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ロスジェネ人生論(仕事探しに迷ったら)

「クリスマスキャロルの頃には」サンタの服の赤さに愛と寛大さを想い、キズナって哀しみの中で初めて生まれるよねって思い出した

 街にはクリスマスソングが流れ、行きかう人々の表情もなんだかウキウキしていて、というのは昔の話で、地味な感じの年末だなぁ、なんて思いながら歩いている。だいたい、みんなマスクしていて、街を行きかう人々が笑っているのか、泣いているのかよく分からない。人々はなるべく集まったりしてはいけないし、なるべく直接触れ合ってはいけないのである。会話もディスプレイ越しが望ましい。という具合の昔はSFの設定以外になかったような時代に、幼少期や思春期や青春を過ごした人たちが、我々の数十年後の老後を支えることになっている。いや、支えないだろう。感情なくゴミのように捨てるかも。自分たちだって貧しいし、別に年寄りだからって尊敬できるわけでもないし、そもそもアイツら生産性が低いし、みたいな感じで。

来年あたりから、「大学時代にサークルとか入る機会なかったですよ。講義も大半がリモートだったし、飲み会なんて高校時代の友人数人とオンラインで時々やったくらいですね」みたいな人たちが、新入社員としてやってくる。昭和から本質的には脱却できていないこの組織や社会にだ。もはや世代間の価値観の違い、とかいう次元の話ではなく、宇宙人との交信くらいを想定しておいた方がよろしい。

 クリスマスというと、恋人と過ごす、というのが定番なのは、バブル真っ盛りの商業戦略が当たった日本くらいのものである。海外ではたいていクリスマスは家族と過ごすのが定番だ。恋人と過ごすなんて強迫観念は全くない。

「いやいや違うでしょ。サンタの服が赤いのはなぜか知ってる?あれはキリストの血の色だぜ。要するに愛と寛大さとそれを支える絆(きずな)を意味しているんだ。なので俺は今から、愛と寛大さをもって(相手は誰でもいいから)、キズナを求めに行く(ナンパしに行く)」

なんてイヴの夜の街へ飛び出して行った不届き者の同僚がいたが、今はちゃんと家庭を持って、良きパパとして子供のもとへ帰って行く。今ごろサンタの恰好でもしてプレゼントでも渡しているのだろうか?築いた家族との絆(きずな)を大切に、それを守り抜くために、毎日頑張っているんだもんね。

ジングルベル、ジングルベル、鈴が鳴る♪

 僕はバブルが崩壊してすっかり暗い時代に入ってから東京で青春時代を過ごしたが、それでも且つての栄光とウキウキ感がまだ世の中に残っていて、失業率が高かろうが、大卒のかなりの人々が就職できずにフリーターや派遣社員で働いていようが、「クリスマス」となると、町中にジングルベルが流れ、なんだかみんなソワソワし出して、なんだかみんな人恋しくなる雰囲気だった。

恋人がいない場合?

つくればいい。つくる機会にしては?気になっているあの人をイヴに食事に誘っては?みたいな雰囲気があって、まぁ要するに、社会の人口のまだ大きな比率が若かったのである。前述の同僚も、そして僕もまだ若かった。

そして、人恋しさを解決する手段はまだまだアナログで、相手の顔を見て「直接」伝えるのが常套(じょうとう)だったのである。何かのツールを使ったりそれを通して間接的に伝えるのではなく、相手の目を見つめ、相手の吐く白い息を見つめ、そこから一緒に飛び出してくるコトバをしっかり受け止め、自分は自分の口で相手に「直接」伝えるのである。

勿論、仕事でもオンラインで何かをするのは特別な時だけだった。普通は直接人に会い、人と触れ、人と衝突し、人と語り合い、人に思いを伝え、人と一緒に歩いて仕事をしていた。

だから、プライベートで過ごす時間は、携帯電話で誰かと長時間話すこともあったが、お金かかるし、散々携帯電話ごしに喋ったけど、結局、部屋を飛び出し、電車に乗って逢いに行き、直接顔を見て、直接話をして、直接触れた。そんな時代である。直接逢いに行く途中で乗った電車の、窓に映る自分の顔、その向こうに見えている電飾(イルミネーション)で飾られた街の風景、高揚感と焦燥感が入り混じった表情の、そんな若い頃の自分の姿が、記憶の片隅に残っている。

 さて、とは言っても、仕事が大変で、マジで忙しくて、プライベートとか恋人とか言っている場合ではなくて、アレ?、今年のクリスマス・イヴ?、きっと普通の金曜日で、きっと普段通りサービス残業して深夜に家に帰って、やっと寝れる!みたいな感じなんだけど、みたいな場合も多かった。

「今から遊びに行くけど、一緒に行かない?」

夜の9時。

週末だから工場は夜勤もなく稼働が止まったけど、管理事務所はガンガン明かりが灯っていて、僕はそこでPCに向かってひたすら数字を打ち込んでいた。若者は、あくまで擦り潰して使う消耗品だった時代の話だ。

帰り間際に声を掛けて来たのは3つ年上のカオリさんという女の人だった。工場で現場で作業者として働いていて、確か青森出身で何年か前に上京して来た人だった。酒が滅法強く、目が丸くて色が白く、いわゆる東北美人だ。が、ガラが悪かった。十代の頃は車やバイクで町中を蛇行する同好会?の類に入っていたらしい。結婚、出産、離婚という定番のコースを経て、上京後、今の会社に入った。

この前の会社の懇親会でたまたま席が近かったので、「直接」たくさん話す機会があり、二次会も一緒に行って、酔いが回るにつれ色々と話をしてくれたのである。

結婚はしたが旦那が博打好きで、あっちこっちで借金を作って来たこと、子供に暴力をふるうサイテーな奴だったこと、でも旧家の出身で、義母が何かとやたら出て来て上品ぶって自分に説教して来るのがムカついたこと、結局、我慢できず離婚して子供を抱え、逃げるように上京して来たこと、上京したけど仕事がなかったこと、昼間のバイトだけでは子供を託児所に預けるお金とアパートの家賃を払うお金が稼げず、風俗店で働き始めたこと、風俗嬢をしながら子育てしている事がバレて、青森から義母と自分の両親がやって来たこと、そのあとの喉の奥に釘を一本ずつ刺して行くような家族会議。

子供は結局、青森に義母が連れて帰り、今は旧家の将来の大事な跡取りとして、元旦那と一緒に暮しているのだと話していた。カオリさん自身はそのまま東京に残り、風俗の仕事は辞め、バイトだけど工場で普通の仕事をして、運送業をやっている彼氏と阿佐ヶ谷で一緒に暮していた。

「あれ?彼氏がアパートで待っているんじゃないですか?」

「いやそれがさ、向こうが今日は夜勤で朝まで帰って来ないのよ。今から飲みに行くから一緒に来ない?」

僕はデスクを見回し、山積みの書類と、結局まだまだ終わりそうにない入力と、月曜日に必要な資料の作成はどうやったって土日にココへ来てやるしかないぞ(もちろん無給)というのを思いめぐらし、今日はもう遊んじゃえって思って、「行きます」と笑顔で答えた。

