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ロスジェネ美食論(仕事探しの活力の為に)

落ち込んだ時に効く魔法のコトバをきっかけに、人生で出会って来た料理の数々を思い出した

 仕事でもプライベートでもなかなか上手く行かない、前に進んでいかない、苦しい、みじめだ、空しいなんて、腐るほど経験するのがフツーだけど、それが「フツーだよね」って寝そべりながらゲップでもするように言えるのは、その人が年をとっているからである。人間の年齢は我々に、肉体の衰えという悲しい試練を与えるが、同時に、「面の皮が厚くなる」という素敵な贈り物もくれるのだ。

が、若い人はそうは行かない。若い人たちは可能性という希望がある一方、傷つきやすさの呪縛の中で生きている。なかなか上手く行かない、前に進んでいかない、苦しい、みじめだ、空しい、のまま落ち込んで行き、そのまま気持ちが底の底まで墜落して行って、ある日、「仕事を辞めようと思います」と打ち明けて来る。

何?仕事辞めてどうするの?ユーチューバーになってバンライフとか始めるの?仕事なんてどこだって一緒だよ。どうせ天然資源がこれぽっちもない貧しい国なのに、しかもこんな年寄りだらけの国なのに、GDPが未だに世界第3位だなんて、みんなヒドイ目に遭いながらヒーヒー言って働いて税金納めて何とか成り立っているのがこの国のカラクリだよ、どこの会社行ったって国を飛び出さない限り一緒なんだよ。この国で働くってそういうもんだよ。

なんて言ってはいけない。これはド昭和の言説である。そんな事を落ち込んでいる若い人に言っても、「昔はね、防空壕というのがあってね」と僕たちが子供の頃、お爺ちゃんやお婆ちゃんから聞いてポカンとしていたように、彼らの心に何も響いて行かないのだ。

で、若い人が離職するのは、会社組織がそもそも古いとか、日本という国がそもそもオワっているとか、そういう事は置いておいて、マネージャーたちが活き活きした職場づくりを出来ていないからだ!と人身御供(ひとみごくう)のように中年たちが責められ、責められたそんなマネージャーたちがため息をついてうなだれているのを見て、あぁ、あれが自分たちの数十年後か・・・なんて若い人たちはますます仕事を辞めて行く。これが世相というやつだ。

落ち込んだ時にどのようにそこから抜け出せばいいのか?これを傷つきやすさの呪縛の中にいる若者たちに、どうやって効果的にアドバイスするのか?

若い部下の人たちと面談をする度にその問いを考えてみるが、これだけ年齢が離れると、世代が違い過ぎて、つまりは価値観が違い過ぎて、そのくせ一緒に生きているこの国や社会は老人たちが牛耳り続け、昔のまま閉塞感でいっぱいで、希望のある上手な答えが見つからないのである。

「苦しい時には、自分のそれまでの人生を振り返ってみて、一番みじめで悲惨だった頃の自分を思い出すんだよ」

僕が若者だったころ、上司だった40代の課長が僕にそうアドバイスしてくれた事があった。もちろん、これは昭和のアドバイスである。今じゃ全く使えない。

「これまで頑張って来て今の君があるわけでしょ。昔、頑張って乗り越えて来たその過去の自分がさ、大丈夫だよ、あんな大変な時期も乗り切って来たんだから君は大丈夫だよ、なんてな具合に、今の自分を励ましてくれるんだよ。最後の最後に自分を支えるのは、親でも友達でもなく、過去の頑張った自分であって、その自分が今の苦しんでいる自分の横に立って励まし続けてくれるんだよ。」

これは昭和のアドバイスをちょっと丁寧に言い換えただけである。平成くらいまでは通用したけど、令和の若者にはやっぱり「防空壕」でしかない。はぁ~・・・

という話を家人にしたら、

「イヤなことがあった時は、美味しい食べ物のことを考えればいいのよ」

と明快なお言葉を頂いた。男前な見解である。

美味しい食べ物かぁ、なるほどね。確かに、人は美味しい食べ物を食べている間は、死にたいなんて絶対思わない。

僕はそっと頬を撫で、出来る限り長生きし、そしてこの人より数日だけ長生きし、見送る時には院号に「満腹院(まんぷくいん)〇〇〇〇」と付けてやろうと密かに考えている。

結婚前に家人が作ってくれた迫力いっぱいのアップルパイ

画質が悪いのは大昔のガラケーで撮影しているから。でも初めてこれを作ってくれた時、そのリンゴの大きさに、そして全体のつくりの迫力に圧倒され、その向こう側でこちらをニコニコ見ている家人の笑顔にすっかり参ってしまって、僕は携帯電話をおずおずと取り出し、撮影した。もう大昔の話だ。でも人生で本当に「美味しかった!」食べ物の一つである。

中国の奥地で食べた舌の根元まで痺れる本場の本物の麻婆豆腐

駐在時代に中国の山奥のローカル料理屋で本場の麻婆豆腐を食べた。本物の麻婆豆腐は「辛い」のではなく「痺れる」のである。その痺れ方が癖になるほど美味しく、僕は何杯もお替りした。

神戸へ遊びに行くたびに必ず食べるずらっと並んだ明石焼き

さあ、片っ端から食べるぞ!という感じで、お椀にだし汁をいっぱい満たし、箸でつまんでパクパク食べ始める瞬間のあの幸せ。

郡上八幡で郡上踊りを見に行ったついでに食べた鯉のあらい

鬼平犯科帳を読んでいて、頻繁に登場するのが、軍鶏鍋とこの「鯉のあらい」。昔から食べたくって、いつか食べようと思って、郡上踊りを見に行った時に立ち寄った老舗の料理屋で、念願かなってついに食べることが出来た。酢味噌をつけてキュッと食べたら喉越しがサイコ―!日本酒が欲しくなる訳です。

道後温泉に浸かったあと道後ビールを飲みながら食べた鯛めし

鯛めしというのを、そんなに期待していなかったのに、食べ始めたら止まらなくなって、お櫃(ひつ)を空けてしまった。鯛のだしは、コメを別次元の美味しさに進化させる、というのを思い知った。腐っても鯛、だなんて、昔の人はよく言ったもので、鯛って魚の中ではやっぱり別格なんだね。

温泉旅館の自動販売機で売っている焼おにぎり

温泉と言えば、旅館で湯に浸かっては出てビール飲んで、湯に浸かっては出てビール飲んでいるうちに、夜半、ちょっと小腹がすき始めると、ふらふらビールの自販機の隣の食べ物関係の自販機に行って、ついつい買ってしまうのがこの「焼おにぎり」だ。

中身はこんな感じ。自販機で温められてから出て来るので、開ければ芳ばしい香りがプンと飛び出して来る。ハイ、またビールが進みます。

ふと立ち寄った料理屋で出て来たブリかまの塩焼き

ブリかまの塩焼きなんて、近所のスーパーで買って来て家であら塩をまぶして焼いて作れるから、ちょっとこんなお金を出して食べるかな?と迷ったけど、注文して大正解だった。プロの手にかかると、塩の種類、焼き具合でこんな風味豊かな「料理」になるのかと、ひどく感嘆したのを覚えている。あれ以上美味しいブリかまの塩焼きを、僕は食べたことがない。

海老と甘露の東海寺焼

胡蝶蘭という出て来る料理全部が絶品の旅館で食べた焼物料理。「ワカメ、シメジ、玉ネギ、ベーコン、チーズ、パスタ、パセリ」が入っていて、要するに美味しいものをギュッと器に詰め込んだ美味しい一品だった。

「おふくろの味」の一つである桜餅

田舎育ちの人だから、母の料理はなんでも味が濃くて、餡子はめっぽう甘く、周りを包む桜の葉はめっぽう塩辛い。その田舎臭い味付けも含め、愛情のこもった「おふくろの味」。

あ、元気が出たかも。

ひどい一週間を終えて、あぁもうウンザリだよ、キツいよぉ、なんて落ち込んだ気分のまま、死んだように眠る週末だけど、これまで食べて来た美味しい食べ物の数々を思い出しているうちに、なんだか気分がすっかり良くなって来たぞ。

「イヤなことがあった時は、美味しい食べ物のことを考えればいいのよ」

僕はこの単純明快な魔法のコトバを思い出し、お風呂に浸かっている。今日は金曜日の夜だ。

さて週末。ゆっくり休もう。

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たねやの末廣饅頭を食べながら、秀次の人生と角川映画ばりのブルジョワ家庭のお坊ちゃんの事を思い出す

 「たねや」の末廣饅頭(すえひろまんじゅう)が食べたくなって、家人を連れて近江八幡を訪れた。残暑のまっすぐな青空が頭上いっぱいに広がる休日だ。

 近江八幡は八幡堀を挟んで古い町屋が建ち並ぶ美しい水郷の街である。豊臣秀次が築いた城下町を起源とし、一日のんびり歩いて過ごすにはちょうどいいくらいのサイズで、土産物屋も多い。

僕たちは八幡堀沿いをゆっくり歩き、時々立ち止まって手漕ぎ船が流れて行くのを眺め、たねやに向かった。本当に美しい街である。豊臣秀吉の甥である秀次は、18歳でこの地に入城し、街を築き、大人たちに補佐されて善政を敷いた。彼はこの地では名君として名を残すことが出来た。

で、末廣饅頭である。黒糖を使った茶色い素朴な饅頭を、僕たちはたねやに入って並んで買って、店の外のベンチに腰掛け早速食べた。ちゃんと甘いけど、全然クドくなく、サイコーに美味しい。小さな饅頭なのでついパクパク行ってしまう。やっぱり焼きたては絶品だ!

