抗を受けながら、少しずつ自分の主題を形にして行く。だから、素材の抵抗とは、作り手にとって、自分の主題を見える化して行く重要な契機であり、逆にすんなり抵抗なく作ってしまっては、しっかりと自分の主題を見つめ直す時間が足りないので、結局、そのような作品は簡単に作れるけど、やっぱり迫力がない。僕たちが「手作り」で丁寧に作ったモノに感動するのは、そんなところに理由があるのである。

 これは工業製品にも当てはまる。コンピュータで製図をする前までは、車のデザインだってカメラのデザインだって、炊飯器のデザインだって、みんな人の手で描いた。車のデザインも、CADなんてなかった時代は、デザイナーが手書きでラインを引き、それに基づいてクレイモデルを作った上で、板金をプレスする金型を作成した。

「だから昔の車の曲線は暖かいんだ。ボクは製図を手でやっていたころの工業製品の曲線の暖かさが好きで、いつか旧車に乗りたいと思っている。曲線はね、人の手が生み出すと、暖かいもんなんだよ」

前に勤めていた会社の工場に、派遣社員として現場で作業者をしていたカマタさんという人がいた。僕より2つほど年上で、九州の名門国立大学を出て、大阪のバイオリンを作る専門学校に就職し、上司のひどいパワハラを長期間受けて心を病み、退職して東京へ出て来た。東京で正社員の中途採用の試験を何社も受けたが門戸は全て閉じられていたので、カマタさんは仕方なくアパートの家賃を払うために、派遣社員で作業者として働くことにした。当時ではごく普通の話だ。誰も守っちゃぁくれないのである。つぶれる奴はつぶれるし、誰も気にしない。そもそもパワハラなんて言葉も概念もなかった。野垂れ死にする奴はするだけで、誰も気にしないのである。それが僕たちの20代だ。そうして、僕たちの70代や80代の頃には、若者ではなく今度は年寄りとして、再びそういう扱いを受ける時代がやって来るんだろう。野垂れ死にする奴はするだけで、どうせ誰も気にしないのである。

カマタさんは工場で毎日汗まみれになって作業しながら、少しずつお金を貯めていた。いつかどこかの田舎に移住して、自分の工房を持ってバイオリンを作るのが夢だった。僕とは妙に気が合い、よく会社の帰りに飲みに行った。非常に温厚な性格で、謙虚で、物知りで、焼酎が大好きだった。

「人の手が生み出すと、曲線は暖かいもんなんだよ」

酔って紅潮した顔をこちらに向け、カマタさんは微笑みながら静かに語っていた。渋谷の安酒場で飲んでいて、熱い夏の夜だった。これも懐かしい思い出だ。

今はどこにいるんだろうか?

無事に生き延びている?

自分の工房でバイオリンを作るという夢は叶った?

その工房のガレージには、いつかカマタさんが乗りたいと言っていた、あの暖かみのある曲線を持つ昭和の旧車が停められている?

 一方、芝居という芸術の創作活動にあって、素材は人間そのものであり、素材の抵抗とは、その人間の肉体と個性である。肉体は演技の練習によってある程度、制御できるかもしれない。一生懸命に技術を磨けば、それなりに演技できるようになる。でも個性は制御が簡単ではない。演技の向こう側に、制御できない自分の個性が滲(にじ)んだ時、役者はその役になり切れず、しかも見え隠れしているその個性が平凡でしょうもないものだったら、確実に大根役者と呼ばれる。

だから、芝居という芸術では、画家がキャンバスに向かって格闘するように、役者が自身に向かって格闘しているのである。迫力がない訳がない。芝居に関わる全てが迫力だらけである。そこにディープな魅力を感じ、そこに魅せられ、抜け出せない人が多いのは当たり前の話なのである。「自分はこれがイイと思うんだ!これがまさに自分なんだ!」に向かって、自分の肉体を、個性を、人格を、人生を、全力で投げ出すのである。

 出て来た古いチラシを手に、そんな懐かしい人たちの事を思い出していた。いかん、いかん、全然、衣替えが進まないぞ。部屋の状況は更に悪化している。また怒られるかも・・・

僕は一瞬そのチラシをゴミ箱に捨てかけ、やっぱりアルバムの隙間に挟んでおいた。今度目にするのは何年後だろうか?

晩秋の休日の昼間の木漏れ日が、部屋に柔らかく射していた。もうすぐ冬がやって来る。

僕は衣替えしながら、こうやってどんどん年を取っていくんだなぁ、なんてぼんやり考えていた。確実に言えるのは、「自分はこれがイイと思うんだ!これがまさに自分なんだ!」の挙句に、全員どのみち骨になるということである。芸術に打ち込もうが、仕事に打ち込もうが、家庭に打ち込もうが、独りでいることに打ち込もうが、いずれ僕たちはみんな、たった数十年で平等に骨になる。

いかん、いかん、って僕は冬物の服を衣装棚から取り出し、順番にクローゼットへ掛けて行った。今年は寒いのかな?なんて呟く。あと数時間したら、家人を車に乗せて、前から行きたいと言っていた中華料理店へ連れて行かなきゃ。

もうすぐ冬がやって来る。

僕の生きる時間は、そうやって静かに過ぎて行く。

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ロスジェネ藝術論(仕事探しの間の休日に)

「何かいいなぁ」と芸術の必要性と人類の滅亡について考えてみた

 小学校5年生の時に現場学習でバスに乗って奈良に行き、薬師寺の本堂と東塔の美しい姿に息をのみ、土産物屋で見た赤膚焼(あかはだやき)の器(うつわ)の暖かい手触りとキッチュな奈良絵に感動した。なんて、どんだけジジ臭い子供だったんだと言われそうだけど、別にませていたわけではなく、或いは年寄り臭かった訳ではなく、末っ子だったので、「いいなぁ」と思う気持ちをそのまま素直に表せる環境だった。もちろん普通の子供だったから、キン肉マン消しゴムを集め、ガンプラの製作に熱中していた。

が、キン肉マンのキャラクターがカッコいいと思ったり、ガンプラのシャーザクの立ち姿に男の子のロマンと憧れを感じたのは事実だけど、それ以外に、もし他の友人たちが評価しないものであったとしても、自分がいいと感じたものはその気持ちを抑え込む必要が全くなかった。そう、「いいなぁ」という気持ちを臆することなく、そう感じた瞬間に口に出来たのである。

これは子供の世界にあって、幸せな環境だった。もしくは幸せなメンタリティだった。要するに、のびのびと育ててもらったのである。

 小学生時代のある日、いじめられっ子でクラス全員から嫌われていたキヨシが、宿題で書いてきた詩を朗読した。「水たまり」というタイトルだったけど、本当に瑞々(みずみず)しく、僕は「いいなぁ」という事で、一番いいと思った作品として投票した。だいたい、詩とかポスターとかが宿題で出て翌日の授業で発表があると、授業の最後に一番いいと思ったものをみんなで投票するのが当時はフツーだった。キヨシの詩に投票したのは僕だけだった。

他のクラスメイトの大半は人気のある学級委員長(スポーツ万能で勉強も出来て快活な性格)の作品に投票していた。子供の世界にありがちなカーストというやつだ。存在するのは全肯定か全否定の二択である。とにかく、キヨシの「水たまり」は濁った水たまりで泥んこになって遊ぶって内容だったから、いかにも普段から不潔な身なりをしているキヨシらしくて、机の下に自分の鼻クソを擦(なす)り付けるキヨシが書きそうな詩だという事で、恐ろしく不評だった。みな「キタナイ」という言葉を口々にしていた。