何十年も前の、寒い寒いクリスマス・イヴの夜の話である。

 カオリさんの飲み方は豪快だった。最初の一軒こそ、上野のもんじゃ焼き屋でジョッキ片手に大人しく食べてビールを飲んでいたが、その後はどんどんテンションが上がり始め、居酒屋を2件、3件とハシゴし、日本酒、焼酎、ワイン、何でもござれでドンドン飲み続けた。

ハシゴの合間に冬の夜の冷たい風が一瞬、身体を包み込むと、酔いがいい感じに醒めて行き、また次のアルコールを求めて、二人でヨタヨタ肩をぶつけながら通りを歩いて行く。

カオリさんはずっと大声で上機嫌に喋り続けていた。現場の作業の話、意地悪なバカ主任の話、今の彼氏がさすが運送業で肉体労働しているだけあって脱ぐと筋肉が隆々(りゅうりゅう)である話、同じ作業者の山岡ちゃんは実はそんなバカ主任と不倫しているという話、故郷の青森の冬は雪に閉ざされ、その空気の凍るような冷たさは非情なもので、こんな東京の冬の寒さなんて寒さのうちに全く入らないという話、そして大好きだったバイクの話。

時々、隣のテーブルに座っているサラリーマンの集団や、学生たちのサークルの飲み会にもいきなり大声で話し掛け、あれっトイレからなかなか戻って来ないぞと思って振り返ったら、ずっと向こうで全然知らないお爺ちゃん達と一緒に馬鹿笑いして飲んでいた。僕を見つけると、手招きして「アンタもこっちへ来てこの人たちと一緒に飲もうよ」と叫んでいる。

そんな感じでクリスマス・イヴの夜は更けて行き、終電間際の時間になった。

「ねぇ、今から自由が丘へ行かない?」

「えっ?今からですか?」

「うん、面白い店知ってるんだ。遊びに行こ」

自由が丘なんて山手線の反対側を越えたところだし、昼間は上品でおしゃれなイメージしかなく、こういっちゃ失礼だけど、この人とあんまりイメージが結びつかないんだけどなぁ、なんて二人で電車に乗った。そして駅前に着いた時には既に終電なんてない時間だった。

「行くよ」

カオリさんは相変わらず上機嫌だ。どんどん前を歩いて行く。

その時まで知らなかったけど、自由が丘という街は色んな顔があって、夜は夜で、もちろんおしゃれなバーも軒を連ねているけど、ちょっと行けば昭和感が満載のスナックやパブがたくさんあって、僕たちはその中の一軒(雑居ビルの中)に入って行った。

 そこは、いわゆる「おなべバー」だった。その辺りの男連中なんかよりよっぽどイケメンの元女性たちがずらりと並び、一緒にお酒を飲み、客と一緒に歌っていた。

カオリさんはお気に入りのスタッフを指名し、一緒に酒を飲み始めた。僕はというと、そんな店は初めてだったし、もしシラフだったら少しくらいはドギマギしていたのかもしれないけど、既にだいぶ酔いが回っていたから、普通に「乾杯!」って一緒にグラスを合わせ飲み始めた。カオリさんがマイクを手に当時流行っていた「亜麻色の髪の乙女」を歌い始める。雪国の人はむちゃくちゃ歌が上手いや、なんて、僕は飲みながらムニャムニャ言っていた。カオリさんのお気に入りのハンサム君は、気を遣って僕に笑顔で何かを話し掛けてくれている。

 隣のテーブルでは別の女性客がスタッフに肩を抱かれながら酒を飲んでいた。夢見心地という表情でワインを飲んでいる。「仕事が終わって店からすぐにここへ逢いに来た」とか言っているから、服装とか持っているブランド物のバッグを見る限り、水商売でもしているのだろう。仕事でモノとして扱われる代償を、刹那的であってもここにある優しさで贖いに来ているのかもしれない。

「テメェ、ふざけんなよ!」

いきなり掴み合いが始まった。

僕はちょっとお腹がすいて来たので、頼んで出て来たグラタンをスプーンで一生懸命食べている最中だった。なんだなんだって顔を上げると、すぐそばでカオリさんと、さっきまで夢見心地の顔でワインを飲んでいた隣のテーブルの女性客が取っ組み合いをしている。

どうやら歌っているカオリさんを見て、隣のその客がクスクス笑ったのが原因らしい。馬鹿にされたと思い込んだカオリさんが、掴み掛かって行った。スタッフたちが二人を引き離し、優しい言葉でなだめ、上手に距離を離し、また喧嘩が始まらないように別のテーブルへそれぞれを案内する。その辺りは日常茶飯事の業務だろうから慣れたものだ。僕も立ち上がって、グラタン皿とスプーンを手に、食べながら新しく用意されたテーブルの方へ歩いて行った。新しい席につくと、カオリさんは僕にイザコザを起した事をちょっと謝って、それから、アイツがトイレに行ったら自分も後から入って行ってボコる、なんて息巻き、やっぱりスタッフになだめられていた。僕はケラケラ笑って、今度は自分がマイクを手に歌い始めた。

そうやってバカ騒ぎの夜が更けて行った。何時間も遊び、明け方の太陽の薄明かりが、ようやく自由が丘の通りを照らし始めたころ、僕たちはその店を出た。一晩中騒いだのだ。二人ともさすがに遊び疲れ、喉もかれ、二日酔いの予兆が頭の奥で始まろうとしていた。

「吉野家で味噌汁が飲みたい」

カオリさんがそう言ったので、僕はうなずいた。駅から来る途中に確かに吉野家があったのだ。当時20代だった僕は、数時間前にグラタンを食べたけど、そう言われると、なんだかまたお腹が空いてきて、うん、牛丼をさらさらっと味噌汁でかき込んでから家に帰ろうか、なんて思ったのだ。まだ若かったんだね。

カオリさんは「アンタ、どこまでも付き合いがいいねぇ」なんて、僕の腕を組んで大股で歩き始めた。一瞬だけ、服の上から伝わって来る二の腕のその肉感にドキッとしたけど、僕も笑顔で大股で歩き出した。冷え切った街のアスファルトの上を、二人は上機嫌で元気に歩き出した。

が、吉野家で二人で牛丼を食べ、味噌汁をすすっている間は、ずっと無口だった。さすがに遊び疲れていたのと、味噌汁が身体に沁みていたのだ。二人で並んでカウンターに座り、静かに食べ続けていた。

食べ終えてお茶を飲むころ、カオリさんが爪楊枝を口に入れてボソッと言った。

「去年のクリスマスは青森にこっそり帰ったのよ。親にも誰にも会わなかったけど」

「・・・・・・・」

「なんかさぁ、急に子供に会いたくなってさぁ。衝動的に夜行電車に飛び乗って行ったのよ。結局会わなかったけどね」

「そうなんですか?」

「ウン、元旦那の実家の門のところから、中庭で遊んでいるあの子をちょっと見ただけ」

「どうして?せっかく行ったんだから話せばよかったじゃないですか?」

「いや、ババアが一緒にいたのよ。あの女、私の事を母親として失格だって言ってゴミを見るような目で見て来るからさ」

「そうですか」

「だから今年はあんまり一人で過ごすのも嫌だなぁって思ってさ」

「・・・・」

「もうあそこには帰れないってあの時、分かったし」

窓の外は粉雪が舞っていた。ビュンビュンと強い風がガラス戸を叩きつけている。

あ、そうだったんだ、と僕はお茶をすすりながら、カオリさんの横顔をそっと見た。そこには、さっきまでお酒を飲んで大暴れしていた元ヤンの姿はなく、一人の母親の顔があった。