和菓子を味わって楽しむというのは、年をとってからの格別な楽しみだ。逆に、スイーツとか洋菓子の類が、最近ではぜんぜん目が向かなくなった。ホテルのバイキング料理でも、デザートはさらっと果物を数切れ皿に盛る程度である。

和菓子については、昔は「餡子(あんこ)とか入っていて全部一緒じゃん」なんて思っていて、ほとんど興味がなかった。それが今や「いやいや違うでしょ、餡子の世界は深いよぉ」てな具合に、材料や製法によって種類がたくさん分かれるという話を饅頭を食べながらペラペラ喋って、やはり家人に「黙って食え」と言われる始末だ。

 豊臣秀次という人は、たまたま秀吉という天下人の甥っ子として生まれ、あれよあれよと高い身分がお膳立てされ(最後は関白まで)、あれよあれよと追い詰められて自害した。自害については、秀吉が謀反を理由に命令したという説以外にも、自分で身の潔白を訴える為にやったという説もあり、或いは石田三成を始めとする官僚たちの暴走だったという説もあるが、一人のお坊ちゃんが、なんか物凄い勢いで伯父さんが出世して行くのに引きずられ、大きなプレッシャーとざらっとした不安感を持ちながら、必死で生き、一瞬で死んだ、そんなイメージだ。

生まれ持って身分が用意されるというのは、その立場にならないと分からない重圧や不安を、実は本人はずうっと抱えて生きているので、傍目(はため)から見えるほど幸せでもなさそう、と感じるのである。これは現代でも同じである。

 大学生の時に家庭教師をした相手が、まさにそんな「身分を用意された」大金持ちの息子だった。先祖が横浜で代々続く名家で江戸時代からの豪商だった。父方は地元の不動産会社を一族で経営し、父親自身は誰もが名前を知っている一部上場企業の副社長をしていた。母方の祖父も財閥会社の会長を務めていた。一族ごと、とんでもないセレブである。

初めてその家に行った時、僕が元町の駅で待っているとベンツが迎えに来て、そのまま山手の高級住宅街へ車は入って行った。そして一軒の大豪邸の前で車が止まると、自動シャッターがゆっくり開き、車は中へ入って行った。20歳の貧乏学生だった僕は、ベンツの後部座席の中で小さくなりながら「堅気だよな・・」なんてやはり小さく手を握り締め、周りをキョロキョロ見ながら、思わず口に出して呟きそうになったのを覚えている。

教え子となるそのお坊ちゃんは、痩せた長身の子供だった。高校3年生だったから、当時の僕と2歳しか違わなかったが、ずっと子供に見えた。実際、話をしてみると中身も子供であり、ミニカーが大好きで、普通の家のリビングくらいある大きさの自分の勉強部屋の棚に、世界中から集めた大量のミニカーが並べて置いてあった。

「六大学くらいは挑戦させてやりたいので」

ご挨拶に来られた父親は、大組織の中にあってトップを走っていただけに、眼光鋭く精悍な体つきで迫力があった。息子が色白だったのに対し、その父親は物凄く黒光りした肌の色をしていた。ギラギラした現役の経営陣の一人だったのだろう。

で、そのあと学力テストをしてみて、僕は口をあんぐりと開けていた。六大学なんてレベルではない。そもそも勉強をするという習慣がない子供だ。高校1年生からやり直しが必要な学力である。もう夏休みを過ぎていたから、少しでも名前のある大学に行きたいのなら、どう頑張ったって現役では合格出来そうにない。あの迫力のある父親はそれで納得してくれるだろうか?

テストの後、初日ということで勉強はそれまでとし、今後の学習計画は僕がそのテストの結果を踏まえて立てて、次回持って来ることにした。スケジュールに合わせ、出だしで必要な参考書も買って来てあげる必要があった。

「ありがとうございました。お食事を用意しましたのでどうぞ」

通された「食堂」は最上階にあった。個人の家なのに5階建てで、僕は階段を上りその食堂に入って行った。

そこはガラス張りの広い広いリビングで、大きなテーブルに中華街から持って来させた料理の数々が並べてあった。ガラス窓の向こうは広いデッキになっていて、その向こうには眼下に広がる横浜港の夜景があった。僕はもう一度、口をあんぐりと開けた。昔の角川映画に出てきそうなブルジョアの住まいだ。そんなことを考えていた。そういや近所には沢田研二も住んでいるんだっけ。

その息子はそんなお城の中に住んでいて、友人はほとんどおらず、おそらく思春期に味わうべき「一般的な」楽しさも苦しさも味わってこず、ずっと家にいる母親との閉鎖的な環境の中で静かに生活していた。きちんとこちらと目を合わせて話が出来ず、ちょっとオドオドしていて、そのくせ口は悪かった。そして攻撃的だった。

「ボクが現役で大学行けなかったら、先生も親父にぶっ飛ばされるよ」

うん、確かにぶっ飛ばされそうだが、そんな事はお前に心配される話ではない。僕は買ってきた参考書と問題集を開き、まず勉強のやり方から教え始めた。決して頭が悪いわけではないのはすぐ分かったので、あとは興味を持って自分で効率的に取り組む術(すべ)を身に着ければ、光明は見えて来るはずだった。

家庭教師と生徒の関係というのは、どのみち受験という戦争に対面した戦友のような関係になるもので、最初は心を開かず、目をそらしながら「許せねえ」「意味が分かんねえ」「死んだ方がいいんじゃないの」なんて悪態をついていたその息子は、雰囲気は体育会系だけど中身は文化系のちょっと年上のこの先生に対して、少しずつ心を開き始めた。何しろ外の世界を知らないのだ。外の世界への好奇心でいっぱいだった。

 大学生活ってどんな感じ?先生もコンパって行ったことあんの?やった事ってある?やるってどんな感じ?先生ってどんな友達がいるの?何をして遊んでいるの?自分の母親が自分に干渉して来るので嫌で仕方ないんだけど、どうすればいい?あの父親とは子供の頃から普通に会話した記憶がないし、どうせ上手く喋れなくて「何を言っているんだ?」ってすぐ怒られるから、いつもこっちは黙っているんだけど、先生の父親もそんな感じ?先生は将来どんな仕事をするつもり?

 大学生活はそれまでに逢った事がない類(たぐい)の人と出会って友達になれるから、すごく楽しいよ。うん、コンパは時々行く。やった事もあるよ。どんな感じかって言うと・・・お前も早く大学デビューしてやりゃいいじゃん。寄宿舎に住んでいるから、同じ寮生が友達の大半だね。そいつらと寝食を共にして毎日、家族みたいに暮らしている。一晩中、屋上で酒を飲んで喋り倒したり、そのまま一緒に大学へ午前の授業を受けに行ったり、電車に乗って渋谷へ服を買いに行ったり、それこそコンパに行ったり、害虫駆除の臨時バイトに一緒に行ったり、いろいろだよ。母親かぁ・・・母親なんてそんなもんだよ。でもその干渉っぷりが、離れて暮らすと思い出すだけで有り難みを身に染みて感じ始めるから、お前も大学に入ったら一人暮らしをした方がいいぞ。僕の父親?親父は仕立て屋の職人をしていたけど、失業して今はバイトしている。「何を言っているんだ?」ってお袋によく怒られているような父親だよ。僕の将来の仕事?う~ん、な~んにも考えてねぇ。

 そもそも大学なんてその息子は行かなくても、将来は一族が経営している不動産関係の会社の一つを任せてもらえるだろうし、要するにいずれはどっかの社長になれるはずだった。が、その道を担保する後ろ盾の父親はあくまで厳しく、期待に応える為には頑張らなければいけないと思う一方で、必ずしも結果が出るとは思えず、一般の人々が暮らすずっと上の世界に彼はいたけど、そこは一本の綱の上のような場所で、いつか真っ逆さまに落ちるのではないのかという漠然とした不安を感じながら、高級な生活をしていた。あぁ、これが上流階級のお坊ちゃんって奴だね。僕はそう思っていた。僕のような平凡な庶民の息子は、頑張って石段を積んで行けば少しずつは上に上がって行けるが、そもそも人の一生に積み上げられる石段なんて大して高くないし、落ちたってちょっと怪我する程度の高さでしかないし、そういう遥か高い場所から真っ逆さまに落ちて行く不安なんて微塵もない。その息子が感じていたであろう大きなプレッシャーとか、ざらっとした不安感とは無縁の生活をしていたから、ぶっ飛んだ金持ちの家に生まれるのも大変なんだなぁなんて、思っていた。

 結論を言うと、やはり現役合格は無理で、一年の浪人の後、彼は関東では名前のある大学に合格した。約一年と半年間の家庭教師生活の中で、僕は友達のいないその息子の話し相手になり、遊び相手になった。母親が僕になつく一人息子の様子を見て非常に喜んでいたのだ。僕は夏には招待されて葉山の別荘で数週間を過ごした。午前中は勉強を教え、昼は海へ泳ぎに行き、ボートに乗って遊び、一緒に昼寝し、夕方には豪華なご馳走を頂いた後、夜はまた勉強を教えた。その息子はいつの間にか僕の目を見てしっかり話せるようになり、失礼な態度は取らなくなり、一生懸命言う通りに勉強して、一生懸命合格しようとしていた。この素直さが脆(もろ)さの裏返しなんだよな、なんて感じながら、僕は僕で貰っているお金だけの成果が出せるよう、一生懸命に勉強を教え、悩みごとの相談に乗ってあげた。

 合格した時、彼の父親は「そうか」しか言わなかったらしい。

その息子はそう言っていた。「やっぱり不満なのかな?」と僕に聞くから「自分で聞いてみろよ。息子が必死で頑張った結果に対して不満なのか?ってさ」と答えた。

 息子は結局、父親に「不満なのか?」を聞けなかったみたいだけど、そしてその後も父親に対してちゃんと向き合って会話できなかったみたいだけど、大学に入学後、母親の反対を押し切り家を出て一人暮らしを始め、その後、大学を辞めて起業した。後は知らない。もううんざりして我慢出来ず、高い場所にある一本の綱の上から思い切って飛び降りて、そこから自分の足で歩き始めたのかもしれない。

 なんて、たねやの末廣饅頭から豊臣秀次に想像が巡り、家庭教師をやっていた頃に出逢ったあの長身で痩せぽっちのお坊ちゃんの事を思い出した。もう四半世紀前の話だ。元気にしているんだろうか?思い切って高い場所から飛び降りて良かった?でこぼこの地面の上を、自分の足で立って歩くって本当に面倒でしんどいけど、結構楽しかったでしょ?と、今なら聞くかも知れない。

 秀次は、小牧・長久手の戦いで大失敗した時、秀吉に「このままの体たらくだったらいずれ手討ちにする」と宣言され、その後、秀吉の甥という事で自動的に身分を上げて貰いながらも、必死で武功を挙げ、善政を敷き、その細い綱の上を生真面目に歩き続けた。が、最後に謀反の疑いを掛けられ、謁見も許されず、高野山へ行けと言われ、それさえ素直に従った上で、あっさり腹を切った。一本の綱の上を歩くのがもう嫌になったのかもしれない。大きなプレッシャーの中で、漠然と不安を抱き続けた生涯を、彼は高野山で閉じることに決めた。

 八幡堀の上に広がる青空は澄み渡っている。僕は何百年も街の上に重ねられた歴史に包まれ、橋の上を家人とのんびり歩いている。

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ゴールデンウィークの真夜中に高速を走り出し、恋する場所でこんにゃくを食しながら、若かりし頃にブラジル人の友人と遊んだ日々を思い出す

 ゴールデンウィークなんてどこに行っても渋滞で、人だらけで、宿もゴールデンウィーク価格とかで普段よりずっと高いし、寝て過ごそうと思っていた。

金曜日に緊急対応の続きを終え、連休に入る前日の一番幸せな夕方だったはずが、気付けば20時だ。みんな若手は嬉しそうに帰って行ったが、問題は全然解決せず、あぁまだ上海は動かないや、ゴールデンウィークまでは何とか乗り切ったけど、こりゃ明けたらいよいよ部品が入って来ないぞ、生産はストップするぞ、オワったかもしれん、「仕方がないのは分かっている。が、それでも打つ手はないのか?」という、仕方ないからと言って結局は誰も許してはくれないヒリヒリした地獄を、ゴールデンウィークが明けたらやんなきゃ、とため息をつきながら、オフィスの座席で深々と腰掛ける。もう誰も残っていないや、あ、向こうの方に設計部隊がまだ残っていて、何か顔を引きつらせて対応しているぞ、何かあったのかな?