でも僕はその作品に繰り返し現れる「ちゃぽん」という擬音の使い方とリズムがとても好きで、聞いた時にいいと思った。友人たちはなぜキヨシのなんかに投票するのか?と訝(いぶか)しげだったけど、僕は一切気にしなかった。ほら昨夜、テレビドラマで山下清の話を見たでしょ?いい作品ってのは、あんな感じの人からあんな感じで生まれたりするもんよ、くらいの気持ちでいたのだ。もちろん、キヨシが授業を受けながら、鼻クソを自分の机の下に擦(なす)り付ける癖は大嫌いだったし、軽蔑していたが、それと作品の良さは別である。

 その後、自分の「いいなぁ」を大事にするのは、大人になってからも変わらなかった。若者時代になると、ちょっとアイデンティティの構築にも絡んで来るから、やっぱりありがちな話だけど、メジャーな作品の良さを認めつつ、少し拘(こだわ)りをもってミニシアターにマイナーな映画を観に行ったり、個性的な演劇、個性的なアート作品を見に行った後、喫茶店で煙草をふかしながら友人と感想を議論したりしていた。でも、普通の若者だったから、マニアックなジャズを聴きながら大学に通いつつも、普通にミスチルのCDを買って、「いいなぁ」なんて感動して聞いていた。あくまで自然体である。これは幸せなことだった。

世の中には自らの個性の強さをコントロールするのに苦闘し、叩きつけるように作品を生み出そうとする人もいるし、逆に自らの個性の無さに果てしない自己嫌悪を感じ、「人とは違う」趣味や感性を他人に見せつけることで何とか死なないで済ませようとする人もいる。

だから僕は、子供時代からのほほんと「いいなぁ」を自然に口に出来たことが何よりも幸せだったと思えるのだ。平凡ゆえの幸せというやつである。

でも、この「いいなぁ」は一体どこからやって来て、何のためにそんな気持ちが生まれるのだろうか?僕のように平凡に楽しみながら「いいなぁ」を呟(つぶや)ける人もいるし、「いいなぁ」の為に(芸術の為に)平凡な道を捨てて月と六ペンスの世界へ走り出す人もいるけど、いずれにせよ、われわれ人間にとってこの「いいなぁ」はどういう意味があるのだろうか?人間という哺乳類が種を存続させていく上で、「いいなぁ」は本当に必要?そういう疑問が湧いて来るのである。

 脳みその発達し過ぎた生き物として、人間は自由を手にした。昆虫を見れば分かる。昆虫に迷いはなく、生まれたら捕食し、消化し、排泄し、交尾し、産卵し、朽ちて微生物に分解されるか、その前に他の生物に捕食されるかだ。何かを見て「いいなぁ」なんて考える必要はなく、生きることに必要最低限の選択肢しかないから、そこに迷いもない。生きて、死ねばいいのである。

これが脳みそが発達し始めると、人間に近い哺乳類でも、好き嫌いが発生し、創造活動の一歩手前の「遊び」をやるようになる。イルカもチンパンジーも遊ぶ。

人間まで脳みそが発達してしまうと、抽象化能力なんて言葉はカッコいいが、要するに好き嫌いに個性が現れ、「何かいいなぁ」が始まってしまう。もちろん「何か嫌だなぁ」も同じように始まる。我々はこの「何かいいなぁ」と「何か嫌だなぁ」の間でたくさん迷い、或いは所属した文化の制約の中で我慢し、生きて行く。迷うということは、自由であるということだ。交尾一つをとっても、人間は嗜好が複雑化し、自由と言えば自由だが、昆虫たちから見れば「複雑で面倒くさそうだね」と思われかねない有様(ありさま)である。

どこかの学者が昔、「人間は本能が壊れた動物である」と言ったが、我々人間は、脳みそが発達し過ぎたせいで、選択肢が増え、自分にとって一番しっくり来るものを選ぶのに迷い続ける。「何かいいなぁ」を探し始めるのである。シンプルに、生きて、死ねない。

こうして芸術が生まれる。芸術は、創作する側も、創作されたものを鑑賞する側も、自分の主題(=何かいいなぁ)に出会う旅に出るということだ。脳みそが発達し過ぎて進化したせいで、自分の嗜好が何か、自分の個性が何か、自分が何か、我々は迷いの中で生きながら、芸術を通してこれを解決しようとする。ある人はのほほんと楽しみつつ、ある人は死に物狂いで寿命を縮めつつ、「何かいいなぁ」を追い求める。

ではなぜ「何かいいなぁ」が多種多様である必要があるのだろうか?種の存続にとって多様性は有利だから?

でも、モーツアルトに感動して神と崇める人、ジミヘンドリックスのギターに痺れる人、マイルス・デイビスのトランペットに涙を流す人が同時に存在することで、人間という種は存続するチャンスを広げることが出来るのだろうか?

これはよく分からない。多様性が種の存続にとって重要なのは分かるが、我々一人ひとりが「何かいいなぁ」を追い求めることが種としての進化の産物だったとしても、どっかの大国の権力者が核ボタンを「ポチっとな」と押すのに対抗できるとは思えないからだ。結果として、人間はやっぱり一種の失敗作だったのでは?と思う。恐竜は1億6千万年栄えて滅んだ。僕たち人間はアウストラロピテクスから400万年しかたっていない。人間は、これまでこの地球で発生し滅んで行ったあまたの生物の一つなのでは?なんて想像するのだ。「何かいいなぁ」はわれわれ人間が獲得した立派な進化であり、平凡な僕のような人間には幸せの糧(かて)だけど、核戦争の回避には役立ちそうにないのである。

赤膚焼の奈良絵から核戦争まで話が飛んで行ってしまった・・・

 ところで、話は変わるが「ムダの進化」という学説があるらしく、これは、生物の個体数が増え過ぎると異性にモテるための多種多様な進化が始まり、繁殖そのものへのエネルギー投資が疎かになって、結果的に個体数が減って行く、という話だ。

なるほど確かに、例えばこの国で言うなら、第二次世界大戦直後(1945年)に7千万人だった人口は、高度経済成長が終わった1960年末ごろに1億人を超え、そのすぐ後の1970年代に入って以降は婚姻率が低下をし始めた。社会が豊かになり人口が増えてピークを迎えると、恋愛そのものが社会の前面に押し出され、婚姻・出産といったイベントが後ろに下がって行く。

「世の中が豊かになったら、みんな何だかんだ言って恋愛は頑張るけど、結婚とか子育てに対しては慎重になるよねぇ」という東アジアで起こっている(真っ先に日本で起こり、今は中国で起こっている)状況を鑑みると、う~ん、東京ラブストーリーとかを始めとする昔のトレンディドラマは全部、「ムダの進化」の頂点だったのかなぁ、なんて思うのだ。種は増え過ぎると、繁殖そのものではなく、その前段階の「モテたい!楽しみたい!」に熱中し始め、結果として人口は減り始める。

で一方、種というのは増え過ぎると、殺し合いを始めるというのが往々にしてあり得るし、第二次世界大戦直後(1945年)に20億人超くらいだった世界人口は、もうすぐ80億人に達しようとしているから、もうそろそろ、どっかの大国の権力者が核ボタンを「ポチっとな」と押しそうだ。

そうすると、ひょっとすると、アレ?「何かいいなぁ」は核戦争の回避に役立つかもしれない。役立たないとは限らないぞ。だって、「モテたいなぁ」も「何かいいなぁ」も世の中が豊かになって初めて可能な「ムダの進化」だから。一見、種の存続には貢献しなさそうだけど、我々はこれのおかげで絶滅しないで済むかもしれない。要するに、人間はこの100年で爆発的に個体数を増やしてしまったけど、別にまた大規模な殺し合いをやらなくても、頑張って全員が豊かになって「モテたいなぁ」「何かいいなぁ」をみんなでワイワイやっているうちに、地球に優しい、ちょうどいい規模の個体数に戻って行くかもしれない・・