ジングルベル、ジングルベル、鈴が鳴る♪

あれから数十年たっても、この季節になると、白いマスクの群れの頭の上に、相変わらずジングルベルの曲が流れ続けている。そんな街の風景を見ながら、だいぶ年を取った僕がコートの襟を立てて歩いて行く。今年のイヴは雪が降るらしい。そう、このマスクの一つ一つに物語があって、それは喜びだったり苦しみだったりするけど、それでも人間は生きて、年を取って、病を得て、死んで行く。それを知りながら、それぞれの事情を抱えながら、それでも生きて行く。

だから、人種の違いも、貧富の差も、年齢の差も、境遇の違いも関係なく公平に結びつき、もし人間がキズナを築けるとしたら、それはどんな人生にも公平に訪れる「哀しみ」の中でだろう。それでも生きて行く、という哀しみの中で、僕たちはやっとその違いを越えて結びつける。

ジングルベル、ジングルベル、鈴が鳴る♪

はい、明日はクリスマスです。愛と寛大さとそれを支える絆(きずな)を大事にする日でした。大切な人の為にプレゼントを買いに行かなきゃね。

若かった頃に過ごしたイヴの一夜を思い出しながら、平和な国で、静かに、静かに時間が流れ、こうやって僕は年を重ねて行く。

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2022年の初めにガンダムと小松左京と加藤周一と方丈記を思い巡らせる

 先の世界大戦が終わってから生まれた人が、8割になるという。

 どっかの大学の学生の4割は日本がアメリカと戦争したことを知らないという。

まぁ今は子供の6割が大学生になるらしいので、数十年前の小学生時代を思い出し、懐かしい面々を思い出し、う~ん、今やクラスの半分以上が大学生になるのか、じゃあその半分弱はあんまり勉強が好きじゃないタイプだね、なんて類推し、そんな調査結果になっても当たり前と頷けるのだが、あんなにとんでもない事が起こったとしても、あんなにひどい不幸があんなにたくさんの人々の人生を奪ったとしても、たった数十年で人々の記憶から薄れ、何事もなかったかのように世の中は動いて行く。諸行無常である。

同時に、学ばない人間と言う種の限界なのかとも思う。

 だから、ガンダムってコンセプトが凄かったんだな、なんて思う。結局、「人間と言う種の限界」があの子供時代に熱中したアニメのテーマだった。子供ながらにシャアの演説はすんごい説得力があったし、戦争をしないで済ませられる高いメンタリティを人間が獲得するのは難しい、という彼の言葉は、子供ながらにズシリと響いた。夏休みの宿題の一つ「おじいちゃんとおばあちゃんに戦争の話を聞こう」というやつに、「おじいちゃんとおばあちゃん」の言葉の代わりに、シャアのセリフ集でも書こうかな、と本気で思ったほどだ。

 もう一つ、子供時代に読んだ小松左京の「エスパイ」というSF小説の最期にも、人間の歴史を見守り続けて来た地球外生命が、有史以降に繰り返されて来た人間の戦争に言及し、主人公に対して「人間と言う種の限界」を宣告するシーンがある。そう、僕たち人間は、たった数十年でどんな失敗も忘れてしまえるので、限界があるのである。

 文字がない時代は、語り部による知恵の伝承というあやふやなものしかなかったから、なかなか人は先人たちのやらかした失敗から学ぶというのが苦手だった。

 が、現代において、文字が溢れ、文学としての戦争も、ドキュメンタリーとしての戦争もあるけど、もっと言えば、映像が溢れ、映像としての戦争も、映画としての戦争もいっぱいあるけど、我々は簡単に、その悲惨さを忘れ、集団ヒステリーを起こして皆で拳を上げるだけの忘却力をもっている。やっぱり僕たちは、先人たちのやらかした失敗から学ぶのは、どうも苦手なままだ。

 この学べない人間と言う種の限界は、やっぱり次の種が準備されているのかな?なんて想像のきっかけになる。恐竜は1億8千万年続き一瞬で滅んだ。人間はアウストラロピテクスから600万年しかたっていない。あぁ、そういうこと、次があるのね、なんて考えてしまう。

 加藤周一というちょっとカッコよすぎる知識人の自伝的小説に「羊の歌」というのがあって、日米開戦時に文楽を見に行った時の思い出を書いているが、なんて無茶苦茶な戦(いくさ)を始めやがったんだ、圧倒的な国力差という物理の世界を乗り越える手なんてある訳ないでしょ、あぁとんでもない悲惨さがそのうちやって来るんだけど、歴史が相手ではなんともならんなぁ、なんて感じながら観劇している当時の彼の様子が、なんだか凄まじいと感じた。

人間の種としての限界は歴史を作り続け、人間の得意技の忘却は、やらかす歴史を繰り返して行く根拠でもある。そして、一個人である僕たちは、歴史のうねりの前に、何もできない。ただ嫌だなぁと思うしかない。マジで嫌だなぁと思うだけである。

 パンデミックと覇権対立の中で、貧富の差が広がり、世界は「ボンッ!」って破裂し、我々人間がまたやらかすかもしれない中、僕たちの住むこの古い国は、年寄だらけのまま、技術革新や教育に力を入れるだけの余力も既に失ったまま、要するに上の世代に食い尽くされた残りかすのまま、大きな地震がやって来るのを皆でビクビクしながら待っている。

マジで嫌だなぁと思うだけである。

だから、「諸行無常」というコトバの凄さに改め驚き、方丈記の出だしが何度でも心に沁みる。どうせ何もかもが変わっていく、特に意味なく変わっていく、どんな大きな幸福も、どんな大きな悲劇も、誰の記憶にも残らず時間が過ぎていく。記録には残るが記憶には残らない。

膨大な時間の中の一瞬の幸福と、一瞬の悲惨さが僕たちの人生の全てである。川の中のしぶきの一滴、川の流れの中の一瞬ではじける泡の一つだ。

 そんなことを、年の初めに、暖かい部屋で雑煮を食べてぼんやりテレビを見ながら考えていた。そして温かい部屋でお腹を満たしている自分を俯瞰し、これだけで十分に物凄く運のいい人生だな、有難いな、本当に感謝だな、でもこの雑煮はちょっと塩辛いな、なんて思って過ごした。

さて2022年が始まる。

一瞬の幸福を、うたかたの楽しみを、川の流れに乗って、僕たちは生きて行く。

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海外赴任決定から中国語検定2級に合格するまでの道のりをしみじみ思い返す