いずれにせよ、昭和のプロジェクトXは、40歳以上に限定して参加となっており、若手はそういうのには参加させてはいけない事になっている。離職防止の為の暗黙の了解だ。君たちは21世紀の金の卵だから、何もかも忘れてリフレッシュして来なさい。このパンデミックの地獄は、オジサンたち使い捨て世代が屍(しかばね)となって乗り切り、乗り切った後はいよいよマジで使い捨てされて屍となる予定だけど、もはや年齢的に何ともならんので、頑張ります、ハイ。という感じだ。休みの間にもガンガン電話かかって来るのかな?なんてもう一度ため息をついてから立ち上がり、家路についた。

金曜日の夜はだいたい疲れがピークに達していて、ご飯を食べてお風呂に入ったらそのまま気絶するのだけど、いちおう何とかゴールデンウィークまで乗り切ったという安堵感もあって、僕は家に帰って手洗いうがいし、リビングでちょっと横になった瞬間、気を失っていた。ご飯も食べる気力なし。もうヘトヘトなのです。

で、目が覚めたら夜中の12時だった。あれ?今日からゴールデンウィークか。0時ってことは今始まったとこだね。家人にせかされ、お風呂に入っているうち、なんだか元気が出てきた。変な時間に寝たけど、ちょっと寝たらすっかり元気だ。

なんだかワクワクして来て、風呂を出るころにはすっかりテンションが上がっていた。今日からゴールデンウィークじゃん、若いころは長期連休の前日の夜なんてあんなに楽しかったじゃん、なに疲れ切ってるんだよ、寝て過ごそうなんて何だよ、ちょっと寝たらほら、復活したじゃん。

風呂を飛び出すやいなや素っ裸で、

「今から旅行へ行く」

なんて年甲斐もない宣言をしてみたら、さっきから鼻歌を歌って風呂に浸かっている僕の様子を察し、家人は既に半分準備していた。さすがだね。僕もいつものお泊りセット(パジャマ・着替え・歯ブラシ・旅行用のコンタクト携帯パック・ひげそり・胃薬・バファリン・携帯の充電器・携帯加湿器)を車に積み込み、きっと寒いところに行くのでダウンジャケットも後部座席に突っ込んで、いざ出発だ!

夜の高速はスイスイ走れた。でも安全第一だ。事故ったら台無しだからね。途中で立ち寄るサービスエリアの夜食とか、コーヒーとか、全部が旅行気分を盛り上げてくれる。そうそう、せっかくのゴールデンウィークだ。楽しまなきゃね。

明け方まで走り続けて、明け方に諏訪湖のほとりに到着した。さすがに昨夜は数時間寝ただけなので、眠くなって来た。湖面が朝日に照らされキラキラ輝いているそのすぐそばの駐車場で、僕は座席のシートを倒して仮眠をとることにした。窓を開けると空気が美味しい。生き返る気持ちだ。

来る途中の助手席で爆睡していた家人は、隣で、さっきコンビニで買ったお菓子を食べながら、漫画をニコニコ読んでいる。僕は数時間、湖畔でぐっすり眠った。

9時ごろに目が覚めて、外に出ると青空が広がっていた。やっぱり諏訪湖のほとりは気持ちよかった。しばらく眺め、もう一度車に乗って、白馬に向けて走り出す。安曇野までは何度かウロウロ観光したことはあったが、白馬までは行ったことがなかったので、今日はそこまで走ろうと思ったのだ。

美しい長野の風景の中を走り続け、昼前にはまだ雪の残る白馬に到着した。ゴンドラに乗って山の上まで登って行く。凄いな。スキー客がそこにまだいた。山の上に最後に残っているこの固い雪で、最後まで楽しみたいんだな、とその熱心さに驚く。

そのスキー客のすぐ横で、パラグライダーに乗って遊覧飛行を楽しんでいる人たちを見ていた。これが見たかったのだ。フライトを楽しむ人々が、順番に走り出し、大空へ飛び出し、白馬の美しい田園風景の上をゆっくり漂い始める。空は青く、どこまでも突き抜けていて、見ていて本当に気持ちの晴れる風景だった。きっと気持ちいいんだろうな。

昼ご飯は白馬で食べた。農場がやっているレストランで、おにぎり定食だ。美味しくない訳がない。コメを味わう、という意味で、おにぎりを超える料理はない。

お腹がいっぱいになったところで、僕たちは嬬恋村へ向かった。こんな直前でどっこも宿は空いていないだろな、とあきらめながら探したら、嬬恋村に一件、良心的で手ごろな宿を見つけたのだ。その夜はそこに宿泊するつもりだった。僕は長野の美しい風景をまた走り出した。

嬬恋村は初めて行ったけど、しかも到着したのが夕方だったので観光する時間がなかったけど、宿に入ってチェックインして、フロントの横のパンフレット(周辺観光の案内)を見ていたら、ありゃすんごく魅力的な場所なんだなと思った。もう日が暮れて来たし、明日は雨だから、今度、夏休みにでももう一度来ようと思った。牧場も近くにあって、動物好きの家人も喜びそうだ。

そして、お楽しみの夕ご飯は、群馬の特産品をふんだんに使ったバイキング料理だった。やっぱり、こんにゃくが本気で美味しい!群馬のこんにゃくは、というより群馬で食べるこんにゃくは、さすが有名なだけに作り方に色んな知恵が込められているのか、臭みが全くなく、本当に、こんにゃくの美味しさだけを凝縮したようなそんなこんにゃくなのである。

20代のころ、群馬の工場に飛ばされて、群馬と言ってもずっと埼玉寄りだったけどしばらくそこに住んでいた。そして、実はこんにゃくは美味しいと思ったのを覚えている。というか、それまでこんにゃくなんて、別に味のしない、もしするとすればあの土みたいな臭みのある風味と味の食べ物で、酢味噌でごまかして歯ごたえを楽しむだけのものだと思っていた。こんにゃくを作っている人たちにはひどく失礼な話だ。でも、群馬で「本物の」こんにゃくを食べてみて、その常識が変わったのだ。こんにゃくには味があり、しかも非常に美味(びみ)なもので、酢味噌はその味を引き立たせるためにあるのである。それは20代にして衝撃的な発見だった。

 バイキング形式だったので、僕は色々なこんにゃくを次々と皿に盛って、パクパク食べていた。田楽もある。やっぱり美味しい。

 群馬に住んでいたころは、その他にも食べてみて初めて美味しいと思ったものがもう一つある。ブラジル料理のシュラスコだ。

当時勤めていた会社の工場の作業者にはたくさんのブラジル人がいて、大半が日系3世だった。70年くらい前にお爺ちゃんやお婆ちゃんがブラジルに渡り、ジャングルで死ぬほど苦労して生活を切り開き、その後、子供が生まれ、孫が生まれ、その孫たちが生まれ故郷の日本へ出稼ぎにやって来たのだ。

20代の僕は慣れない地方都市で、気質も違うし、あんまり地元の日本人とつるむことはなく、週末には東京に戻って友だちと騒ぐことが多かったが、それでも毎週という訳には行かないので、結局、金曜日の夜を静かに一人で過ごすことが多かった。そんな僕を見て声をかけて来たのが、工場に作業者として出稼ぎにやって来た同い年の日系ブラジル人だった。3世だから色々な血も混じっていて、目が茶色だった。いつも笑顔で、日本でお金を貯めて、ブラジルで店を開くのが夢だと言っていた。週末は彼の車に乗ってブラジル人の集まるディスコ(閉鎖された工場を改造した、薄暗いけど無茶苦茶かっこいい酒場だった)に行き、そのあとレストランでシュラスコを食べて、そのあと夜を通してビリヤードをやっていた。

初めてシュラスコを食べたとき、ウェイターに金串に刺された大きな肉の塊を差し出され、「どの部分を食べたいか?」聞かれた時は、さすがにとまどったのを覚えている。ブラジル人のその友人の方を見ると、おススメの焼き色をした部分を教えてくれたので、僕はウェイターにそこを指さし、ナイフでその場で切ってもらって、皿に盛ってもらった。ふだんブラジル料理店の看板の写真を表から見る分には、あんまり美味しそうに見えなかったそのシュラスコだが、実際に食べてみると、炭火の芳ばしい香りが肉に程よく纏わりつき、柔らかく、本当に美味しかった。あんまり美味しいので、しばらくは毎週一人で通った。

そんな群馬時代の記憶を思い出しながら、こんにゃくを頬張る。上州牛のローストビーフもタラの芽の天ぷらも、やはりこれも地元特産のキャベツのスープも、最高に美味しかった。急に予約した宿だったけど、大当たりだった。僕はお腹いっぱい、群馬の特産料理を食べ、ビールで流し込んだ。

そういやあの頃は徹夜でも一晩中、遊べたなぁ、なんて思い出す。もう明け方になると、さすがに眠気も襲って、ブラジル人のその友人も僕も、黙々とビリヤードの球を打っていたのを覚えている。あいつは元気にしているんだろうか?夢がかなって今頃、故郷でレストランをやっているのかな?自分の人生を通り過ぎたたくさんの人々の一人の顔を、そうやって思い出し、そう、あの茶色の瞳を思い出す。

先が何にも見えない時代の日本の若者の一人として、出稼ぎで貯めたお金を使って将来、故郷で夢を叶えようとしていたそのブラジル人の若者が、ものすごく眩(まぶ)しく見えていたのは確かだ。彼らには夢があり、将来があった。一方、日本人の若者である僕たちはただただ、働けるだけマシだと思い、縮こまって行く暗い時代を、その場で必死で生きていた。