 なんて、昔買った赤膚焼のぐい呑みを眺めながら、地球規模に能天気なことを考えていた。非現実的な空想だね。アフリカ大陸も含め、全員が豊かになるには、我々の前に立ちはだかる壁はあまりに高い。

で、ここは平和な日本の地方都市だ。今のところ、街を焼き尽くす眩い光線は見えて来ない。ある日、それはやって来て、我々の人生を、家族の人生を、何千年もかけて築いてきた我々の文化を、何十万年もかけて維持してきた我々の種の営みを、すべて瞬時に焼き尽くしてしまうかもしれないけど。

 ちなみに、奈良絵はもともと釈迦の生涯をモチーフにしていたが、赤膚焼はそもそも庶民の為の陶器だったので、素朴な奈良の風物、鹿とかお堂とかが描かれ始め、要するに庶民の「いいなぁ」が描かれるようになって、今の姿になっている。大和(やまと)の土器色の上にすうっと描かれたそれらの愛くるしい絵は、見ていてほのぼのした気分にさせてくれる。

「いいなぁ」

僕たちは地球の裏側から届く悲しいニュースを毎日見ながら、静かにここで生きている。

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「走れ、絶望に追いつかれない速さで」と「二十歳の原点」とジェームス・ブラントに感動しつつ、ビールを飲んでムニャムニャ言って眠る

 なんだか90年代生まれの人たちというのはずっと年下なのだが、ひょっとすると大きく世の中を変えるのかも、と思うことが多い。音楽もそう。スポーツもそう。これまでの感性からスパっと飛び抜けた成果や作品が多く、いったい誰なんだって調べてみると、たいてい90年代生まれの人たちだ。たまたまなんだろうか。

最近じゃこんなオッサンが、通勤途中の車の中でJazzの合間にKing Gnuを聞いている。

 「走れ、絶望に追いつかれない速さで」なんて題名が、もうあれだね、ランボーの詩みたいで、カッコよすぎるなぁ、と思って監督をネットで調べると、ありゃやっぱり90年代生まれか、そして詩人なんだ、と納得する。若くにしてこんな凄い才能が発揮できるなんて本当に大したもんだ。

 映画は始終、美しい映像と構成で話が進み、最後のシーンも本当に美しい。こりゃ一遍の詩だね。主人公は親友が死んでしまった理由を知りたくもあり、知りたくもないのだが(なぜって同じように絶望に追いつかれそうだから)、そんな際どい心模様を、これまた90年代生まれの俳優が素晴らしい演技で演じている。自然で、嫌みなく、大人の所帯じみた感じもなく、すうっと人の心に入ってくるような演技をする役者さんだった。いい映画を見たなぁという感じ。

 中学生の時、たまたま手に取った「二十歳の原点」(高野悦子)という本を読んで、内容はもちろんだが、その文体とアフォリズムのみずみずしい美しさに感動し、よくこんな凄い文章を思いつくな、思いつくとかでなく、まさにそれが才能であり、湧き出て来るものなんだろうな、なんて考えていた。

たった一編の詩、音楽のワンフレーズ、映像のワンシーンであっても、もし自分が人生を生きた証と言えるような凄いものを生み出せるなら、それはきっと本当に幸せなことなんだろう。

そういやこの間、高速道路をぶっ飛ばしながら、ジェームス・ブラントの「Your’e beautiful」を久しぶりに聞いた時、う~ん、人生で一曲でもこんなのが作れたら、ミュージシャンとしてはもう大満足なんだろな、なんて思った。生きる意味があったというものだ。ジェームスさんは、最近ではちゃんと上着を着て、いい感じの落ち着いたオジサンとしてギター片手に笑顔で歌っている。他にもいっぱい素敵な曲を書いたけど、この曲をこの世に生み出した時点で、もう全てに意味があったというものだ。美しいメロディは、こんな東アジアの島国の高速道路の上でも、高い青空へ透き通って突き抜けて行くように流れる。凄い才能だね。

 が、僕たち大半の凡人は、一発で生きる意味があったと確信をもって言えるような奇跡の言葉や音楽を生み出すことなく、残して行くこともなく、たいていは、仕事キツイよぅ~とか、アレ美味しかったからもう一回食べに行きたいよぉ~とか、お尻のデキものは痒くも痛くもないけど不安だから一度お医者さんに診てもらった方がいいかなぁとか、しょうもない事をたくさん喋ってこの世に言葉を吐き出し(生み出し)、年を取って死んで行く。そこには誰かの人生を変えるような瑞々しい感性も、それを表現した作品もなく、僕たちは胃痛と共に目を覚まし、夜はビールを飲んでムニャムニャ言って、眠りにつく。ただそれだけだ。一編の詩も、美しいメロディもない。絶望的と言えば絶望的だけど、そもそも僕たちの大半は端(はな)から創作の才能がないので、絶望に追いつかれる恐怖感もない。既にここにいる場所が、所帯じみた、平凡で退屈な場所で、人生が光に輝いて飛翔して行けるような瞬間もないまま、ヘラヘラ笑ってゲップして、ただ眠ればいいのである。

そういう意味では創作に携わる芸術家たちの苦労は、想像を絶するものなのかもしれない。絶望が常に背後から追いかけて来る焦燥感の中、死に物狂いで人生に光を見つけ出し、自分のスタイルで表現し続けなければならない。「個性を磨け」なんてホント地獄なんだと思う。若くしてすんごい作品を生み出してしまった芸術家が、その後に苦しむのは、本当に当たり前のことだ。きっと辛いんだろな。

だから、平凡がよろしい。そして時々は天才の作品に触れて感動し、でもやっぱ平凡でよかったぁ、こっちの方が絶対楽チンだぁ、なんて、ポテチを食べてAmazonプライムとか見ながら感謝するのが一番だ。研ぎ澄まされた感性というのは、若いころは憧れや羨ましさがあったけど、今や出来る限り鈍感に、のほほんと生きた方がいいのを知っているので、そういうのは無くてよかったと思っている。

たかが数十年の命だ。穏やかに、味わって生きるには、平凡な感性でよろしい。

 30歳で地元へ帰って来て、地方都市で暮らすのはいいいが、休日はマジで暇だな、何にもないな、何か新しい趣味を持とうかな、なんて思って、油絵を描き始めた。学校の授業で描く絵は下手だったし才能はないのは分かっているけど、昔から絵画を見るのは好きだったので、一度、キャンバスに向かってフムフム言いながら描いてみたかったのだ。「創作」ではなく露骨な「思い出づくり」である。観光地で貸衣装を着るのと同じ感覚だ。

近所で画家の先生がアトリエを開放していて、お金を払えばそこで自由に描いてよかったので、僕はその絵画教室に申し込んだ。油絵具とかパレットとか何種類の筆とか、ガラス瓶に入った溶き油とか、とにかく道具を揃えるのが楽しくて、嬉しくて、アトリエに来ても一向に絵を描こうとせず、色ってこんな種類があるんスか?、この木製のパレットが味があって気に入ってます、なんて先生を相手にベラベラ喋っていた。一応、先生もプロの立場からいろいろアドバイスをしてくれるのだが、何しろ生徒のこちらが全く不真面目で言うことを全然聞かない。オリジナルであることが大切、なんて先生が他の生徒に教えているすぐそばで、僕はマイルス・デイビスの顔写真が入ったCDジャケットを持ち込んで、それを模写し始めた。何か大切なものを新しく表現しようとか生み出そうとか、最初から全くそんな事をやる気のない、極めて不真面目な生徒だったのである。先生は苦笑いをしていた。「仕事でストレスが溜まってんだと思うよ。そうやって絵の具まみれで何かやっていると、気持ちが晴れるんでしょ?」なんて僕を諭した。僕はそんなものかな、と思いつつ、油絵具のこの匂いとか、アトリエの雰囲気はいいなぁと思っていた。懐かしい思い出だ。