 10年以上前の話だ。大学を卒業して10年以上たったけど、久しぶりに英語の勉強でもするか、なんて気まぐれでTOEICの勉強を始めた。そうそう、英語って好きな勉強科目だったんだよな、と思い出しながら問題集を買ってきてパラパラめくり、あぁ単語とか全然覚えているじゃん、きっと余裕じゃんなんて、「とりあえず」受けてみたら、650点という悲惨な結果だった・・・・

こりゃいかん、得意だった科目なのにすっかりダメになっている、ちょっと本気で勉強しようと思って、新しい参考書をAmazonで買って土日に勉強し始めた。理系出身の兄貴には馬鹿にされるし、くやしかったのだ。

が、始めた矢先に中国へ飛ばされた。しかも僻地だ。辺鄙(へんぴ)すぎて最寄りの空港ではスタッフに英語も通じなかった。要するにに中国語オンリーの世界だ。

で、僕は生きるために中国語を一から勉強し始めた。 TOEIC なんて言っている場合じゃない。真新しい英語の参考書は全部、日本に置いて行った。まずは中国語で「トイレはどこですか?」「お腹が死ぬほど痛いので病院に連れて行って下さい」を喋れるようになる事の方が、当時の僕には重要だったのだ。

 という訳で、やむを得ない事情もあり、そのあとの4年間の駐在が終わるころには、普通の会話や仕事での一般的なやりとりを中国語で出来るようになっていたが、いよいよ日本に帰る前に、生活して行くために必死で勉強し続けたその中国語の実力を、ちゃんと形にしてから帰ろうと思った。中国語検定試験の2級を上海へ受けに行ったのだ。

 中国語検定の3級は、駐在して半年後には合格していた。どちらかというと、検定試験を受ける事を口実に上海に行き、ついでに日本料理を食べたかったから(駐在していた地域は田舎過ぎて日本料理店がなかった為)、受験をしながら昨夜久しぶりに食った寿司がマジでうまかったなんて考えていた。熾烈な環境(中国語オンリーの世界)にいたから、3級程度のレベルなんて簡単だったし、当時の上司の勧めもあったから受けただけで、心ここにあらずで受験し、無感動に合格した。

一方、中国語検定2級は3級からグッとレベルが上がるし、4年間の集大成だと思って自分で受けに行ったから、ちょっと気合が入っていた。飛行機で上海に向かい、上海のホテルに前泊したのは3級を受けた時と同じだが、前回と違って夕方にホテルの外へ出かけて日本料理屋を目指すこともなく、ホテルの1階のレストランで簡単に中華式の食事を済ませると、すぐに部屋に戻って翌日の試験本番に向けた勉強をしていた。

で、落ちた。落ちたという結果が判明した直後、送別会をしてもらって帰国の飛行機に乗った。シゴトはやり切った気持ちでいっぱいだったが、検定試験の件だけは、自分でもだいぶ心残りだった。

 本当は日本に帰ったら、やっぱり英語の勉強を再開して TOEIC を800点以上は取ろうと考えていたのだ。650点なんて人に言えないし、日本で新卒で入ってくる部下の新入社員たちはフツーに800点超えだったから、こりゃイカン、遅過ぎるような気もするが、やっぱり英語はちゃんと勉強し直そうと考えていたのだ。

 が、やはり中国語検定の事が気になって仕方なかった。あんなに4年間、コツコツ勉強していたのに、駐在を開始して半年で合格した3級から結果が変わらず終わったとなると、なんだか腑に落ちなかったのだ。お手製の勉強ノートにはそれこそ勉強を始めた頃の「お腹が死ぬほど痛いので」の類(たぐい)の日本語ー中国語の対訳(当時、通訳に教えてもらって書き溜めていた)が書いてあって、そこから4年、すっかり僕は中国語学習に馴染んでいたから、やっぱり、英語の勉強を再開する前に、その4年間頑張ったことを形にしておきたいなぁ、と考えた。

なので、もはや日本に帰って来てほとんど中国語を使用する機会はなくなっていたけど、やっぱり僕は中国語検定2級の合格を目指すことにした。自分なりのケジメをつけたかったのだ。平日は残業まみれだったから、土日を使ってしっかり勉強し、ヒアリング用のCDは通勤途中の車の中で流し続けた。

 実際に中国語検定試験に向け勉強をしたことのある人は知っていると思う。この試験は、参考書とか問題集のバリエーションが物凄く少ないのだ。英語関係であれば、オススメやそれに基づいた合格体験記があまりにも多過ぎて迷うところだが、中国語検定2級に関しては、問題集はほぼ一択で、どの合格体験記もほぼその一択の問題集を使用したと書いてあるから、それをやるしかない。しかも、中国語検定というのはちょっと癖のある試験なので、実生活ではそんな言葉は使わないよなぁ、みたいな表現や、そんなの中国人自身が正確に使ってないぞ、みたいな難しい文法問題がたくさんあって、尚更、その癖に対応し、且つ網羅したこの一択の問題集をやるのが、合格への道だった。戴暁旬という人が書いたアスク出版の「合格奪取!中国語検定2級トレーニングブック」という問題集だ。その世界では超有名な問題集だ。

 結果的に、その問題集を繰り返しやって勉強し、日本に帰ってから受験した2回目でようやく僕はこの試験に合格した。ついでに受けたHSKという中国の国がやっている試験も、中国語検定2級と同等レベルと言われている5級に合格した(この試験は1級から始まってだんだん難しくなり、一番難しいのが6級)。ウン、これでOK。レストランへ一人で入って地元の中国人たちに物珍しそうに囲まれ、「お前は日本人か?」「日本人を初めて生で見るぞ」「何を食べたいんだ?」「それ結構辛い料理だけど食えるのか?」「なんだオマエ、一言も中国語がしゃべれないのか?」なんてガヤガヤ言われ(おそらく)、すっかり委縮しながらも「コレ!」とメニューを指さしてジェスチャーしていた頃から始めた勉強が、ようやく自分の中で一つの区切りがついたと思った。

2級合格の通知が家に届いた翌日、僕は日本を出発する直前に勉強を始めた TOEIC Cの問題集を引っ張り出して来た。既に大学を卒業して20年以上がたっていたけど、ようやく英語の勉強を再開することにした。また土日にコツコツやるところからスタートだ。ここまでが長かった・・・

 休日に書斎で語学の勉強していると、時間を忘れる。誰に邪魔される訳でもなく、自分のペースでやれて、しかも「頑張った分は結果が出る」という、実社会の組織の仕事とはぜんぜん違う単純明快な仕組みが語学の勉強だ。実社会の組織の仕事は、どんなに頑張ろうと、結果の出ないことも普通にあるし、もっと言えば個人が頑張ったなんてどうでもいいのである。お金を生み出すために結果が出たかどうかが重要であり、そんな個人の努力なんてすり潰されて行く日々の組織での平日を越えて、休みの日に黙々と一人で語学の勉強をするのは精神的にとても楽(らく)ちんな時間なのだ。

 そして目を上げると、本棚の隅に中国語の問題集とともに、駐在時代に自分で作った薄汚れたお手製の勉強ノートが立て掛けてある。「お腹が死ぬほど痛いので病院に連れて行って下さい」「私はまだ中国語が上手に話せないですが、面倒を見てくれてありがとう」「いつか中国語が上手に話せるようになったら、自分の口であなたに直接、感謝の気持ちをスピーチしたい」「買って来てくれたあの薬は何だったのですか?」「薬が効き過ぎる」「ありがとう。これは何の薬ですか?」「できれば一日、自分の部屋でベッドで寝ていたい」「何かあればこちらから電話させて下さい」