あれから20年以上がたっている。

 翌日はすごい霧が出ていた。僕たちは霧の浅間山麓をゆっくり車で走り下り、そのまま高速に乗って帰宅の途についた。

金曜日の夜中の高速道路のオレンジ色、サービスエリアの夜食の匂い、助手席の幸せそうな寝顔、朝日の光にキラキラ輝く美しい湖面、雪の残る田園風景の上を滑走する赤色のグライダー、そして美味しい地元の料理と、ブラジル人の友人と過ごした若い日々の思い出。そんな旅だった。いい旅だったね。

日本はあまりに狭いけど、そして時々、こんな同調圧力だらけの年を取った国なんて飛び出して、果てしなく遠くへまで行ってしまいたいと思うけど、まだまだ捨てたもんじゃないんだね、ニッポン!美しい長野の風景と、群馬の新鮮で美味しい野菜料理を思い返している。

なにしろ嬬恋なんて素敵な名前だ。いつか晴れた日に、パンフレットの写真で見た、延々と広がる広大なキャベツ畑を、家人と見に行こう。

平凡なサラリーマンの平凡な人生を、じっくり味わって生きて行く。楽しみが一つ増えたね。そして美しい風景だった。それで僕は十分だ。

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平凡な勤め人が時々ちょっと贅沢して普通に幸せを味わい尽くした

 平凡だけど幸せな休日を、お腹いっぱい味わいたいなと思い、実行してみる。そんなフツーの勤め人のフツーの休みの日の話である。

 朝、目が覚め、まだシゴトの数字がぐるぐる回っている。あ、そうだ。あの国はまだロックダウンしているんだった。エアー便も空港でストップしていて、緊急対応ったって手の打ちようがない。海外工場の生産がストップしているから、週明けにはまた大騒動だな。ヒステリックな檄が飛ぶだろう。いつまで続くのかこの世界的大混乱。が、続けていかないと。

全部が終わる2年くらい先には、史上まれにみる大恐慌とか来ていて、大混乱の死地を乗り切った地上の星たちは、ハイご苦労さんってな具合に次々リストラされるのかな?なんて暗い想像をしながら、さて、ともかく土日は全部忘れて、幸せな休日をお腹いっぱい味わうぞって、外へ飛び出して行く。

「久しぶりに海鮮が食べたいのです」

という僕の願いは無事承認され、車に乗って走り出す。って早速お腹がすいたぞ。途中で腹ごしらえだ。サービスエリアによれよれと入って行って、料理の匂いにつられよれよれってラーメン屋に入って行く。

大阪の有名店が監修したらしい。シンプルな鶏がら塩味のスープにオリーブオイルがふんわり乗せられ、細麺に絡む。美味しい!

味玉の中身のトローリ黄身がスープに溶け出すと、これまたサイコー!

さて、早々と目的地に到着したので、チェックイン前に動物園だ。今日はな~んにも考えないぞ。動物だ、動物だ。檻に捕らわれた悲しい獣(けもの)たちを、いっぱい見るぞ。そしてたくさん歩いてお腹をすかせて、夜は宿でバイキングだ。

いや、悲しい獣とかじゃなくて、結構、のほほんと楽しんで暮らしんでいるみたいなんですけど・・・

バリバリ音を立てて、激しく笹を貪る様は迫力満点。中国語で大熊猫さん。はぁ?何か文句あるんか?と言わんばかりのふてぶてしさが魅力。

フラミンゴは幸運と愛の鳥です。なぜ愛の鳥かというと、2匹が向かい合って並ぶとハート型になるから、ってそんなシャッターチャンスはなかったけど、やっぱり縁起がよさそうな鳥だね。僕のセルマー(サックス)には、このフラミンゴたちが刻印されていて、アフリカの大地のどこかで、いつか思い切り吹いてみたい。

バッファローたち。一番見たかった動物。高校生の頃、よく学校をサボって映画館に閉じこもっていたけど、そのときダンス・ウィズ・ウルブズという映画を見て、いっぺんに好きになった動物。この背中の曲線が堂々としていて美しい。映画はフロンティアがまだ残っていた古い時代のアメリカの話だった。

バスのすぐ横をのそっと出てきたトラさん。毛並みが本当にきれいだ。こういうのを実際にアジアの野生の森で見たら、まぁすぐに命を失くすのかもしれないけど、そのフォルムの凛々しさに、一瞬目を奪われるかもしれない。

 さて、動物園をウロウロしているうちに、だいぶお腹がすいてきた。宿へチェックインだ。お風呂だ。な~んにも考えないぞ、仕事も数字もおさらばだ。

部屋にお風呂がついているので、本日はこちらと冷蔵庫を行ったり来たりする予定。途中のコンビニで買ったたくさんのビール缶を、せっせと冷蔵庫に詰め込む。

ハイ、これからが本番です。

お湯は本当に気持ちよかった。温泉の香りと磯の香りと土の匂いが、大きく深呼吸した胸いっぱいに広がり、湯船の中でふうって息をつく。疲れがどんどん溶けて流れ落ちて行く。

ありがとうございます。

本当にありがとうございます。

さんざん食べて、もうお腹いっぱいだったけど、やっぱりもう一回食べて、もうエビは十分です、刺身も十分ですってなったので、部屋に戻ってもう一度お風呂にザブンッ!

あとはお湯につかり、冷たいビールを飲んで、またお湯につかり、幸せな時間を過ごす。な~んにも考えません。仕事なんて知りません。ただただ、温泉の香りとビールの味を楽しみ、夜をたらたらと過ごして行く。

平凡だけど幸せな休日。ほんの時々、こんな贅沢をしつつ、あとは地味にコツコツと、静かに静かに、ウィークデーは忍耐強く生きて行く。

平凡で一般的な、もうすっかり年を取ってしまった国の、すっかり年を取ってしまった勤め人の、フツーの休日だ。家人は隣でニコニコしている。だから僕は、十二分に幸せな人生だ。

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ロスジェネ美食論(仕事探しの活力の為に)

鰻を頬張りながら、昭和世代の若者がどのように怒涛の時代の変遷に巻き込まれて行ったかを、しみじみ思い返した

 パンデミックのもと朝の7時半から夜の10時まで、毎日毎日、緊急対応や部下のフォローをやっているが、ちっとも光明は見えない。なんて月曜日から金曜日までやって、土日は死んだように眠るが、やっぱ寝るだけじゃ駄目だ、美味しく精(せい)の付く食べ物を食べるべし!、ということで鰻を食べに行った。

 地元はみんなが鰻大好きで、鰻をたくさん食べるので有名な場所で、街には鰻屋が乱立している。車で国道を走ると、数分おきに鰻屋が登場する。しかも全部が老舗なので、昔から乱立し、ことごとくそれらの店が生き残っているという事であり、それだけみんなは鰻をたくさん食べるという事である。

実際、子供のころを思い出してみると、何かと言えば鰻をみんなで食べた。法事とかあったら寿司ではなく鰻だ。お祝い事も鰻。誰かが退院したら鰻。合格祝いで鰻を食べ、遠方から久しぶりにやってきた親戚をもてなすのも鰻だった。

なので、自然と鰻の味にはうるさい。

僕はいつも、街で一番美味しいと思う鰻屋でしか食べないし、今日もそれを頬張った。

鰻丼の上(じょう)である。なんて幸せ!

炭焼きの芳(こう)ばしさや肉のホロッとした食感は当たり前で、やっぱり差がつくのはタレだ。無駄に濃く、無駄に砂糖を使うと、上からかけたタレはご飯の底までたどり着かないが、上品なバランスで作られたタレはサラサラっと自然にご飯の底までちゃんとたどり着く。時々、旅行先の観光地で鰻丼を食べると、ドロッとした下品なタレをあえてご飯に直接かけて、その上に鰻を乗せてまたタレをかけて、なんてのが出て来るが、そういう外道(げどう)とは正反対の、まさにキングオブ鰻丼が、子供のころから食べているその店の鰻丼だ。

僕はあっという間にたいらげ、なんだか平日の疲れがぶっ飛ぶような気持になった。ウン、たくさん寝たし、これで大丈夫。また頑張ろう。

 ところで、有名な話だが、鰻は川で育って、海へ卵を産みに行き、卵から孵化した鰻はまた川を上ってくる。

その産卵場所が日本鰻の場合は、はるか2,000数百キロも離れたマリアナ諸島近海というとんでもない場所で、そこで生まれた鰻は黒潮に乗って戻って来る。

戻って来るのは黒潮に乗ってくればいいだろう。そうやって遥か昔、南方系の人々は日本にやって来て、この日本で北方系とか大陸系の人々とシャッフルし、今の日本人が出来上がった。

が、問題は成魚になった鰻が、卵を産む為に、どうやってあのサイパンあたりまで泳いで行くのかという話である。とんでもない距離である。このあたりはまだ謎が解明されていない。なにか、黒潮の逆のような未知の海流がどこかの層にあるのか、或いは鰻自身にそんな長距離を移動する裏技や特殊能力があるのか、よく分かっていないのだ。

なんて話をしながら食べていたら、黙って食えと家人に言われて、また黙々と食べ始め、心の底から「美味しいや」と感動し感謝する。

 20代が終わるころ、会社を辞めて地元に帰ることにした。当時はいわゆる中小企業と呼ばれる機械部品を作っている会社で働き、規模が規模だけに、若手の僕は何でもやらされた。

残業時間?そりゃ普通に100時間超えるでしょ。

現場の人員が足りないとなれば工場に駆り出され、プレス機相手に鉄板の持ち上げ、ガンガン作業し、トリクロロエチレンとかいう発がん性物質で吐き気をもよおしながら脱脂作業して、重い部品がたくさん入ったプラスチックのカゴを担ぎ出荷場へ持って行った。それが20時に終わったら、そこからデスクに戻ってPCに向かい、発注や、クレーム対応だ、なんてやっているうちに日にちが変わっている。

長い不況で、この国のモノづくりが選択した道は、未来への技術革新や若手の教育ではなく、人件費の安いアジアに生産場所を移すか、生産場所を移す体力がなければ、若者を非正規で雇って安い労働力として使い、人件費を抑えることで、生き延びる道だった。

要するに、未来や未来の世代につなげる形で生き残るのではなく、自分たちが定年を迎える10年20年を生き延びればそれでいい、という当時の40代半ば~50代半ば、要するに今の60代半ば~70代半ばの世代が選択した道の結果は、今のこの国のモノづくりにそのまんま結果として跳ね返っている。