 もちろん、本格的に絵を勉強しに来る社会人もいた。彼ら(彼女たち)は働きながら二科展とか目指している生徒さんだった。そういう人たちは気合の入り方が全然違ったし、先生の指導も見ていると厳しかった。ヤだね、休日にまで誰かに指示されるなんて御免だなと、横目で見ていたのを覚えている。

 そして僕と同じ時間帯には、美術大学を目指す女の子も描きに来ていた。いつも恐ろしく不機嫌で、アトリエに入って来ても誰にも挨拶はせず、まっすぐに自分の描きかけの絵を手に取って、イーゼルに乱暴に立てかける。そしてそこからは言葉通り「一心不乱に」描き始めるのだ。大きなキャンバスは暗い緑色(黒とか灰色が混ざった緑)まみれで、一見、ただの薄暗い緑色の壁みたいだけど、目をこらすと、ぼんやりとその奥に人間の目や鼻や口らしきものが見えて来る。そんな凄まじい絵だった。題名が「自画像」だ。彼女は叩きつけるようにキャンバスに絵の具を塗りこめ、必死で何かを表現しようとしている様子だった。きっと人生に光を見出そうとしていた。まだ十代だ。たくさんの可能性があり、何者でもない自分への苛立ちと不安に苛まれながら、きっと戦っていたのだろう。そして将来、もし無事に芸術の道に進んだなら、その戦いはずっと続いて行くのだろう。きっと辛いんだろうな。なんて想像していた。創作って決して楽しいより苦しい方が多いはずだ。僕はCDジャケットの写真をそのまんま、油絵を混ぜて模写していた。創作ではなく写経か塗り絵に近かった。お気楽なもんである。

 今日もどこかで、特に東京の片隅、下北沢か高円寺か上野かどこかで、自分の才能を信じて死に物狂いで創作し、不安に苛まれ、それでも戦っている若者たちがいるのだろう。彼らは長々と平凡に時間を積み重ねて生きて行く事を良しとせず、そして実際には20年くらいしか生きていないけど、もう彼らにとっては十分であり、生まれて来たことに意味があったと、たった一発の作品で世の中に証明してみせる為に、そのたった一発をこの世に生み出す瞬間を狙うために、必死に生きているはずだ。エミネムのOne shot ってやつだね。

大丈夫、絶望なんて追いかけて来ないよ。美味しいもの食べて、ビール飲んで、眠ろう。そう言ってやりたいオジサンがここにいる一方、絶望から逃れるように創作に打ち込むそんな若者たちのその若さに、眩しいものも感じているのだ。

100年前の世紀末である1890年代(要するに90年代)、芥川龍之介も宮沢賢治もヘミングウェイも生まれた。

何だか楽しみだね。

そんなことを平凡なオジサンは、ビールを飲みながら、のほほんと考えている。

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日常って失って初めて大切さに気づくという当たり前を改めて感じながら、それでも向こう側に光があると死体のように眠りながら確信する

 パンデミックは第6波という。

ちょうど2年前、中国大陸では新しいウィルスのせいで大変なことになっていて、工場が動かない、さあ大変だ、日本で慌ててラインを作ってバックアップ生産しなきゃ、ん?中国でしか調達できない部品はどうするんだ?なんて大騒ぎが始まった。

そこから今度は日本の第1波、それからあっという間にアセアンのパンデミック、ロックダウンに伴って部品や材料が入ってこない、船も飛行機も遅延しまくる、さあいよいよモノづくりはストップか?、いやいやまだ手はある、あきらめちゃいけない、なんて夜な夜な昭和世代が集まってプロジェクトXをやり続け、もう2年がたつ。

そしてまだ、過労死直前の残業にまみれ、昭和世代はプロジェクトXを続けている。

一方、令和時代の若者たちはちょっと遠目に、なんかオジサンたち、むっちゃ殺気立って迫力あるな、怖いな、なんか言われたら逃げる準備しよう、なんて構えて見ている。

そうそう、君たちは新しい時代の日本人だから、無理しちゃいけないよ、楽しく働いて、休みはゆっくりリフレッシュしてきな。残りの仕事は、今さら引き取り手なんてありゃしない(年食って後がない)オジサンたちが命を削って休みの日も頑張るよ、なんて2年やっている。

 若い頃は3時間か4時間眠ったら、残りは全部仕事をできた。それをぶっ続けで5日間は余裕で出来た。が、そろそろキツくなって来ている。週末は疲れで吐き気をもよおしながら、やっぱり深夜に、帰途のハンドルを握る。

 で、最近の土日は家人曰く「死体のように」眠っている。眠れるのだから、そして目が覚めたらお腹がすいて、美味しいものを食べに外へ飛び出して行くのだから、まだ大丈夫だね、って思っていたが、なんせまた第6波だ。県境まで来たら、回れ右をしなきゃ。フロントガラス越しに遠くの雪雲を眺めて、はぁってため息を一つつく。

遠く遠くへ走って行きたいな。

古い写真を見ていた。かつての日常。そこにあった、そこへ会いに行けた風景。

実家に咲いていた薔薇。母には会いに行くのを控えている。今年も庭に咲いているのかな?どうか無事でいて欲しい。

雨上がりの空に、次の季節を感じて、あのウキウキした感覚。日本と言う国の美しさは、地上というより空にあるのかも。

海辺の猿たち。冬場でも温かいあの島の笑わない猿たち。黙々と生きて、黙々と子供を作り、黙々と死んでいく。

朝もやに包まれた山桜。山はそれぞれが独立した生き物であり、古い大樹はこれも一個の魂をもった生き物である。だから毎年会いに行った。

夏の突き抜けて行く青。空は海に溶けて行く。マスクなんてせず、大声で騒ぎ、遊び、ニンゲンの息吹と、灼熱に輝く水に濡れた肌色を、僕たちは楽しんだ。

古都の雅(みやび)な夕べ。死んでいった人々を思い、弔い、生きている感謝を真夏の夜に捧げた。

高原の真夜中の星たち。何時間もフィルムカメラのシャッターを開けっぱなしにすれば、彼らの歓喜に踊る姿がはっきりと映った。

そして夜明け前の静寂。これはすぐそばだから今でも会いに行けるね。本当は墓場で夜明けを見ると、人生がもう一度輝いて見えるらしい。が、夜明け直前とはいえ、真っ暗な墓場で待機する根性はないので、海に会いに行く。

次の休みの日に行こうかな。

地元じゃないが、第6波前に出会った、これが一番のお気に入りの風景。

何がって?