苦労した思い出とともに、お世話になった懐かしい地元の田舎の人たちのあの日に焼けた笑顔を、一人で書斎で思い出している。

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氷河期世代にとって需要と供給の法則は最大の敵だけど闘い方はある

 言い尽くされて来た話だけど、僕たち氷河期世代は常に自分たちの数の多さに対して、世の中に十分な大きさの器がなかった。ちょっと昔なら馬鹿でも入れた大学が狭き門として急に名門校みたいに受験生たちを見下ろし(入れて欲しかったらまず受験料をたっぷり払って大勢で試験受けて、それからこの門をくぐって来な)、ちょっと昔ならそんな大した企業でもないようなところの人事の若手が、圧迫面接(そんなんではどこも受け入れてくれる会社は無いんじゃない?自分でどう思っているの?)で就職活動している僕たちを腹いせのようにイビリ倒した。

 なんせ僕たちは数が多いのに、世の中は常に「出来ればキミたちは受け入れたくない」方向で話が進んで行くのだ。申込んで行ってみたらそこには同じような年齢の人たちが大勢が集まっていて、受け入れる側は常に高飛車で、或いは冷たく、目の前の門が非常に狭いことを告げる、なんて場面が人生の中で幾度となく繰り返されてきた世代が、僕たちである。

 もはや遥か(はるか)大昔の話だけど、僕も就職活動は全敗だった。まずハガキを200枚くらい書いて会社資料を請求したが、半分くらいの会社しかエントリーシートを返送して来なかった。要するに100社から無視されたということ。そこに手書きで一生懸命、志望動機とか自己PRとか書いて送ったら、数週間後、半分くらいの会社からセミナー開催の案内が戻って来た。ハイ、さらに50社から無視されたということ。で、飯田橋や有楽町にある何とかホールとか言う名の大きな会場にスーツを着て行ってみたら、300人くらいの学生が集められていてソワソワしている。そのうち前の小さなステージみたいなところにその会社の人事の若手がマイクを持って立ち、説明を始める。「では第6回セミナーを始めますね。ちなみに総合職の採用枠ですが、長引く不況で我が社も少数精鋭組織に生まれ変わることを目指しており、今年度は15名の方に絞って受け入れる予定です」ってオイオイ、この類のセミナーを全部で何回やるのか知らないけど、ちょっと前までこの会社、総合職80人くらいは採用していたはずなのに・・・・

 それでもセミナーをくぐり抜け、筆記試験をくぐり抜け、嫌みたっぷりの若手の面接をくぐり抜け、部長クラスが5人くらい正面の机に並んで時々「オマエはどういう風に役にたつの?」くらいの詰問を浴びながらもこれをくぐり抜け、最終の役員面接の待合室で待っていたら、一番最初のセミナーで説明をしていた人事の若手が出て来てニヤニヤこう言い始める。「いやぁ去年は15名採用だったんだけどね。今日、君たち最終面接に来てくれている訳だけど、これが15人なのよ。今7人がこの部屋にいるでしょ。昼から8人来るの。でね、ちょっと変更があってね。今年は採用を8人に絞ることになったんだ。去年だったらここにいるみんなで合格出来て、僕たちも一緒に祝福出来たんだけどねぇ。残念だよね」・・・・・

 目の前に届くところまで来て、結局手に入らないというのは若者にとっては結構キツい話で、前日に最終面接を受けたところから不合格の連絡を聞いて、携帯電話をポケットにしまいながら、ちょっと休憩しよう、次の面接まで時間あるし、という具合に電車を降り、自販機でコーヒーを買ってホームのベンチに腰掛け、一口飲んでから、ふうっと息をする。

 おととい久しぶりに行った大学のゼミで、やっぱりほとんどの同級生が就職活動が上手くいかず玉砕していたな、なんて思い出す。大学院に行くか、公務員試験を受けるか、塾講師のバイトをしながら公認会計士とか司法書士とか、組織に入れないなら資格で生きて行くとか、いずれにせよ、そこにも需要と供給の法則があって、大勢が押しかけ、器は小さく、門は狭いだろう。当時まだ、第1次ベビーブーマーたちは50代の現役だった。無事に定年まで勤め上げ家のローンを返し終えるには、しがみ付かなければいけない。世の中のパイが全体としてどんどん小さくなっているのに、若手なんて入れている場合じゃない。彼らにとって他の世代の人生なんて関係なかった(今もそんなスタンスだが)。だからどこも門は閉ざされていた。僕たちの世代は、例えばせっかく苦労して教員免許を取ったのに、ほとんどが臨時教員でしか先生をやる道がなかった。供給過剰のせいで需要が果てしなく少ない時代の話だ。「必要とされていない」が社会に足を踏み出した頃の僕たちのイメージだった。

 飲み干したアルミ缶をゴミ箱に入れて、次の電車に乗ろうとする。歩き出したら人身事故のアナウンスがあった。ダメだなこりゃ。僕はタクシーを拾いに駅の外のターミナルへ出るため、ホームから階段を下りて行った。こうやって就職活動で東京じゅうを電車で移動しながら、今日は3回目くらいの人身事故のアナウンスを聞いた。まぁオジさんたちも、しがみ付ければまだマシな方で、しがみ付けない人はダイブするしかないんだろな、なんてぼんやり考えながら小走りに走って行く。

 その後、もぐり込んだ社会にあって、当たり前だけど世の中はそんな風に、縮んで行く器の中で一人一人が逃げ切る為に必死だったから、若手がどんなブラックな思いをして仕事してようと、気持ちが潰れてアパートの部屋から出て来れなくなろうと、誰も気にせず、若手として僕たちは、ただただ強く、ただ強く耐え抜き、せっかく手にした仕事を自分のものにする為に、必死で働いた。上司の罵倒に心を病もうと、どこかにダイブしようと、誰も、何も、気にしない。僕たちは数が多く、社会という器の大きさには限りがあって、どこも門は狭く、圧倒的な需要と供給の法則の中で、ただ摺り潰されないように生きくだけだ。

 そうやって年を取り、第1次ベビーブーマーたちが逃げ切って引退して悠々自適の余生を楽しみ出したころ、今度は僕たちの下の若手がぜんぜん不足していて業務が回らなくなり、プレイヤーとして残業まみれの地獄を見始め、ようやく久しぶりに会社に入って来た若手たちは何とか世代とかでチョー余裕な感じで世の中に入って来たので(逆の意味で需要と供給の法則)、ぜんぜん言葉が通じなかった。僕たちが若手の頃、手書きの勤務表に1か月の残業時間を130時間で申告したら、「事前申請していないから60時間に書き直せ」と上司に言われ書き直した話なんて、今の20代の人たちにしたら、「昔は空襲っていうのがあってな。防空壕という穴みたいなやつにな・・・」と語るのと状況は変わらない。そんなもんである。