で、その会社もご多分に漏れず、海外へ出て行くだけの力がなかったから、工場員の大半は正社員ではなく、大卒や高卒でちゃんと就職できなかった派遣社員を安価で雇っていた。が不況が長引き、都内にある工場は縮小し、まっさきにその派遣社員を切った。それでもいよいよ駄目になったので、工場ごと閉鎖して、北関東にある別の工場に生産を集約することにした。都内の工場は高度成長期に作られた、要するに金の卵たちが工場長や何とか部長をやっているようなところで、当然、2代目である社長が「閉鎖する」と宣言した時はだいぶモメた。「あの2代目のバカ息子!やっぱり俺たちを切り捨てやがった!」と二日酔いどころか、まだ酔っ払っているとしか思えない感じの工場長が、早朝の工場に現れたのを覚えている。

とにかく、都内の工場が閉鎖されたことで、何十人もの人生はそこで狂い、みんな放り出され、ある人はその後、家庭も崩壊し、あぁ、働くところが無くなるってこういう事か、と若者の僕は不思議なものを見るように見ていた。

僕はと言えば、当時は別に家族もいなかったし、北関東で働くのもいいか、なんて都内の工場の閉鎖と同時に異動をそのまま受け入れ、そこからその北関東の工場で数年働いて、その後、父が亡くなり、思うこともあり、故郷に帰ることにした。

辞表を提出すると、すぐにその2代目の社長に呼び出され、週末にご飯を食べに行かないか?と料理店に誘われた。

もちろんそれまでも接する機会はあったが、社長と2人きりでご飯を食べるのは初めてだった。「あの2代目のバカ息子」とである。

で、その店が鰻屋だった。社長は白焼きを頼み、僕には鰻御膳を頼んでくれた。社長はずっと雑談し、これまで僕がクルクルと文句も言わずオールラウンダーとして働いてくれたこと、顧客の中で難しい相手(病的にクレームを入れる担当者)が、もの凄く僕のことを評価してくれていて、今回の退職を残念に思っていると社長に言っていたこと、僕の父の話、自分の病気の話、自分の子供の話などなど、とりとめのない話をしていた。

そのうち、一代で会社を築いた社長の父親(当時は会長として隠居していた先代)の話になった。戦後の東京の焼け野原から、裸一貫で工場を立ち上げ、夢を持って集団就職してきた若者たちを受け入れて育て上げ、高度経済成長の波に乗って事業を拡大し、育てた若者たちは家庭や家族を築きながら、やがてベテランに、中核に、幹部になって一緒に会社を盛り立てて来たこと。そんな人たちは父親のことを「オヤジ」と親しみを込めて呼んでいたこと。子供の時分にはそんな父親が尊敬の的であり、あこがれであったこと。そしてそんな人たちを自分が社長になってから、片っ端からリストラせざるを得なかったこと。会社は常に危機にあり、人を育てる余力もなく、これからもそれが続いて行くこと。

そして最後に僕の目をまっすぐ見据え、こう聞いた。

「やっぱり辞めてしまうのかい?」

「はい」

ものすごく寂しそうな感じだった。僕はそんなに頼りにされていたとは思っていないし、要するに生き残っている費用対効果の高い若手の一人を少しでも会社に残しておきたかっただけだと思うけど、なんだか社長のあの寂しそうな表情は忘れることがない。誰かが誰かを責めるのは簡単だが、一方、誰もが何かの事情や苦しみを背負って、誰かに責められるような決断をせざるを得ないこともあるんだな、なんて考えていた。高級店だったからきっと美味しいはずなのだが、鰻の味が全く体に入ってこない。そんな感じだった。やっぱ、美味しい料理はリラックスして食べないとね。

 管理職の一人として、別の会社からも引く手あまたの若者たちが、さっさと辞めて行くのを僕は時々対応している。が、かつて社長が20代の僕に見せたような寂しい表情はしない。「一人ひとりの若者を大切に、未来の世代の為に」なんて価値観は、僕たちが若者時代にこの国はゴミ箱に捨てたし、その延長線上にある今の世の中にあって、若者が辞めて行ってもいいように、別に日本人にやらせなくてもいいように、業務を標準化し、流動的なマンパワーが組織として低下しないよう、運用で対応するのが主流となっている。要するに「未来の」とか「日本の」とか「若い世代の」とか関係なく、決められたレベルの決められた業務を、その資格として採用された人員が効率的に習得し、戦力になればそれでいいのである。非常にビジネスライクであり、現在の管理職の半分以上が転職組でもある所以(ゆえん)だ。昭和の「オヤジ」も「金の卵としての若者たち」も、もはや存在しない。未来に向けて誰かを育てるのではなく、目の前で生き延びるためにお金を稼ぐ、結果を出す、海外と生き馬の目を抜きながら戦う、それを積み重ねて行くのみである。

なんて、ちょっと一人の人間のサラリーマン人生では動きが速すぎる、時代の価値観の変遷が速すぎるんだよな、なんて思いながら、うん、やっぱりこの店の鰻は最高峰だ、なんて頬張っていた。

あすから平日がまた始まる。ハイ、頑張りましょう。

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ロスジェネ美食論(仕事探しの活力の為に)

ダイバーシティって言葉を聞いてアジアの山奥でいろんな料理を食べた経験を思い出した

 ダイバーシティという言葉が会社の研修などで頻繁に出てくるようになってだいぶたつけど、多様性の受容というのは口で言うほど簡単ではない。だって自分が生きて来て自分という人生を必死で乗り切ってきた過程では、「世界中の誰がなんと言おうと自分が好きなのはこれだ。正しいと思うのはこれだ。」という一つ一つの信念とか情熱を積み上げてきた歴史があり、それは裏返せば「でもいろんな価値観もあっていいよねぇ、なんてあっさり言えね~や」という本音があるからだ。価値に付随する信念というものはそういうものだ。

一方、恵まれた環境でのほほんと生きて来れた人々は、「自分はこれがいいと思うけど、押し付けないよ。あなたはそれがいいと思うなら尊重します」と言えるかもしれない。だって、別に死に物狂いで「自分はこれがいいんだ」なんて構えなくても、人生を豊かにのんびり生きて来れたし、これからも生きて行けるからだ。価値の構築に情熱や信念なんて暑苦しいものは不要で、クールにいいものをいいと言い、クールに軽く軽く生きて行けるのだから。そんなクールなお坊ちゃんお嬢ちゃんを、僕は大学時代にたくさん見て来た。そのままアメリカへ留学して、国連職員になり、そんな人々の口からダイバーシティと言う言葉が出てきたなら、なるほどね、という話になる。1+1が2になったに過ぎない。

 が、大半の人々は、決して豊かではなく、安定してのほほんと生きていけないし、常に必死に、死に物狂いで大人になり、生活をしている。だから生きて来た過程で価値の構築にはその人なりの信念があり、それとは違う価値を受け入れざるを得なくなった時、体も心も抵抗を始める。ある人は露骨に怒りを発して相手を攻撃し始めるだろう。無視して排除しようとするかもしれない。表面上は受け入れて、裏で悪口を言う小心者もいる。

だから多様性の受容というのは、真剣に生きて来た人が、溢れんばかりの葛藤の中でそれをズシリと受け止めたとき、初めて本当に価値のある行為になる。それは複雑な計算式を経てようやく導き出された迫力のある人生の解(かい)だ。

 アジアの山奥に飛ばされた時、現地スタッフの心を一刻も早くつかみ、彼らの協力を得て、何度もコケそうになるプロジェクトを必死でやり遂げようとしていた。僕は死に物狂いだった。現地スタッフの大半は日本人に慣れておらず、大昔に軍服を着てやって来て、さんざん自分たちの上の世代にひどいことした人たち、という歴史ドラマのイメージしか持っていなかった。どうやら、このクリクリした目をしていつも元気な大声で喋る日本人は、歴史ドラマでよく見るちょび髭で丸眼鏡の冷たい目をした日本人とは様子が違うようだけど、どこまで信用していいものか、なんて期待と猜疑心の混ざった顔で僕を見ていた。

逆に僕は、初めて日本を出て、いかに自分が日本人だったかを思い知らされた。なんでこの人たちはこんな不潔なんだろう。どうしてそんな食べ方をするの?部屋や道路にどうして平気でゴミをまき散らすの?どうしてそんな汚いトイレの使い方をするの?朝に吐く息があんまりにもニンニク臭くて、どうして一緒に働く他人への気遣いとかがないの?どうして・・・どうして?・・という具合に、価値観の違いに基づく生活様式の違いがそのまま自分の不快感と結びつき、心の底ではイライラを募らせていた。が、自分に課せられたミッションは意地でもクリアしたい。そのために彼らの協力がどうしても必要だ。

僕は意識して大笑いし、上機嫌にふるまい、協力を得て、山積する問題をクリアして行った。本当に意地になっていた。

ある日、普段自分たちのために毎日奮闘している僕への感謝の意を示す、ということで、現地スタッフたちが懇親会を開催してくれた。まだ駐在経験が浅い僕は、何の疑いもなく素直に喜び、迎えに来た車に乗った。

果たして車が到着した店は、現地の人々がお祝いなどで使う地元の名物料理を出す店だった。当時住んでいたホテルのご飯とは全然違う、まさにローカル料理だ。

ヘビが出て、カエルが出て、鶏の足を蒸したものが豪華な模様の皿に盛り付けられ運ばれて来た。数年後に駐在が終わって日本に帰るころにはフツーにパクパク食べていたこれらの料理も、まだ慣れていない当時の僕には衝撃的で、しかも赤唐辛子にまみれたそれらを口にできるかなとちょっと迷っていた。が、皆から見られている。ふだん上機嫌で「ここは田舎だけど空気が美味しく青空が本当にきれいだ」とか「みんな真面目な人たちばかりで僕は大好きだ」とか「野菜が新鮮でどれも美味しい」なんて口では褒めているこの日本人が、目の前の料理をどんな顔して食べるのか、見てやろう、という感じだった。

乾杯のあと、いよいよ食事が始まる。現地スタッフの通訳が料理の一つ一つを説明し、地元の新鮮な食材を使った美味しい料理だと説明してくれた。

僕は乾杯でビールを胃に流し込んだ瞬間、彼らの思いや意図を把握して腹を括っていたから、次々と料理に手をつけてパクパク食べ始めた。もともと辛いのは得意だ。なんということはない。で、実際食べてみたら、ヘビもカエルも鶏肉みたいに淡泊で美味しかった。鶏の足も食べにくい形状だけど、味は悪くない。そのあとも、みんなで談笑しながら和気あいあいと食事は進んで行った。やっぱり僕は上機嫌な顔をしていた。