険しい曇り空だけど、地上は暗澹とした灰色に覆われているけど、でも向こうに光がちゃんと見えるでしょ。だから大丈夫。

フィリピンのスタッフがteams会議の向こうでボソリと言った。

I hope things get back to normal soon・・・・

向こうにはちゃんと光が見える。

だから大丈夫。

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クラシックカメラにフィルムを装填し、空っぽの世界に静かな戦いを挑む

 ロスジェネの一人として腐らずに諦めずに、日々の生活はしみじみと楽しむことにしているが、その中でスローライフというのは重要なキーワード。立ち止まってゆっくりとプロセスを味わう、が静かな僕たちの戦いだ。

 そんなスローライフの一つとして、クラシックカメラでじっくり手間暇(てまひま)をかけて、美しいと思った風景や、感動した場面を絵画のように切り取る、というのを時々やっている。ありきたりだけど、フィルムを装填する、シャッター速度と絞りを決める、構図を決める、そしてパシャリとボタンを押す、という一連の過程が、普段の仕事の時間なんかと全然違うリズムで流れていて、本当に楽しい。

 もともとは父親の形見のマニュアルカメラをいじっているうちに色々調べ、興味を持ってあれこれ調べているうちに、欲しいクラシックカメラが出て来て中古市へ探しに行き、手に取って撮影するうちに、そのフィルム独特の優しいボケ味とか色彩、それから古い機械式ゆえに想像していなかった偶然性(過剰だが美しい光の当たり具合とか、油絵みたいなボケ味とか)に魅了されて行った。

 カメラは色々買っていろいろ使ったけど、今は外で撮影するときはニコンF2を使用し、部屋の中で撮影するときはミノルタ35Ⅱbというレンジファンダーカメラを使用している。

このミノルタ35Ⅱbは1958年製の美しいカメラで、シルバーのボディに革紐をつけて、家の中の日常の風景とかを撮ることが多い。全部、僕の選んだ場面を優しい光に包んで切り取ってくれる。

そして車の助手席にポンと乗せて外に撮影に出かける時の相棒、ニコンF2は1973年製で、フル金属のボディだからめっぽう重いけど、日本のものづくりが一番輝いていた時代、ネジの1本まで日本人が作った100%のMADE IN JAPANで、そのずっしりとした感覚が本当に感動的。望遠レンズ・広角レンズ・マクロレンズと一緒に連れて行く。

花が好きで花をよく撮る。花が好きなのは母親の影響だ。オールドニコンのレンズは、どこまでも気品が高いボケ味を花の向こう側に映し出してくれる。現実の画像を、その対象を撮りたいと感じた僕の気持ちを凝縮して一枚の絵画に変え、フィルムに焼き付けてくれる。

チューリップは映画のワンシーンみたいに写る
薔薇は一編の詩のように映る
今年の紅葉はキレイだったな
石垣の上には鮮やかな天幕

海の近くに住んでいて、これは自分の故郷が海の近くだったから。東京に住んでいたころは、簡単に美しい海を見に行けず、フラストレーションが溜まっていた。というのを17年前にUターンして思い知った。
今では青空の広がる休みの日に海辺(子供のころ遊んだ場所)を家人と散歩するのが、一番の幸せである。平日のストレスがあっという間に海の彼方へ消えて飛んで行く。

そして海が近いということは、いつでも行けて、その多様な表情を見れるということ。海は季節や天候や時間によって本当にいろいろな表情があるのだ。僕は昼間の青空にそのままつながる真っ青な海が大好きだが、ときどきは闇夜がすうっと開けて世界が光に包まれる早朝の日の出の瞬間も好きだ。

フィルムを装填する、シャッター速度と絞りを決める、構図を決める、そしてパシャリ。

しみじみ生きるということ、味わってゆっくり楽しむということ。これは厳しい時代を生きて来た、そして死ぬ最後の瞬間まで厳しい時代を生きる我々の世代にとって、大切な生活スタイルである。

体が痛いとか疲れがヒドイとかブチブチ言いながら、死ぬ最後の瞬間まで働き、税金を納め続けるんだろなぁなんて思いながら、それでも空っぽの世界をささやかな意味で満たそうとする、僕たちの静かな戦いでもある。

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ロスジェネ藝術論(仕事探しの間の休日に)

女心はくすぐられなかったようなので、自分が頑張ってオシャレな小物を揃えて家族の健康を祈った

 家を建てた時に高品質低コスト・「住む」を目的に機能と動線を最優先、という具合に僕は話を進め、毎回、工務店との打ち合わせの都度、PCを持ち込み、事前に自分でエクセルで引いたレイアウト図や希望する仕様や材質を提示し、あわせてやはりこれも事前にネットで調べたそれらの相場価格、一般的な工賃、工務店側の想定利益(取り分)などをこちらから提示し、交渉の上、最終的に思い通りの家と金額になった。

 普通は家を建てる時は、やはり夢のマイホームであり、「夢」の大半は奥さんの夢である場合が多いので、住宅営業マンは打ち合わせ時に常に奥さんの顔を見て語り掛け、「おしゃれな吹き抜けの〇〇はどうですか?」「おしゃれな出窓をこのあたりに取り付けたらどうですか?」とか、要するに女心をくすぐって口車に乗せて、およそ機能性とは無縁でそのぶん工務店にとっては利益幅の大きいオプションをどんどん勧めて来るのだが(あっという間に見積金額がとんでもない額になる)、ウチの家人の場合は「旦那に一任する。旦那には、とにかく私が年をとっても快適に住める家を作るよう指示済み」ということで、毎回ニコニコしているだけで、一切、口車に乗らなかった。

 結局、住宅営業マンが「我々も最低限の利益を乗せないと上から怒られますので、勘弁して下さい」と言うところまで僕が交渉を進め、無駄のない、でも住む分には快適な高品質のマイホーム仕様が決まった。メーカー勤務数十年のシゴトの延長戦で家を建てた感覚だ。工場を建てる時に業者と打ち合わせする時とあんまり変わってない。

 が、外構も含め全部が決まってしまうと、なんだかこのままではあんまりにも機能を重視し過ぎて、遊びの部分が無さ過ぎ、ちょっと心配になって来た。マイホームは工場ではないのだから、機能や品質だけではいけなかったのかも、なんて遅すぎる後悔が始まる。外観の壁の色や屋根の瓦の色、玄関のドアのデザインや部屋の壁紙の種類など、見た目に関するものは全部、家人に選んでもらったけど、たいていはニコニコして「じゃ、これでいいわよ」と言う感じでサクサク決めてあんまりこだわりも無さそうで、それはそれで不安になって来た。どうも調子が狂う。

 で、リビングにウォールシェルフ(壁に取り付ける棚)をつけてもらって、そこにおしゃれな置物を置くことにした。家人に言うと「いいんじゃない」と相変わらずニコニコしているだけである。僕はネットでウォールシェルフを検索し、一番、部屋の雰囲気に似合いそうなものを見つけ、取り付け費用も含めた相場も調査し、エクセルで壁のどの位置にいくつ取り付けて欲しいのかレイアウト図を自分で描いて、翌週の工務店との打ち合わせに持って行った。

 そうなると、そのシェルフ(棚)に何を乗せるか考えないといけない。これも家人に好きなものを乗せるよう言ったけど「一任する」と言う相変わらずの返答だったので、あれこれ考えて、1段目はカフェ風に、コーヒーのドリッパーとサーバー、それに手引きのドームミルを乗せることにした。真ん中にコーヒーの生豆を麻袋に詰め、実際に炒って挽けるようにする。

う~んなかなかいい感じ。これはこの後、実際に家を見に来た家族や友人の目にとまり、その場で豆を挽いてドリップしてリビングでコーヒーを飲んで頂いた。大好評だった。

シェルフはもう一段ある。何を乗せようか?家人にもう一度希望を聞いたけど「一任する」とのこと。こりゃ困った。ネタがもうないぞ。さんざん悩んだ挙句、やっぱりデザインと「祈り」が一致するようなものを置くことにした。「祈り」とは家族の健康のこと。デザイとはせっかくなのでオシャレなのがいいとういこと。

 ネットでいろいろ調べて、生まれ年の干支の置物を家に置くと長生き出来ると書いてあったので、そうか、家人は午年(うまどし)だから、おしゃれな馬の置物を置くことにした。リビングを含め、家の中が開放感があるように壁紙は白にしていたから、白いリビングに似合う置物がいいな、なんて考え、ダーラナホース(スウェーデンの伝統工芸品である木彫りの馬)のうち家人の好きな水色のを買った。