 という訳で、どこまでもこの殺伐とした需要と供給の法則に僕たち氷河期世代は晒され(さらされ)、これからも晒され続けて行く。さんざん上納して来た年金だっておんなじだ。需要と供給の法則に基づき、僕たちは将来、「お年寄りの方たちには、出来る限り受け取るのを先延ばしにして頂き、出来れば受け取らずに死んで行って欲しい」という世の中のご意向に沿って人生の最後を迎えることを知っている。それを知っていてなお真面目に上納し続ける謙虚な世代だ。

 さて、自然法則はそんな感じで殺伐としていて、僕たちは絶対にこの需要と供給の法則には勝てないような気がするけど、実は大切なことを見落としている。受験だって就職試験だって組織で生き抜くことだって、それはすべて集団の話だということ。僕たちは人生を集団として生き、その中で育まれた価値観に基づいて生活し、幸せだとか不幸せだとか感じるけど、一方で、個人としても生き、その中で育んだ価値観に基づき生活し、幸せを味わい、不幸せを哀しむ。

 個人と集団という概念は哲学でもよく出てくるけど、価値論と密接に結びついている。絶対的な価値はあくまで個人的な体験からしか生まれないし、反対に、話が個人から集団に移行すると、価値観は相対的なものに変貌して行く。例えば、戦場で敵同士の兵隊がばったり出くわし、しかも二人で助け合って生きて行かなければいけないような状況になったら(そんな映画もあったが)、最初は銃を手に向かい合っていた二人は、共同生活の中で一緒に困難を解決し、いつしか人生の友になる。だって、一緒になけなしの食料を分け合って食べたとか、一緒に体を寄せ合って暖を取ったとか、体調が悪くて立てない時に水を飲ませてくれたとか、そんな個人的な体験は、相手が敵国の人間だろうと関係なく、絶対的な価値判断の上で、「大切な人」として認識するからだ。そして無事に二人は生き残るが、最後にもとの「敵国」同士の兵隊という立場に戻らざるを得なくなり、また銃をとって向かい合う悲劇のエンディング、なんてこれも映画のネタにありがちだが、それは個人の体験から生まれた絶対的な価値が、「敵国」という集団の次元に移行することによって、相対的なものに瞬時で戻ってしまったからである。〇〇人の友達はいる、いい奴らだ、よく飲みに行く、でもその〇〇人たちの国はサイアクだ、戦うべきだ、死んでしまえ、というのは、要するに、個人から集団に次元が移行することで、絶対的価値から相対的価値へ話が変わり、そして我々はこの矛盾を飲み込み自然に生きているのである。

 第1次ベビーブーマーたちが新婚のころ調子に乗り過ぎたせいで、僕たちは生まれた数が多過ぎたのかもしれない。そして国は小さくなり続け、器は小さくなり続け、これからも小さくなり、狭き門を前にして、高飛車な門番たちのニヤニヤ顔を前にして、周りにざわざわ集まっている大勢の同世代の不安げな顔を見ながら、僕たちはやっぱりこれからも途方に暮れるかもしれない。

でも家に帰って自分の好きなものに囲まれてみたらどう?

休日に外へ飛び出し大好きなあの人に会いに行ったらどう?

あるいは大好きなあの景色に会いに行ったらどう?

 個人として生きる時間の僕たちは、もはや需要と供給の法則とは別の次元で幸せを感じ、そこで生きて行ける。だって、需要と供給の法則からみたら、もはや中年になってしまったこんなオジサンは、もはや需要不足で価値は全然ない。転職したって給料は下がるだろう。で、そんなオジサンを、友人たちは、家族たちは必要とし、笑顔で話しかけてくれ、一緒にご飯を食べ、一緒に遊び、幸せを感じてくれている。そして友人だって家族だって年をとるのだから、それはお互い様ということだ。

 需要と供給の法則に基づき、僕たちは集団として生きてお金を稼がなければならないが、人生の反対側の半分を、そんな殺伐とした法則が通用しない世界で個人として生きている。だから、まだまだ人生は続き、半分は殺伐とした将来だけど、そして夜明けは来ないかもしれないけど、半分は楽しく生きて行けるということ。万一、友達がいなくたって大丈夫、一人で楽しむコンテンツはいっぱい準備されている。それが僕たち氷河期世代の人生だ。

 僕は今日もありきたりな生活を、ケラケラ笑いながら、しみじみと味わって楽しんでいる。だってこれは、静かな僕の闘いでもあるからである。

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ロスジェネ人生論(仕事探しに迷ったら)

夢のマイホームを高品質にして低コストで全力で建てた話

 人生の一大事の一つがマイホームを建てることだ、マイホームは会社員の夢だと、上の世代からは聞いていた。でも一方で、そのうち南海トラフがやって来るし、この国はどんどん人口が減って空き家だらけになるのだから、そんな古い価値観で家を建てる奴は馬鹿だ、お金があるなら投資で運用を始めておかないとこれからのサバイバルシルバーワールド(年寄たちがその日の糧をめぐってシゴトを奪い合う近未来の世界→負けたら餓死決定)を生き抜いてなんか行けないよ、と友達から怒られた。

が、いろいろ迷ったけど、投資による資産運用なんて自分は決して上手にやれそうにないし(賭け事は昔から全然ヘタクソ)、そのくせ40代になって少しだけ貯まったお金が、やれストレス解消だとか言って休日に小旅行や食べ歩きしてどんどん目減りして行くのを見るにつれ、こりゃいかん、このままじゃアパート住まいで定年退職を迎え、その頃には年金も「できればそのまま受け取らずに死んで行って欲しい」という国の方針がもっと露骨になっていて、そのくせ貯金もなく、それでサバイバルシルバーワールドに乗り出すなんて、怖すぎる。この際、家を建てて貯金をいったんゼロにして、危機感を持ちながらまたコツコツ貯金を始めよう、という自分の浪費癖を戒めるための決断を、数年前にやった。「夢の」というほどの話でもない。

 まず、日本のメーカー勤務の端くれとして、品質は譲りたくない。高級なものである必要はないけど、しっかりした丈夫なものであって欲しい。無駄なところにお金をかけず、長持ちさせることを前提に最低限のお金で建てる、というのをやることにした。高品質にして低価格で家を建てるための方針として、僕は以下の3つをやった。

1.コンセプトを明確にすること

 ああいう風にしたいこういう風にしたいと迷っているうちに、訳が分からなくなり、結局どういう家づくりをしたかったのか分からなくなるのはよくある話で、ハウスメーカーや工務店の営業マンの口車に乗せられ無駄にコストが高くなる原因だ。先々のライフスタイルの変化も想像し、どういう家にするのかコンセプトを最初に明確にしておいた方が、後悔のない家づくりが出来ると思う。

ウチは子供がいないので、つまりは自分と家人が「二人で快適に爺さん婆さん時代を過ごせる家」及び自分か家人の一方が先に死んだ場合、残ったほうが最終的に「年寄一人で快適に長々と過ごして最後を迎えられる家」をコンセプトに、小さな平屋を建てることにした。小さくてコンパクト、徹底的なバリアフリー(ドアは玄関も含めすべて引き戸)と手摺り設置を行い、完成後に初めてやって来た時に年老いた母が「なんだか小さな老人ホームみたいね」と言ったくらいである。