 食事の最期のシメで火鍋スープが出て来た。スタッフが僕の皿によそってくれた。ゴロゴロした野菜とともに肉の塊も入っていた。なんの肉か聞いたら「犬」だと言う。

さっきまでそれぞれが談笑して好き勝手に食べていた現地の人々の視線が、いつの間にか僕の方を一斉に見ているのに気付いた。

僕は現地に入ってからそれまで感じていた葛藤、怒り、なぜ?というあの感覚や価値観の違いから来る苛立ちが、一気に頭をよぎって、頭に上って、酔いも回って、これを食べるのか、ブチ切れて皿ごと床に叩きつけるのか、なんて考えていた。ブチ切れたらきっと、その食事会の雰囲気は瞬時で凍りつき、歴史ドラマのちょび髭を生やした軍服姿の日本人にダブって僕は見られるだろう。

真っ赤な血のようなスープを飲み、その肉塊を口にした。マトンをさらに生臭くした肉だった。あぶって焼き落とした犬の毛の一部がまだ表面に残っていて、味も決して美味しくなかった。みんな僕を見ている。

「これは臭くて美味しくない。でもスープは美味しいし体が温まるね。もっとちょうだい」

場の雰囲気がふわっと緩和し、皆がゲラゲラ笑い出した。さすがにこの日本人もこれは好きじゃないんだ、という単純な笑いだった。決して意地悪な笑いではなく、死に物狂いの外国人を温かく迎え入れる、優しい笑いだった。僕はありがとう、と言って、お代わりのスープを飲み干した。

 一生懸命に生きてこそ、価値は深いところで時に暴力的にぶつかり、時に痛みや苦しみや葛藤も伴い、それを乗り越えて初めて、僕たちはお互いに相手を受け入れることが出来る。お互いに別の場所で死に物狂いで真剣に生きて来たからこそ、相手の価値を受け入れるのは簡単でなく、受け入れることに価値があるのだ。

 なんて、今日も会社の研修で講師がしたり顔で「ダイバーシティ」を連呼しているのを、僕は聞いている。ここはキレイで衛生的な日本のビルの中だ。窓の外を見て、午後の眠気に襲われながら、あの真っ赤なスープと、一斉にこちらを見ている人々の眼差しを思い出している。

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ロスジェネ美食論(仕事探しの活力の為に)

人生に特に意味や目的はないが食べる料理が美味しいと感じられるので人生は生きるに値すると確信をもって言える

 人間は37兆個の細胞で出来ていて、脳とか心臓は別だけど、大半が数年で入れ替わるらしいが、入れ替わるべき新しいものはどこからやって来るかというと、口から入って来る食べ物だ。だから生きるということは食べ物を食べるということだと言われる。でも、どうせなら美味しい食べ物(料理)が食べたい。美味しい料理が食べたいというのは、なんだかちょっと卑しいイメージがあって、昭和のステレオタイプだと、美食家としてちょび髭を生やした太った男の映像が思い浮かぶくらいだ。食いしん坊というコトバにもあんまり崇高なイメージはない。でも人は生きていく中で、生きがいとか自己実現とかいろいろ悩んだ挙句、最終的には「おいしいものが食べたいよね」に落ち着いて行く。なぜなら人間の人生に特に意味はなく、目的はないからである。

 マズローの5段階欲求説では、生理的欲求→安全欲求→社会的欲求→承認欲求→自己実現欲求、の5段階で人間の欲求の次元は上がって行くことになっている。

1.食べたいよぉ~(生理的欲求)

2.痛いのは嫌だよぉ~(安全欲求)

3.仲間に入れてくれよぉ~(社会的欲求)

4.もっと褒めてくれよぉ~(承認欲求)

5.生きる意味を教えてくれよぉ~(自己実現欲求)

まぁだいたいこんな感じだ。高校生の頃に岩波新書の何かの本でこのマズローの5段階欲求説を知って、なるほどそうかぁ、なんてひどく感心したけど、そのあと長々と生きて、平均寿命の半分を越えた瞬間、うーん、違うな、こりゃ続きがあるぞ、なんて思った。5段階目以降というのはこうだ。

6.あれれ、生きる意味なんてないじゃん(自己実現欲求くそくらえ)

7.それってどうせ社交辞令だよね(承認欲求くそくらえ)

8.なんか・・会社やめて一人で農業したいなぁ(社会的欲求くそくらえ)

ということで、5段階まで上がって行った欲求は、年齢と経験を重ね、人間の人生に特に意味はなく目的がないことを腹落ちして以降、順番に元に戻って行く(下へ降りて行く)のである。そして残りの安全欲求(痛いのは嫌だよぉ)と生理的欲求(食べたいよぉ)だけが残る。これが中年ってやつだ。

まだ老人ホームでチューブに繋がれて生きている訳ではないので、安全第一である。痛いのは絶対に嫌だ。事故に遭ったり病気にならないことを日々祈っている。だって、痛いのは本人にしか分からないし、本人以外に伝わらないし、従って、単に本人が苦しいだけの、本人だけが損をする話だからである。こいつは避けたい。だから中年の車の運転は安全第一である。僕たちは日本という安全な国で暮らせることを何よりも幸せに感じている。とても窮屈だけど。

一方、生理的欲求の大御所は睡眠欲、性欲、食欲だ。でも、人生の折り返し地点に立ってからは、どうせ休みの日に目覚まし時計をセットせずに眠りについても、朝早くに目が覚めて、そこからちゃんと眠れない。浅い眠りしかできず、若かった頃のように「泥のように昼まで眠る」楽しみにはならない。従って欲求の筆頭には上がって来ない。そして性欲は言わずもがなだ。それが欲求の筆頭だったのは10代から20代にかけてであり、あとはどんどん遠慮気味に後退して行って、今や草葉の陰で静かに控えている。

なので、人生の後半の生理的欲求の筆頭は食欲である。これはまだまだ健在。そしてこれは、たぶん死ぬ直前まで健在なんだろうなと思う。

いつか老人ホームでチューブに繋がれて生きる状態となった時、安全欲求なんて概念もなくなり、残るのは生理的欲求のみになるだろう。そうやってマズローの説には続きがあって、最後は生理的欲求の「食べたいよぉ~」だけが残って、僕たちは死んで行く。

全ては人生に特に意味や目的がないということを知ったその時から、後ろに引き返して生まれた直後に戻って行くのである。さんざん頑張って高い次元に上って来たつもりなのに、頂上で「とくに意味なし」という看板を見て、僕たちは山を下り始める。そして最後は、オムツを交換してもらい、スプーンで口に運んでもらう食事の味のみが、生きる目的となる。赤ん坊に戻って死ぬのは必然だ。

 マズロー先生。なので貴方の説が間違っていたとは言わないが、続きがあるということです。が、それが悲劇だとも不幸だとも思わない。自己実現なんて、人間が自然法則を超えた存在であるかのように、ほかの動物とは一線を画しているかのように、人間を肯定的にとらえる為のちょっと便利な装置です。それは経験が少なく不安だらけの若者には必要な装置だが、若者時代は人生の最初の頃の一時期でしかなく、決して人生の中心ではない。人間は自然法則の一部であり、ほかの動植物同様、ただ生きて死んで行くだけだから、それを謙虚に受け止めさえすれば、そんな大仰(おおぎょう)な装置を使わなくても、信じなくても、十分に日々の生活を楽しめます。美味しいものを美味しいと言いながら、好きな人とその美味しい料理を食べることが出来れば、それだけで人生は生きるに値(あたい)するのです。

 ところで、僕は普段の仕事のストレスを解消するかのように、家事をやっているので、家で料理を作るのはほとんどが僕である。家人はソファで寝そべって料理が出てくるのを待ち、食べ終わったらやはり僕が食器を撤収し、洗い、食器棚へ戻す。何も考えずにそんな作業をしている時間が、僕にはありがたいからだ。

が、家人がソファからおもむろに立ち上がって時々、気まぐれにササッと作る料理が、これまた死ぬほど美味しく、料理のセンスは勝てないなといつも思う。そう、料理は芸術の創作と同じで、努力でカバーできるところに限界があり、センスが全てなんだよなって思うのだ。最近作ってくれた料理では、ピーマンにチーズと豚肉を巻いて焼いた料理が、一瞬で作ってしまうのにサイコーの味付けとシャキッとした食感で、特にお気に入りである。

僕は出された家人のその料理を、美味しいと感じ、美味しいと口にして伝え、一緒にテレビを見て笑いながら食べる。そうやって日々の生活を味わっている。それ以上に生きる目的も喜びも、今のところ僕には不要である。

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とろろ料理と鮎の甘露煮を食べながら東京時代に飲み明かした夜を思い出す

 高速に乗って15分も走らせるとかなりの田舎に出られる。地元にUターンして20年近くたつが、地方での暮らしが、最初の頃は「やっぱこんなとこ戻るべきじゃなかった、なんもねぇ~」なんて不満タラタラだったけど、そのうちに慣れ始め、楽しみを見つけ出し、幼馴染(おさななじみ)と週末に飲み歩き、彼女を作り、結婚して、すっかりオジサンになり、今や完全に田舎人(いなかびと)に戻っている。こうして地方に住んで一番幸せに感じるのは、ちょっと高速を使って数十分も車を走らせれば、東京暮らしをしていたら年に数回しか見れないような自然いっぱいの景色や、美味しい空気、水、そして料理にすぐ会えることだ。

 今日はやはり高速に乗って数十分走り、ICを下りたところにある芋料理屋へ、久しぶりにとろろ料理を食べに行った。昔からある、昔からよく行く店だ。とろろは必ず白い陶器製のキッチュなボールに入れられ出される。

ボールの流し口にはちょこんと練りワサビが乗っていて、木製の匙でそれをかき混ぜ、それから麦ごはんの上にトロ~とかけて行く。

あとは口の中へかき込むだけだ。もちろん絶品!