大中小の3点をシェルフの上に並べてみる。いい感じだ。

さらに、女性が悩みがちな便秘を解消するのに縁起がいいという(女性の健康を守る縁起を持つ)豚の置物を置くことにした。豚は縁起がいいんだね。長生きするだけじゃ駄目。元気で健康でいて欲しい、そんな気持ちで選んだ。

これもいい感じ。なんだか全身で福を運んで来てくれそうな豚さんだった。

ダーラナホースは手作りらしいけど、あとのコーヒーの道具も、豚さんの置物も大量生産された製品ではある。でも僕はそのデザインを考えた人の思いと、それを世の中にデビューさせるために携わった人たちの情熱と、出来上がった製品のしみじみした味わいを受け止め、やっぱりいいなぁと感じる。それらは全部、僕たちの人生にとって大切な、しみじみ味わうべき芸術なのだ。

 最近はパンデミックのせいで在宅勤務も多く、家で仕事をすることが多くなったが、ミルでコーヒーを挽いて飲みながら、休憩時間にこの「祈り」の棚を眺めている。

機能と品質重視の我が家にあって貴重な遊びの部分が、祈りとともにこんな小さな棚に集約されていて、僕は大満足で眺めている。家人の便秘が治り、いつまでも元気でニコニコ長生きしてくれますように。

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ロスジェネ藝術論(仕事探しの間の休日に)

ブタメン焼そばの豚の顔に挨拶することと焼き物の美しさを味わうことは同じ芸術の鑑賞である

 家人がやたら食べ物を買い溜めしたがるので、台所に買い物袋が並べてあって、そこからカップ麺やその他のレトルトの包装が見え隠れしている。

毎朝、僕はそこでコーヒーを入れて立ち飲みしてから会社に行くのだが、見え隠れしているインスタント食品の一つにエースコックのブタメン焼そばがあり、その真っ赤な包装イラストがもの凄く豪快で、マスコットの豚の顔が、いつもコーヒーをすすっている僕を見上げている。毎朝、顔を合わせるうちに僕はその豚に「おはよう」と挨拶するようになり、なんだか愛着が湧いてしまった。そしてこういう製品の一つ一つにも開発の段階で企画会議があり、何度も何度も打ち合わせを繰り返した結果、こんな豪快なイラストと豚の顔が誕生したはずだ。この豚の顔を描いた人はどんな人だろう?どんな気持ちでこの商品を世の中へ送り出そうと意気込んだのか?そんな事を考え、色々と作り手側の創作している姿を想像し、明るい気持ちでコーヒーを飲んでいる。

このあいだ一つ食べたけど、昭和のインスタント焼きそばの素朴な味がして、本当に美味しかった。他愛もないけど、これは日常の中でしみじみ味わう、一種の芸術の鑑賞である。

 話は変わるが、実家の客間の戸棚の上に信楽焼の一輪挿しが昔から置いてあった。昼間は普通の小ぢんまりした器にしか見えないのに、その客間で中学生の僕が夜更かしして本を読んだり勉強したりしているうち、深夜の蛍光灯の光に照らされ、妖しげな美しさが満ち溢れて来て、不思議な気分で眺めていた。当時は、谷崎潤一郎とか三島由紀夫とかを筆頭に昭和文学にドップリつかっていた時期だったし、小林秀雄にハマり始めていた頃だったから、余計にそんな風に通(つう)ぶった、ちょっと大人ぶった感覚で「やきもの」を見ていたのかもしれないけど、でも大人になってからも、なんとなく「やきもの」が好きで、ありきたりな表現だけど特に陶器の土の温かみが好きで、個展とかあれば立ち寄るようになった。

 家人とデートする時も、日本各地の焼き物の街を訪ね、眺めて回った。別に買ったりはしない。ただただ、所狭しと陶器が並べられた店を入っては出て、入っては出て(焼き物の街はだいたいこういう店が集まって通りに建ち並んでいる)、ちょっと疲れたら喫茶店でコーヒーを飲み、あぁやっぱりこんなとこにある喫茶店のコーヒーカップだから、当然〇〇焼きだよね、なんて話しながら時間を過ごした。「やきもの」の街はどこも高齢化が進んでさびれている場合が多いけど、それも含めてプラプラ歩いているだけで雰囲気に趣があり、気持ちが洗われる。もう使わなくなった登り窯とか、大量に捨てられた器の破片の山とか、全部が風景の一連のセットになっていて、何時間いても飽きないのが「やきもの」の街である。

 家を建てたとき、食器棚も新調して備え付けたが、子供のいない二人暮らしで、食器も少ない。それまで住んでいたアパートから持ってきた食器を全部収納したら、なんとガラス戸の中に入れるものが無くなってしまった。そりゃそうだ。僕たちはファミリータイプの食器棚を買っていた。計画性ゼロである。でも大は小を兼ねるというからいいか、なんて考えていた。

 が、そのうちさすがに気になって、家人が集めていたコンビニの景品(リラックマのカップなど)を入れてみたが、それでもガラス戸の中の右半分しか埋まらない。

 そうだ、せっかくだから左半分はギャラリーみたいにして、自分のお気に入りの「やきもの」でも集めてみようと思った。ヤフオクで探し始める。益子焼、織部焼、志野焼、信楽焼、伊賀焼、京焼、備前焼、萩焼、唐津焼。僕は好きな作家の作品を見つけ、こつこつ落札して集めては、ガラス戸の中のミニギャラリーに飾って行く。

 ところで、「やきもの」は窯の炎で釉薬(ゆうやく)や土の生地の色が七変化するので、その偶然性を楽しみに作家は窯へ作品を入れ、薪をくべる。いわば炎と作家が協業して芸術を作り上げ、成功すれば個展で陳列され、失敗すれば窯から出された直後に叩き割られるというのがこのアートのプロセスだ。なので、やっぱり炎の効果が焼き物のアートの価値を構成する重要な要素となり、作家の手触りで世界に生み出されたフォルムにどれだけ炎が不思議な色合いを付けてくれるかが鍵となる。

 そういう意味で、僕が特に好きなのは伊賀焼である。ビードロ釉と呼ばれる釉薬が高熱によってガラスに変化し、作家の手触りで形となった土の器の表面の一部を美しくコーティングする。

僕がヤフオクで落札したのは、谷本光生という伊賀焼の大御所が作った茶碗で、初めて手にした時、なによりそのビードロ釉の美しさに圧倒された。変な言い方だけど「美しさの迫力」ってこういうのを言うのかな、なんて思った。伊賀焼はアシンメトリーが特徴で、作家によっては極端に左右のバランスの崩れを強調してフォルムを作る人もいるが、この大御所は奇をてらわずにあくまで淡々と形の良い端正な器を作り、炎を信頼し炎と共演している。穏やかな人柄だったらしいけど、だからなおさらアーチストとしての凄みを感じる作品だと思った。凄腕の剣豪が普段ニコニコしているのに似ている。

 ブタメン焼きそばの豚の顔と、伝統的な焼き物の大御所の美しい器を並べるのは不敬かもしれない。怒られるかな?