でもコンセプトがそんな風に最初からブレなかったから、今でも手摺りだらけの小さな家の中を見回し、ウン、これなら家人か自分のどっちかが取り残されても、老人の一人暮らしを快適に過ごせそうだな、なんて満足な気持ちになる。

2.見栄を捨てること

 ほんの少しでも家を誰かに見てもらうものと考えてしまうと、やはり営業マンやインテリアコーディネーターの餌食になる。「おしゃれなデザインの出窓はどうですか?」「リビングに太陽の光を入れるため西洋風の天窓をつけてみては?」「フローリングは木の温もりを感じる高級無垢材はどうですか?」「トイレをよりおしゃれに見せるために壁に個性的なタイルを採用しては?」てな具合で、お披露目で誰かに自慢しようなんて場面を想像し出すと、その瞬間から無駄なお金が飛ぶ。

もちろんお金がたくさんある人はそれでいいと思う。人生を豊かにするには無駄は重要。それは確か。でもお金があんまりない上で、高品質をきちんと確保したければ、「家とは誰かに見せるものではなく、そこで快適に過ごすための道具である」くらいに考えておいた方がいい。

なので、我が家も外構は駐車場をコンクリートで打ってその他のスペースは砂利を敷き、シンボルツリー一つ植えなかった。すごくシンプルな四角い家で、外壁はごく一般のデザインにした。その代わり外壁のシリーズも耐久性が一番高いやつにしたし、屋根はもちろん瓦屋根だ。何しろコンパクトだから、一つ一つの材質を耐久性の観点からグレードの高いものにしても、大して金額がかさまない。断熱材は住んでいる場所が北海道でもないのにセルロースファイバーを入れてもらい、おかげで夏は涼しく冬は暖かい家になった。外観は全く特徴のない無骨な平屋だけど、住む分には快適そのものの家に仕上がった。

そして勿論、完成後にお披露目会なんかしていない。友達にも見せなかった。「うん家建てたよ。まぁ子供いないし小屋みたいなちっちゃな平屋にしたけどね。小さいから掃除も楽なんだ」と飲みながら一言伝えた程度だった。家はあくまで自分たちが住むために建てたのだから、それ以上の目的は不要なのだ。

3.営業マンと楽しみながら闘うこと

 これは規格や値段がガチガチに決まっているハウスメーカーでは通用しない。なので僕は地元の古くからやっている工務店を選び、自由設計とした。動線を考え、車椅子でも移動できるよう間口を決めて、およそのイメージとしてエクセルで自分で図面を引き、それに基づいて設計図を描いてもらい、あとは壁材、ドア、システムキッチン、トイレ、バス、照明、床材という風に一つ一つを決めて行った。

その時、例えばドアであれば「〇〇メーカーの〇〇というシリーズにしたい。因みにネットで調べたら、材料費と施工費はだいたい〇〇円くらいで、これに工務店さんが〇%くらいピンハネするのが相場と書いてあった。だからだいたい〇〇円くらいでやってもらえると思うけど、それ以下でどこまで下げられるか考えて次回の打ち合わせ時に提示して下さい」なんて宿題を出し、次の打ち合わせで「マジすかぁ、ちょっとピンハネ分が高くないですかぁ」「いやウチも最低限の儲けを出す必要があるんで・・・」みたいなギリギリの交渉をやって、次を決めて行く。

今の時代は本当に全部の建具や材料の相場が細かいところまでネットで調べられるので、毎回打ち合わせまでに次の交渉のための情報を纏めておき、工務店にはノートPCを持ち込んで相場の調査結果を纏めた資料を提示しながら、営業マンに更にどこまで下げられるかを交渉した。内訳が素っ裸の状態で「要するにアンタのとこはどれだけピンハネするのか?」と毎回迫られるのだから、営業マンもたまったもんじゃなかったかもしれないけど、こっちも真剣だった。そして相手が腕のいい営業マンだと、交渉の駆け引きも楽しく、何十回も打ち合わせを重ねながら、僕はこの闘いを楽しんでいた。おかげでそれなりのグレードのものを、最低限の費用で取り付けることが出来た。その積み重ねが最終的に「高品質にして低価格」に繋がった。

 こんな感じでマイホームを建てた僕だが、普通は奥さんがアレコレと自分の夢を叶えるべくおしゃれな家づくりに熱心になるものだと聞いていたのに、ウチの家人は全く何も言わなかった。武家の娘である家人は僕より男前な性格で、「いいんじゃない、アナタがそうしたいと考えアナタが貯めたお金を使ってやるんだから好きにしな」くらいの勢いで、毎回、工務店との打ち合わせには付いて来るけど、いつも横でニコニコと僕と営業マンの闘いを見ているだけで、何も言わなかった。機能や耐久性やコストばっかり僕が話をしていて、この人は嫌じゃないのか?と思って、そのあたりを聞いてみたけど、「別にいいんじゃない」しか言わなかった。ん?ひょっとしてこの人はマイホームなんていらなかったのか?なんてちょっと訝しく思っていたくらいだ。

 住み始めて数か月たったころ、買い物から帰って駐車場に駐車していた車の中で、ポツリとそんな家人が言った。「私、この家が好き。病院じゃなくてここで死にたいと思うわ」

 なんだかすべてが報われた気持ちだったのを覚えている。僕は相当に運がいい人間なんだろなと思った。

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ロスジェネ人生論(仕事探しに迷ったら)

第2次ベビーブーマーが受験戦争をくぐって就職戦線をくぐった先の話

 第2次ベビーブーマーと呼ばれる大集団に属する一人として、史上最悪の受験戦争をくぐり抜け、くぐり抜けたあとで入った大学を卒業するころには、史上最悪の就職戦線に投入されて、大半はくぐり抜けられずに玉砕し、それでも何とかくぐり抜けてようやく社会にもぐり込んだら、時代こそ平成という年号だったけど要するに昭和の最後の旧式軍隊方式が全盛の頃で、もしそんな古い方式に付いていけず脱落して心を病み病院に行く者がいたとしても、そこはほら第2次 ベビーブーマー って数が多いし、第1次 ベビーブーマー もまだ働いているし、需要に対して供給が多いからぜんぜん大丈夫、てな具合で誰も気にしなかった。

僕たちは死ぬほどパワハラを受け、死ぬほどサービス残業をした。が、それは昔からあったフツーの話で、フツーに対して誰も拳を振り上げることはなかった。

 で、マジで玉砕してダイブしたり、実家に引きこもって出てこれなくなる連中が本当に近所に現れ初めてびっくりし、テレビの話じゃないんだ、ヤバイぞこれ、こんなとこで潰れたって誰も気にせんぞって必死でしがみつき続け、働き続け、そのまま年を取り、もはや転職できないくらい年をとった頃には、時代がすっかり変わっていた。