ちなみに定食になっているので、ほかにも色々と小鉢が付いて来る。お気に入りが二つあって、一つは「あげとろ」もう一つは「ひりょうず」だ。

「あげとろ」はそのまんま、とろろを海苔で挟んで油で揚げた料理で、抹茶塩を付けて食べる。口の中でとろろの風味が広がり、歯ごたえはサクッとしていて、とろろの魅力が全開だ。

一方、「ひりょうず」は口に入れるとジューシーな野菜のダシ汁が一気に溶け出し、これまた絶品だ。そしてもちろん、甘い根菜の味わいの奥にきちんととろろの風味が、この料理の主人公として主張を譲らない。

この他にも、「まぐろ山かけ」とか、「とろろ芋おとし汁」とか、本当に贅を尽くしたとろろ料理があるのだが、そんな名、ちょっと異色なのが鮎の甘露煮である。

こればっかりは「とろろ芋と関係ないじゃん」という一品なのだが、やっぱり他の料理と同様、絶品なのである。とろろだらけでちょっと口直ししたい時に、少しずつこの川魚の甘露煮をかじり、そしてまた、とろろ料理を味わい始める。

 お店のあるあたりは鮎をはじめとする川魚の放流が盛んで、釣り人も多い。かくいう僕も、東京から帰ってきて真っ先にやりたかったことは、夏に麦わら帽子をかぶって竹竿を持って、川へ釣りに行くことだった。川魚は香りがあるので好き嫌いが分かれるけど、僕は大好きだ。こうして甘露煮で食べるのも好きだが、やはり香りを楽しむなら塩焼きがいい。そして実は、子供のころ勝手に「神の魚」と呼んでいたアマゴ(地元ではアメゴという)の塩焼きが一番美味しいと思う。

 だがこのアマゴは、釣るのが物凄く難しい。難しい理由は川魚の中でも飛び切り警戒心が強く、飛び切り頭がいいからだ。

 東京時代にやはり釣り好きだった友人と場末の飲み屋で飲んでいるとき、子供時代にやった釣りの話になった。僕は酔っぱらって気持ちよくなりながら、子供のころ熱中していたアマゴ釣りの話をした。ものすごく用心深い魚だから、いきなり岸辺に立ってこっちの姿を見せたら隠れてエサなんて喰わないこと。そろっと近寄って魚影を確認したら、釣り竿だけをそっと上流のほうに差し出し、そこからエサのついた釣り針を自然に流して行って、向こうからパクッと喰らいつくのを待つこと。もし合わせに失敗して一回でもバラしたら、その場所ではその日は一日、絶対にアマゴは釣れないこと。合わせが上手くいっても、頭がいい魚なので急に泳ぐ向きを変えてトリッキーな動きをし、すぐに針が外れてしまい、簡単には釣り上げさせてくれないこと。そして、苦労して釣り上げた時に目にするその美しい姿は、まさに神の魚のように金色に輝いていること。などを熱っぽく語った。

 東京時代、なかなか忙しくて実家に帰れなかったし、平日はサービス残業まみれのブラックな仕事にどっぷり浸かってクタクタだったから、休みの日にそんなわざわざ釣りをしに郊外へ出かけるだけの気力もなく、そのくせ「あぁ、子供の頃にアマゴ釣りに熱中していたころの夏休みは、趣があってよかったなぁ」なんて思い出して、「ぼくのなつやすみ」というプレステのゲームを部屋でしながら懐かしさにちょっと胸が詰まりそうになったものだ。そんな中での場末の酒場での与太話である。でも本当に、夜になっても全然涼しくならないあのコンクリートジャングルの熱帯夜で安い酒を飲んでいると、ヒグラシの鳴く大自然の夕暮れ時に涼風がそっと肌に触れる感触が、つくづく恋しいなぁと思ったものだ。20年以上前の20代のころである。

 なのでUターンして地元に帰って来た最初の年の夏休みは、麦わら帽子と竹竿とその他一式の釣り道具を買い揃え、僕はこのとろろ料理を食べた店の近くで、アマゴ釣りに興じた。せっかく地方に帰って来たのだ。何にもないが、自然いっぱいの景色や、美味しい空気、水、そして料理にすぐ会える。

 とろろ料理から甘露煮の話になり、そこからだいぶ話が脱線してしまった。ちなみに数十年ぶりに釣ったアマゴは誇張なしで美しく、やはりこれは神の魚だと思った。

僕は今でも地方で暮らす楽しさを、しみじみ味わい続けている。

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ロスジェネ美食論(仕事探しの活力の為に)

海外赴任がいきなり決まってから中国語で料理を頼めるようになるまで

 いきなり中国の田舎へ赴任が決まって、行ってみたらどこにも日系企業はなく、従って日本人もおらず、日本語はもちろん英語すら伝わらない。だいたいそこに住んでいる人たちは外国人をほとんんど見たことがないし、僕を見て日本人を生で見るのが初めての人もいるようなところで、これはエライところに来てしまったと思った。

 勤めているところが海外生産比率が95%のメーカーなんだから英語くらいは勉強し直すか、と考え、休日にちまちまとTOEICの勉強を始めるもあんまりやる気も起こらず、まぁ英語なんて簡単なコトバだから、いざ行かなきゃならんとなれば、何とか現地で使っているうちに慣れるかなと思いつつ、でも実際に赴任が決まったら慌てないで済むように、日常会話の学習も織り交ぜながら、少しずつ受験英語のレベルを戻していた。

 そして赴任が決まったのは中国の山奥である。想定外だ。上海から1時間半くらいフライトして降り立った空港は、日本の田舎のJRの駅みたいな小さなターミナルだった。スーツケースがなかなか出てこないので英語で「自分のスーツケースが出てこない」と空港の職員に話しかけたら、「はぁ?」みたいな感じで聞き返された。空港の職員でさえ英語が通じるかどうか怪しそうだった。迎えに来てくれた運転手(もちろん地元の人)は、僕の顔をみると笑顔で中国語で挨拶し、車に乗り込んでからもずっと中国語を話し続けた。こっちが理解しているかどうかはそんなに関係ない。中国語でずっと何かを喋っていた。そのあとよく分かったことだが、ずっとその地域で生きてきた人たちにとっては、中国語以外の言葉が存在することさえ特に意味をなさず、もし中国語が分からないなら、それは目が見えなかったり耳が聞こえなかったりするみたいに「かわいそうに」くらいの感覚でいるみたいだった。ある意味、堂々とした中華思想だ。

 仕事では日本語を喋れる部下を1名つけてもらったが、会社を一歩出れば中国語以外は全く通用しない世界である。休日にホテル(会社が部屋を貸し切ってくれていた)の部屋を出ると、そこからは全てが中国語で動いている。雑貨屋でミネラルウォーターを買う時も、クリーニング店でスラックスをクリーニングに出す時も、全てが中国語しか通用しない世界で、僕は音声機能つきのEx-wordを片手に「これを下さい」「いつ受け取りに来ればいいですか?」なんてやり取りしていた。まだスマホが世界中に流布する直前の話である。Ex-wordは勉強に使用するにはよかったけど、持ち歩いて通訳機として使うには重く不便だったし、不完全なコミュニケーションしか図れなかった。クリーニングに出したスーツはドライクリーニングされず、まさかの水洗いをされてしまって、すっかり色あせカウンターの向こうから出てきた。そんな言葉が通用しないことから生じる失敗は、日常茶飯事だった。

 そして食事である。ローカルの料理店はたくさんあるのだが、メニューはもちろん全てが中国語である。まず席に座ったとたん、店員が外国人である僕の姿を見ると、物珍しそうに集まってきて数人で取り囲む。今はどうか分からないけど、一昔前の中国の田舎の店は、料理店だろうとスーパーだろうと、やたら店員の数が多く、大半は暇そうに突っ立っているが、何か買おうとするといっせいに取り囲まれ、あれだこれだと中国語でまくし立てられた。本当はまくし立ててなどいないけど、中国語が分かるようになるまでは、まくし立てているようにしか聞こえなかった。メニューを渡され年配の女性店員たちに囲まれ中国語でまくし立てられながら、僕は料理の写真の一つを指し示して「これにして!」と日本語で大声で言い返した。ホテルの部屋を出る前は「ジェイガ(これ)」みたいな中国語を覚えて料理店で使ってやろうと決めていたのに、実際にオーダーする時には、そんな風に囲まれてまくし立てられ、焦ってジェスチャーと日本語で乗り切るという、残念な結果に終わった。頼んだチャーハンをスプーンで口に運びながら、俺はここで生きていけるのかな?なんてちょっと心配になって来たのを覚えている。

 なので、コツコツ勉強するしかないと考え、毎朝、ホテルの部屋を出る前の1時間を中国語の勉強に充て、覚えた言葉をその日の生活の中で実際に使ってみる、というのを始めることにした。実際に中国語を勉強したことのある方はご存知だと思うが、中国語は発音だけでなく、四声と呼ばれる音の高低と長短の組み合わせも正確でなければ全然通じない。例えば「猫」も「毛」も「mao」と読むが、「マオ」というのを声のトーンを高く平らに発音させれば「猫」になり、上昇させながら発音させれば「毛」になるので、トーンを間違うだけで全く意味の違う言葉になる。「時間」も「事件」もスペルは「shi jian」なので「シージェン」と口にすればいいが、この声のトーンの違いが当然あり、間違うと全然意味が変わるので通じない。文法が物凄く単純で、そもそも漢字なので日本人には馴染みがあるが、いざ実用で会話しようとすると付け焼刃では全く歯が立たないのが中国語なのだ。

 なので、この声のトーンも含めた正確な発音が出来るようになるまでは、勉強していても何度も挫折しそうになった。だって、部屋であんなに練習したのに、昼間、実際に試しに使ってみたら、「はぁ?」とその場で聞き返されるのだ。英語であれば少々発音が悪くても全然コミュニケーションが図れる。中国語はなんて難しい言葉なんだと、しみじみ感じ、本当にこんなコトバ、使えるようになるんだろうか?と途方に暮れることが多かった。

 朝、目が覚めると歯を磨き、コーヒーを飲みながら教科書を開く。教科書は日本から持って行ったやつだ。まずCDを聞きながら何度も母音と子音の発音練習をし、そのあと「今日こそ一発で聞き取ってもらうゾ」というセンテンスや短文をノートに何度も書き出しながら、口で発音し暗記する。「その資料をメールで私に送って下さい」とかそういった類の仕事で使う簡単な文章だ。そのあとホテルの食堂で暖めた豆乳とお粥を食べて、迎えに来た社用車に乗り込む。会社では通訳以外のナショナルスタッフはことごとく中国語しか喋れないから、朝おぼえた単語を実践で使う機会はいくらでもある。で、いよいよその瞬間が来て部下に話しかけてみて、「はぁ?」で返され、ガックリ落ち込む。そんなことを繰り返していた。

 上海みたいな都会だったら、地元の人たちも外国人が喋るヘタクソな中国語に聞き慣れているから、ある程度は聞き取ってくれる。そういういう意味で、僕が赴任した場所は、本当に正確な発音をしないと「はぁ?」を食らうハードルの高い場所だった。何度も折れそうになりながら、それでも僕は毎朝、必ず1時間は中国語の勉強に充て、粘り続けた。

 そして3か月くらいたったある日、突然、自分の喋る中国語が一発で伝わり始めた。会社のスタッフの場合、逆に僕のヘタクソな中国語に聞き慣れ始めたのでは?という疑いがあったが、町で地元の店員相手に話し掛けた時に、「はぁ?」を食らう回数が減り始めた。上達したのは間違いなさそうだった。僕はやっと努力が報われたことに気づき、すごく嬉しかった。折れずに発音の基礎を毎日やり続けてよかったと改めて思った。