でも、僕は確信犯としてこれを並べて論じ、確信犯として同じようにこれを芸術の鑑賞と呼ぶ。それが大量生産されるものであっても、作家による一回きりの創作であっても、僕たちの生活を明るくし、僕たちに生活をしみじみ味わせてくれるものは、等しく人生にとって大切なものだ。この視点を見落とすと、人生を無駄にする。崇高な芸術と低俗な芸術がある訳ではない。崇高さも低俗さも、それが作品に反映され、その向こう側に創作に賭ける作り手の姿と情熱を思い浮かべて楽しめるなら、我々の人生にとって大切な芸術である。

 僕は今日もコーヒーを飲みながら豚の顔に挨拶し、食器棚のガラス戸を開けて大御所たちの情熱の結晶をしみじみ眺めている。

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「写ルンです」から始まり、父親のクラシックカメラへ

 実家に帰った時に父親の部屋を片付けていて、古いフィルムを見つけた。アイレス35Ⅲsという1958年製のもので、アイレス写真機製作所という、もうとっくの前に倒産して無くなっている会社の製品だ。父親は僕たち家族を、全部このフィルムカメラを使って撮り続けた。どこへ行くにもこの重たそうなカメラを皮のケースに入れて大事そうに持ち歩いていたのを覚えている。70年代から80年代の話だ。

久しぶりに見たその写真機は、本当にずしりと重かった。

子供のころは触らせてもらえなかったから、その重さは想像通りでちょっと嬉しかった。手で持つ部分のモルトプレーンが剥がれて外観はだいぶボロボロだったけど、まだシャッターは切れた。僕はそれまでマニュアルのフィルムカメラなんて使ったことがなかったし、学生時代は「写ルンです」が全盛の頃で、それで友達と記念写真を撮る程度だった。そしてすでに写真は携帯電話で撮る時代だったけど、古めかしいカメラを手しているうち、まだコレ写るのかなって考え、フィルムを買ってきて使い方をネットで調べ、庭の花とか自分の車とかいろいろ撮ってみた。その時初めて絞りとかシャッター速度とかの仕組みを学んだ。

 果たして、現像されたプリントにはしっかりと僕がファインダー越しに目にした風景が映されていた。輪郭がなんだか昭和って感じのキリキリした感じで、色合いも、あぁ家族写真は全部こんな感じだったなという優しいぼやけた感じだった。

 1枚だけ庭で撮ってあげた母親の写真があって、それもきちんと写っていた。渡してあげたら「アラけっこう綺麗に撮れてるね」と喜んでくれた。父親が死んで5年くらいたった後だったけど、父親のアイレスでまた母親の姿を撮影出来て、何だかちょっと親孝行した気がしたし、息子としてほんの少しだけ誇らしい気分だった。

 古い機械がそれでもまだ頑張れるというのは、もはや若者でなくなった男にとって、とても勇気の出る話だ。機械式のフィルムカメラは修理すれば永久に使えるという「永久」に惹かれ、そのあとニコンFだライカM3だミノルタだとあれこれ買い集め、僕はすっかりクラシックカメラの虜になった。休日には車で田舎へ出かけ、気に入った風景を見つけては、これでもかと手間をかけて1枚1枚を丁寧に撮影した。非効率を楽しみ、現像まで待つという不便さを楽しむのが、独身時代最後の頃の、優雅な休日の過ごし方だった。

 今や家族を持って、使用するカメラはもっぱらデジカメである。モタモタ撮っていたら、いつまでポーズを取らせるのだと怒られるし、大事な場面でブレブレの写真にしてしまうと、手振れ防止機能がついていてなぜこんなブレブレの写真になってしまったのだとか、後でいろいろと苦情が来るので、効率的かつその場で出来栄えを確認して確実に撮らなければいけない。フィルムを使うのは、家族の日常をさり気なく撮るときか、撮影する!と決めて一人で撮影に行く時だけだ。

そして父親のアイレスは、僕の書斎のニッチに飾って置いてある。

もう製造されて60年以上がたった古いそのカメラは、まだフィルムを入れればきちんと写せるし、しかも本気を出せばそれなりにボケ味がきれいな美しい写真を撮れる。

僕は時々、朝一人で早く起きた時などに、家族の寝顔をこれでそっと撮って、またそっとニッチに戻し、自分の子供時代などを思い出している。

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Something ELse はジャズのド定番だけどペーパードライバー脱却には必要だった

 ジャズが大好きだ。これは父親の影響だ。で、だいたいジャズ好きっていうと、あんまり有名どころは敢えて外して、ちょっとマニアックなところを「コレが好き」と言いたがるものだけど、僕は全然フツーに、ド定番を「大好き」という。だって、ド定番ということは、モーツァルトの楽曲と同じで、この先、何百年も人々から愛されるだろうってことだからだ。それくらい完璧!ということである。だから、そりゃそうだよねって感じで僕はフツーに「大好き」という。

 Something ELseはマイルス・デイビスとかキャノンボール・アダレイとかアート・ブレイキーとか、要するにそれぞれの楽器の神様みたいな人たちが一堂に会したアルバムだ。そりゃトンデモない作品に仕上がって当たり前な話だ。で、僕はこのアルバムを、子供の頃に父親の仕事場で耳にして、そのあと大人になってから「あぁ聞いたことあるよ」って思い出して、そのあと自分でCDを買って来て、そのあとちょっとアルトサックスでアダレイのフレーズを真似したりして、そのあとUターン転職して地方暮らしを始めたので車の運転中に聞くようになった。もはや数千回は聞いてきたアルバムということだ。

 ジャズなんてよく知らないやって言う人にオススメするとき、やっぱりド定番からの方が入りやすいから、僕はこのSomething ELseを勧める。余計な小難しいウンチクはどうでも良くて、まずは相手に「いいなっ」と思ってもらうのが一番だし、自分がいいなって感じているものが人に伝わるのはとても気持ちいいから、「食事中でも昼寝中でも寝る前のベッドでも、朝の目覚めでも、トイレの中でも、そして通勤途中だって、どこでも聞きやすいアルバムなんだ」みたいな感じでフランクに僕はおススメする。実際このアルバムは、生活のどんなシーンでも僕たちの気持ちを楽にしてくれる、僕たちの考え事や感情の推移を中断してジャマをしない、だから自然に寄り添ってくれる、そんな完璧な音楽の集合体だ。

 と、人にはオススメするのだが、実はこのアルバム、僕にとってはどういう訳か、非常に実用的なアルバムになってしまった。結果的にそういう事になった事情はこうだ。

 東京で10年近く暮らしてから地元にUターンして来たはいいが、僕は典型的なペーパードライバーだった。要するに運転なんて教習所でしかしたことがなかった。そして僕の地元は典型的な地方都市で、車がなければ生活できないほどではないにしても、無茶苦茶不便だった。バスや電車も東京みたいに縦横無尽にひっきりなしに走っていない。乗り継いで待って、乗り継いで待って、ようやく目的地にたどり着くのだから、車がなければ、本当に不便だ。

 それでも僕は、東京から帰って来た直後の半年間は自転車で過ごした。会社は工業団地にあったから周囲は工場群と田んぼしかなかったけど、その田んぼの間に立つアパートに部屋を借りて、そこから自転車で通勤した。東京帰りのちょっと変な奴くらいに見られていたかもしれないが、どうせ休日はぐったり疲れてアパートで眠るだけだ。買い物は自転車で10分くらいのところにスーパーとホームセンターがあるから、全く問題なし。という具合に、こんな田舎に帰って来て失敗したなぁ、なんて思いながら暮らしていた。だって転職したての頃というのは、本当に疲れがひどく、ただでさえ田舎暮らしに慣れるのに苦労しているのだから、自動車の運転なんて恐ろしいストレスは当面は勘弁してくれ!と思っていたからである。

 が、当然、仕事の中で出張も発生する。上司や先輩と社用車で出張するときは、普通は一番下っ端が運転するものだが、僕はニコニコしながら後部座席に乗って運転をお願いしていた。