 今や昭和式日本スタイルはアジアの各国で敗れ去り、生産性が低いと馬鹿にされ、ついに昭和は終わった。昭和を信じて輝いていた第1次 ベビーブーマー たちは無事に逃げ切り、21世紀に敗れた国がこの先傾いて行こうが、少子化で滅ぼうが、特に気にしていないみたいで、たんまり貯めたお金で「人生の楽園」を謳歌して長野あたりの田舎で念願だったそばを打ち、奥さんとおしゃれな隠居生活をしている。

 一方、敗戦国の管理職になった第2次 ベビーブーマー たちは「仕事が辛いので朝起きられない」と言う新入社員を相手に、「そうだねぇ、どうすれば君が生き生きと働ける職場づくりができるかねぇ」なんて面談しながら、そうそう常にスマホでこいつらに録音されていることを意識して言葉遣いに気を付けなきゃ、ウン、「若者に寄り添う」を実践しなきゃね、なんて人事で受けたマネジメント講習よろしく生真面目に頑張り続けている。

 大学卒業直後、就職戦線で敗れた連中のかなりの数が、資格試験や公務員試験を受験していた。受験戦争をくぐり抜けた世代の悲しい性(さが)で、勉強して試験で頑張れば必ず報われるんだと皆が同じことを考えたからだ。でも需要と供給というのはこれ以上ないくらい世界のど真ん中の法則だと思う。せっかく教員免許を取っても先生になれない連中がゴマンといたし、公務員なんてどれだけ門戸を閉じていたか分からない。当時、第1次 ベビーブーマー たちはまだ現役だった。椅子は埋まっていた。やたらめったら資格を持っていて英語ペラペラの奴が、工場でアルバイトとして油まみれで作業していたとしても、誰も気にせず、何とも思わず、そして僕たちはそのまま年を取り続けた。

 なので、いよいよ今さら資格を取ろうがスキルアップしようが、もう年齢的にそんな勉強によって今よりお金がたくさんもらえるチャンスは来ないよね、あとは先細りする給料明細を見つめながら、死ぬ直前までバイトでもなんでもして食べていかないとね、という状況になった今では、逆に何かの為ではなく、自分の好きに自分が好きなことを勉強すればよい、という結論に至った。開き直りができるようになったということだ。

 がっつり文系だった僕は、歴史が好きで古典や現代文も好きだったし、趣味の範囲で経済学も会計学も民法も勉強した。外国語の勉強が一番好きだった。

 でも高校時代までは物理も化学も生物も大好きだったのだ。兄貴の影響で(兄貴は分子生物学が専攻だった)理系の勉強は好きだったけど、文系科目ほど得意じゃなかったので、受験科目を決める時に捨てた。今でも時々、書店で見つけた生物学の一般教養書をずっと立ち読みし、そのまま読み切るまで何時間も読み続けることがある。数字で表現される世界はいつも公平で、全てが平等で、ちょっとオカシな人がオカシな理屈をこねて無理強いできる余地がなく、要するにノイズが入らないからとても気持ちがいい。生命の活動も死という現象も、公平で厳然とした数字で表現され、そのプロセスも数字で説明される。

 でもやっぱり、やっていて一番楽しいのは語学の勉強だ。これは不思議。音楽に似ているからかな?学生時代に第二外国語や原典購読で学んだロシア語もスペイン語も初頭文法で終わってしまったし、英語だって大したはことはない。でも外国語を勉強している間はリラックスし、無になれる。写経をしている時とよく似た気分がそこにある。

 なので、休日の午前中は自分の書斎にこもって、特に先々役立てるつもりもない語学の勉強をよくしている。英語だったり中国語だったり、とにかく日本語以外のコトバを学んでいる間は、ウィークデーの仕事中にどっぷり浸かっている日本人相手のナイーブな世界(日本人は本当にナイーブで難しい)から遠く離れた感覚を味わい、一種の現実逃避ができる。語学の勉強はやはり声に出しながらやるのが一番だけど、それは学習効果よりも何より気分がよくなるということ。

大きな声で発音すれば、なんだか遠く離れた場所に飛翔して行くみたいで、そのくせ頭は真っ白、気分は最高。

 役に立てなくてよい。自分の好きに自分の好きな勉強をすればよい。

いまさら頑張ったって役には立たないという諦めは、年齢を重ねたことによる仕打ちではなく、年齢を重ねたことによって得た贈り物である。

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ロスジェネ人生論(仕事探しに迷ったら)

しみじみ探し続けるということ

 ロストとは失ったということ。氷河期とは時間が止まったということ。でも僕たちはそれでも息をしてご飯を食べて服を着替え、毎日、ドアを開けて家を飛び出して行く。そうやって前へ歩き続けて来たし、これからも歩き続ける。

 だいぶ無理をさせて来た体はそろそろあっちこっちがメンテナンスを必要としているけど、胸の内の雑草たるマインドは青々と茂り、まだまだ僕たちは前を向いて歩き続ける。失ったものとか手に入らなかった時間があったとしても、それはそれ。嘆いても仕方ない。目が覚めたら息をし続けるしかない。だから僕たちはやっぱりドアを開け前を向いて歩いて行く。

 頑張ったって何ともならないかもしれない、結論も理由もないままひどい目に遭うこともあれば、決して努力したわけでもないのに上手く行くこともある、そういう子供のころには教えてもらわなかった不思議な世界の中で、それでも頑張らなきゃって坂道を上りながら、僕たちはときどき立ち止まり、あぁ長いや、なんだこの坂は、疲れちゃったよ、どこまで続くんだ?このずっと先は何があるのかな?今さら期待はしちゃいけないのは知っているけど、でも目を凝らしたらあの向こうにはきっと・・・僕たちが失った世界とか手に入らなかった世界が広がっているのかもって、しみじみ考える。ちょっと周りを見渡しながら、しみじみ考えてみる。

 そう、立ち止まった瞬間に人生のずっと向こうを眺めながら、そんな風にしみじみと考えるってことは、僕たちはまだ、しみじみと探し続けているってことなんだろう。

 しみじみ探し続ける。何を?

 僕にとって何を?

 あなたにとっては何を?

  息をし続ける僕たちは、坂道を上りながら、焦らず、投げ出さず、あきらめず、卑屈にならず、そして長期戦なんだから肩の力はたっぷり抜いて、しみじみと人生を味わいながら、それを探し続けている。

  10年前にアジアの僻地に飛ばされた。舗装もされていない赤土の道路を、スラックスの裾をドロドロに汚しながらテクテク歩き、毎日仕事していた。40度を超す気温に身をさらし、汗を流して働いていた。

 ブラック?

いやそんな感覚ではなく、ハエのたかった食事とか、ゴミだらけの路地裏とか、日に焼けた坊主頭の少年の白い歯とか、要するに自分が育った国はたいがい豊かで、小さいけど高品質で高性能な幸せや楽しみが、あそこにはたくさん溢れていたんだと思い知った。

 あれから10年。今もまだ僕は坂道を上っている。小さいけど高品質で高性能な幸せや楽しみがたくさんあるこの国で、生活を楽しみ、テクテク歩いている。上り切った最後の場所には結局、何にもなく空っぽかもしれないけど、そんなことは多分知っているけど、僕は歩き続け、時々立ち止まり、周りを見渡し、やっぱりしみじみ探している。失われた世界が、まだどこかにあると信じているからだ。