 その後、料理店で地元の料理を頼めるようになった僕は、味付けや調理方法の指定まで出来るようになった。「鷹の爪は少なめであんまり辛くしないでね。それからニンニクは細かくみじん切りにしてから一緒に炒めて」みたいな感じで、日本人の口に合いやすいように調理方法を指定して注文し、出張支援に来てくれた日本人の同僚をもてなせるようにもなった。

 これも有名な話だが、中国人にとって食べるということや料理の味というものは、人生の本当に重要な地位を占めている。彼らにとって食べるという行為は、よりよく生きる為の重要なファクターなのだ。なので、たとえば出張支援者の日本人が「昼飯は食べないですから準備は結構です。眠くなって集中力が無くなるのが嫌なので」と言った日には、信じられないという顔をし、「ご飯を抜くなんて、アナタは何の為に生きているのですか?」とあるスタッフは真顔で言っていた。そして同じことだが、「食」は人間関係上のつながり方にも大きく影響をしている。

 上海へ出張に行ったとき、事前交渉がなかなかまとまらず、どうしても先方の中国人の購買部長がYESと言わなかった。まず僕に会おうともしなかった。僕は1日滞在を延長し、翌日またオフィスへ行って打ち合わせを申込んだ。やはり会わないという。僕は粘った。「〇〇という田舎に駐在していて、私はそこから1時間半を飛行機に乗って今回、上海に来ているんです。せめて少しだけでもお話させて頂けないですか?」

 果たして「昼ご飯に外に出るので、そこで食べながら話すならいい」という回答を受付からもらった。僕はお礼を言って外へ出てしばらくブラブラして時間を潰し、昼前にもう一度オフィスの受付に戻った。出てきた部長は眼光の鋭い、いかにも叩き上げという感じの僕より10歳くらい年上の中国人だった。そして日本語がペラペラだ。

 その部長と一緒に食べた四川料理は美味しかった。僕は仕事の話をせず、出てきた料理の味の話などをしていた。そしてまだ全然ヘタだけど、あんなクソ田舎で生きて行くにはどうしても必要なので一生懸命に中国語を勉強していること、少しずつ伝わるようになって本当に嬉しかったこと、確かにクソ田舎だけど、あそこの地元の料理は野菜が新鮮でとても美味しく、今の季節は苦瓜炒肉(ゴーヤと豚肉の炒め物)が飛び切り美味しく、ビールに合うので大好きなこと。みな田舎の人間ばかりで人柄が素朴で真面目な人たちが多いこと。でも町の病院の水準があまりに低くて、肺炎で死にそうになったこと。

 黙って僕の話を聞いていた部長は、実はそのクソ田舎が自分の故郷であることを僕に言った。なんだ、そういうことか。ありゃりゃと思ったけど、もう遅い。そんな悪くは言ったつもりはないけど、クソ田舎という表現はマズかったかな、なんて思った。

「最近はあまり帰れていないが、あなたの話を聞いて、地元の苦瓜炒肉をまた食べたいと思いました。上海のような都会では確かにあんな新鮮な野菜はなかなか食べられない。ともかくあなたは頑張って中国語の勉強を続けて下さい」

 そのあと四川料理店からオフィスに同行し、打ち合わせをさせてもらった。日本の大学を卒業しているその部長は、完璧な日本語を操るタフネゴシエーターだった。僕はあきらめずに交渉し続けた。

 その日の夕方のフライトでクソ田舎へ戻る飛行機の中で、今回は運がよかったなと思いつつ、料理でつながる人間関係がこの国を動かしているってのは、ホントかもなんて考えていた。出てきた機内食をモグモグ食べながら、ところでこのよく分からん料理はなんて名前なんだろと、小さくなっていく上海の夜景を目にしながら、僕はぼんやり考えていた。

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ロスジェネ美食論(仕事探しの活力の為に)

出前一丁と「うぐいすきな粉揚げパン」と香港人のおかゆの思い出

 思い出深い料理ってなんだろう?そう考えてみた。料理に限らず、人間にとっての価値は、そのものだけの価値を意味するのではなく、味わうシチュエーションとかタイミングとか、その時々の僕たちの気分や感情に大きく左右されて意味を決定されるから、ただのインスタント袋麺だって「あのとき兄貴が作ってくれた出前一丁の味は心に沁みたなぁ」なんてなことも十分にあり得る。美味しい、という思い出は、味が味覚的に美味しかった事だけじゃなく、料理にまつわるいろんな物語なんかが付随して、初めて僕たちの「美味しかった思い出」になる。

 小学校に入ったばかりの頃、3つ年上の兄貴と留守番をしていて、兄貴が出前一丁を作ってくれた。なんだかガスコンロを使ってお湯を沸かすという大人の仕事ができる兄貴を、台所ですごく頼もしく見ていた記憶がある。後々分かるのだが兄貴はひどい味オンチで、美味しいとか不味いとか言わない代わりに、何を食べても全く無頓着で、お腹が詰めばそれでいいいみたいな感じの人だった。それで、兄弟二人で留守番するときはお湯を沸かしてできる簡単なインスタント物が多かったけど、兄貴がつくるラーメンや焼きそばは、必ずお湯をたっぷり吸ったブヨブヨの代物だった。ブヨブヨだから確かにお腹はいっぱいになる。味はどうか?もちろん不味かったのだろう。でも子供の僕は、母親以外の家族が作る料理をとても新鮮に感じて、すごく美味しく味わうことが出来た。人間にとって価値の決定とはそういうものだ。今でも僕は、UFO焼きそばを作るときは、わざとブヨブヨにしてちょっと家にあるソースも加え、懐かしい気分を味わいながら食べている。

 思い出深い料理と言えば学校の給食は外せない。考えてみると昭和の給食はヘンな食べ物も多かったかな。どう考えたってカビが生えているようにしか見えない湿った緑色の揚げパンが出てきて、甘ったるく、油っこくて、とてもじゃないがなかなか全部食べられなかった。昭和の小学校の先生というのは今の先生と違って、言う事をきかない子供がいたらぶん殴る場合もあったし、ちゃんと給食を食べない子供には食べ終わるまで周りで掃除が始まろうと机に座らせ続けることも可能だったから、僕はこの悪魔のパンが出た時だけは、半べそをかきながら必死で牛乳で胃に流し込んだ。ネットで調べるとこれは「うぐいすきな粉揚げパン」と言うらしく、好きな人は好きみたいだが、今でもやっぱり食べる気がしない。なんで湿った緑色なんだ?逆に鶏肉にチーズを挟んでアルミホイルで焼いた料理が給食に出て来ると無茶苦茶嬉しかった。あまりに美味しかったので、いつも僕は最後に食べるようにしていた。これは大人になった今でも普通に料理して家人に食べさせている。たれは醤油ベースの甘辛いやつにし、焦げた匂いが食欲をそそるよう工夫して焼き上げる。

 母親の手料理は、母親が地方のさらに田舎の出身だったので、やたらみりんを使った甘い煮物が多かった。何でもかんでもたっぷりみりんを使うので、肉じゃがも煮魚も同じ味がした。食感と風味が野菜っぽいか魚っぽいかの違いだけだ。ちなみに父親も味オンチで全く文句を言わずにもくもくと食べる人だったから、またかよぉ、またみりん味の煮物がおかずかよぉ、と一番下の僕が不満を言える食卓の雰囲気でもなく、ただもくもくと食べる父親と兄貴に挟まれて、だまってその甘ったるい料理を食べるしかなかった。でもこの母親の「みりんたっぷりの煮物」の中でたまにスマッシュヒットがあって、ニンジンのシーチキン煮がまさにそれだ。すごくシンプルな作り方で、ニンジンを乱切りにして、シーチキンと醤油とみりんで煮込んだだけの料理なのだが、本当にこれが美味しかった。シーチキンの油が浮いた残り汁は捨てずに大事に冷蔵庫に入れておいて、翌日の朝、レンジでチンしてご飯にかけて猫まんまにして食べるのが僕の楽しみだった。母親の手料理といえばこのニンジンのシーチキン煮を思い出す。

 中国の田舎で駐在中に疲れを溜め過ぎて扁桃腺を腫らし、39度の熱を7日間出した。地元の役人に紹介された地元で一番の病院は、お世辞にも医療設備は整っているとは言えず、受けられる治療も点滴のみだった。ちょと尿の匂いがする大部屋のベッドの一つで天井を回る換気扇の羽を見ながら毎日うなされ、5日目を越えるころには幻覚も見た。7日目には「肺炎の初期」と言われ、いよいよ明日は上海へフライトをとって病院を変えるかどうか、というところまで行ったが、8日目に急に熱が下がり始め、僕は生き延びた。10日もすると完全に熱は下がったが、扁桃腺は腫れ続けて痛みが残り、何も食べ物が喉を通らなかった。近辺には日本料理店などなく、地元の料理は油と鷹の爪がたっぷり入った地方料理で、本来は美味しいのだが、少なくとも病み上がりの日本人の口は全く受け付けなかった。食べなきゃ回復しないぞと頭では分かっていても、ちっとも飲み込めない、そういう状態だった。

 そんな時、同じプロジェクトに参加していた香港人が自分の借りているアパートへ僕を食事に招いた。僕は正直、まだ病み上がりでスイカくらいしか口に出来ずどんどんやつれて行く自分の状況だったので、それを知っていてどうしてこの香港人は食事に招くんだろと、ちょっと迷惑に感じたが、仕事上でだいぶお世話になっていた年配の方だったので、むげに断れずアパートを訪ねた。上司からは数日したら仕事に復帰するよう言われていた。

 香港人の奥さんがその時食べさせてくれたお粥料理の味を僕は一生忘れることが出来ない。どんな料理も痛みで通さなかった喉が、その温かい薬味の効いたお粥をつるつると食道へ招き入れ、久しぶりに胃に入った固形物の感覚は、なんだかエネルギーが体の中心にふわっと入ったようなそんな気持ちだった。僕は大きめのお椀に入れたそのお粥料理をペロリと平らげ、香港人とその奥さんにお礼を言った。香港人はしたり顔で「ほらね、来てよかったでしょ」みたいな感じだったので、あぁなるほど、そういう親切の仕方をしてくれたのだと、改めて感謝した。それ以降、あれより美味しいお粥料理を食べたことがない。

 料理を食すというのはだから、美味しいとか不味いとかの話ではなく、生きている人間の物語が常に取り巻いて、味付けをし、僕たちの人生の前に現れるものなのだと、僕は思っている。