そして転職して半年後、当時の上司が僕に「そろそろいい加減にしろよ」と真顔で言った。

 僕はやむなく車の運転をすることにした。面倒臭ぇ~って思いながら、自動車教習所のペーパードライバー講習に行き、先生に助手席に乗ってもらって自分のアパートと会社を3往復して練習し、翌日、中古自動車の販売店へ車を買いに行った。ハイ、運動神経ないです。5教科は得意だったけど体育は5段階評価でいつも2でした。どうせぶつけまくるでしょう。大きい車なんて、モビルスーツのコックピットに乗っているみたいで、やっぱり怖いや。

 なので、走行距離7万キロ超えの小さな中古のハッチバックを選んで購入し、1週間後にそれに乗って通勤を始めた。恐る恐るだ。

 会社まで自転車なら15分の距離だったが、車で通勤を始めると、朝は30分かかった。工業団地に向かう道は朝は通勤の車で渋滞するのだ。要するにノロノロ運転になる訳だが、やっぱり運転はとても怖いし緊張する。自分がケガをするのが怖いというのより、人様(ひとさま)を絶対に傷つけたくない、という恐怖感が頭から離れなかった。帰りは夜の12時ごろだったから(当時は残業まみれだった)、5分くらいでアパートに帰れたし、その時間になれば、さすがにあんまり他に車も走っていないから楽だったが、朝の通勤の30分は、交差点にさしかかる都度、左折や右折の都度、ドキドキしてハンドルをきり、慣れるまでが本当に大変だった。他人が聞けばしょうもない話である。

 結局、ビクビクしながらの車の運転から脱却するまで、そのあと半年もかかったけど、とにかく緊張をほぐすために、車の中でリラックス出来る音楽をかけようと思い、子供のころから慣れ親しんだこのアルバム、Something ELseを選んだ。なるべく家でリラックスしているような感じで行きたかったからだ。

 なので、1曲目の「枯葉」のイントロを聞くと、今でもあの慣れない運転で苦労しながら通勤を始めた頃を思い出す。あぁ、あの頃は後悔と不安でいっぱいだったなぁ、毎日毎日、東京に戻りたいなんて青臭い感傷に浸っていたなぁ、なんて思い出す。

 もちろん、こんな実用的な聴き方をしていたって話は僕の個人的な話であって、このアルバムの価値とは全然関係ない話である。でもウンチクはいらない。音楽の聴き方はどこまでも自由であるべきで、それぞれが好きな曲を、好きに聴いて、聴いている時間だけ、人生を心地よいものにすればいいのである。音楽は僕たちが人生をしみじみ味わって行くための大切な装置である。どこまでも自由でいい。

 ちなみに、ジャズ大好きな僕は、音楽ならこだわりなく何でも聞く。なので運転に少し慣れてきたころ、ちょっとジャズばっかりも飽きたかなって、FMラジオをかけることもあった。J-POPがよくかかっていた。

そしてミスチルの「くるみ」がかかった時、その歌詞を耳にしてハンドルを握りながら不意に涙がこぼれた。だよね。・・・引き返してはいけない、進もう・・・・

Uターン組がこの曲をしみじみ聴くとヤバイ。

 若かりし日の他愛もない話である。そしてどこにでもある話である。

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人生のための芸術でもなく、芸術のための芸術でもなく

 「芸術」というと何だか高尚なイメージで、芸術を鑑賞しに行った、なんて口にしてしまうと、ちょっと意識高い系の連中と一括りにされそうで、凡人としてはついつい怖気づいてしまうのだが、美術館へ行って作品を見たり、お気に入りの作家の個展へ出かけることだけが、本当に芸術を鑑賞することになるのだろうか?と考えてしまう。だいたい「芸術を鑑賞する」というのはステレオタイプの表現で、意味が限定されてしまうような気がして、どっちかというと「ゲイジュツを味わう」くらいの表現の方が僕はシックリくるなぁなんて思うのだ。もちろん美術館や個展に足を運ぶことも素敵な時間を味わういい機会になる。でも、もっと身近で、朝起きて、歯を磨いて、なんてフツーの日常生活の中から、ふと立ち止まる瞬間として、「ゲイジュツを味わう」があれば、それが一番自然だなぁと思う。

 山崎正和という人は著書の中で「芸術」をよく扱って議論していたが、高校生の僕は彼の評論を読み漁っているうちにすっかり影響されてしまって、しかも10代の頃に影響を受けた考え方は結構そのまま大人になっても考え方の原型を成している場合があり、従って僕の「ゲイジュツ」に対する考え方は、今思うとほぼほぼ山崎正和という天才の受け売りだ。今も書斎の本棚の奥に彼の書籍は大事にしまってあるけど、その中の「人生としての藝術」という評論の中で、「人生のための藝術」か「藝術のための藝術」かという数百年前から繰り返されて来た議論を取り上げ、最終的に、どっちでもなく、芸術とは人生の営みの一つであって「人生そのものとしての藝術」が正解、と彼は書いていた。

 高校生だった僕は、ははぁん、なるほどね、と思ったものだ。確かに、個人の人生や個人の集団である社会のために役立ってこそ芸術だ、なんて考え方は、一見もっともらしい。世界でまだまだ大勢の子供たちが飢えている中で、自分の芸術がなんの意味があるのか?なんと芸術は無力なのか?なんて考え方は、すごくヒロイックでヒューマニズムに基づいた考え方に聞こえる。でも、ちょっと芸術を一種の道具にしているみたいで、それが仮に個人の幸福や世の中や利益のために役立つものであっても、やっぱり家電じゃないんだし、役立つというニュアンスが少しでも入ってくると実用的で萎えるよなぁ、なんて思った。だから「人生のための藝術」は全然、腹落ちしなかった。

 一方、いわば芸術至上主義みないな人たち、芸術は人生の幸福とか社会的な利益とかそんな世俗的な低次元のものとは関係なく、世界の最上位を占める最高の価値に関わるものなんだ、そしてオレたちは芸術至上主義者としてこの最高価値に命を捧げるんだ、なんて鼻息荒い野心満々の芸術家たちにも、いやぁな印象しかなくて、「藝術のための藝術」は胡散臭さしか感じなかった。

 だから、「人生のための藝術」でもなく「藝術のための藝術」でもなく、「人生そのものとしての藝術」というのが、「藝術」って難しい漢字を使ってるなって思いながらも、なるほど、生きるってことそのものが一種の悲劇や喜劇で、だから文学に僕たちは魅了され続けるんだよな、平凡でちっちゃな人間の平凡でちっちゃな生活の中に、あぁ奇麗だなぁとか、あぁ趣があるなぁとか、あぁ哀しいなぁとか、しみじみ感じるものがあるればそれがゲイジュツなんだよなと、しっかり腹落ちが出来た。そして今も、ゲイジュツに対する考え方はそこから変わっていない。

 家族の健康を祈って買ってきた動物の置物とか、当時はCADなんてなくて手で図面を描いたであろう大昔のの古いカメラなどの工業製品とか、このあいだニトリで買ってきた普通のシャンプーボトルの優しいフォルムとか、普段の日常生活の中で、なんとなくそれらを眺めて立ち止まりぼんやり物思いに耽る瞬間など、一種の芸術を味わっている時間なんだと思っている。芸術は人生の向こう側にあって役に立ったり、人生とは別の場所で光を放つものではなく、この生きて行く一つ一つの行為の中に、しみじみ味わうものとして立ち現れるものなのだ。だから、凡人は怖気づく必要などなく、目に映るものや風景を大切に、じっくり生きて行けばそれでよい。僕たちは高尚ぶったり、おしゃれな自分を演出する必要はなく、フツーに平凡に生きて行けばそれでいいのである。だってそれがまさに、芸術を味わうことだからである。