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ロスジェネ読書論(仕事探しの息抜きに)

風鈴寺から「カラマーゾフの兄弟」に出て来るイワンの悪魔の話に空想が飛んだ

 酷暑が続いている。涼を求めて風鈴寺へ行った。石段を上った先にたくさんの風鈴が吊るされ、チリンチリンと気持ちのいい音が真っ青な夏空に響いていた。

あぁ夏だなぁと、空の青を見上げた。

風鈴の音を聞いて涼しさを感じるのは日本人だけらしい。まぁ蚊取り線香の匂いで夏を感じるように、文化による条件反射みたいなものなんだろうけど、そういう風流な感性を自然に持たせてもらえた日本文化に感謝だ。もっとも、起源を遡(さか)のぼると中国に行き着き、大昔の留学生の僧が日本に持ち帰って寺の魔除けになり、最初は青銅製でガランゴロン鳴らせていたが、やがてサイズが小さくなり、江戸期にビードロを作る技術が伝わると、風鈴はガラス製が現れ、庶民の文化として一気に広まった。

江戸の庶民のことだ、どうせ涼を求めるなら徹底してやろう、という心意気で、ビードロには粋なイラストが描かれ、金魚や朝顔やトンボのような、なんだかオシャレでとっても涼しげな絵が流行った。そして今に至っている。

 子供の頃、実家の軒下に吊るしてあった青い風鈴は星空のイラストだった。昭和の子供だった僕は、廊下で本を読み、お菓子を食べてゴロゴロし、夏の太陽の光に照らされながら揺れるその風鈴を眺め、まどろむのが夏休みの楽しみだった。夏休みの宿題なんて、自由研究とポスターの絵を描くというのを除いたら最初の数日で終わってしまったから、あとはそうして星空の風鈴の下で、好きな本を読んでゴロゴロしていればいいのである。

 子供の頃の僕はいろいろと空想するのが好きで、ずっと一人で遊んで考え事していることがあった。別に、朝のラジオ体操は友達とワイワイ楽しんだし、友達に誘われて近所のドブ川に銀ブナを釣りに行く普通の子供だったけど、時々、ふうっと一人になって、例えば、そんな風に軒下でゴロゴロしながら風鈴を眺め、何時間もぼんやり空想していることも多かった。

青い風鈴の中には一個の宇宙があって、銀河系もあって、たくさんの星の中にたくさんの国があって、そこにたくさん人々が住んでいる。そしてその人たちは、自分たちのいる宇宙が、実はこんな小さな家の軒下の風鈴の中に閉じ込められていることに全く気づいていないし、そうやって悦に入っている僕がいるこの地球も、実は誰かの家の軒下に飾ってある風鈴の中の宇宙の星たちの一つかもしれない、なんて、とりとめもない空想である。

 空想癖は今も変わっていないのかもしれず、病院で待つ何時間でも、空港で待つ何時間でも、僕は携帯電話ひとついじらず、考え事しながらじっとしていられる。そしてその大半は、しょうもない空想だ。

 ちなみに宇宙はどんどん膨張しているというのが有力な説らしい。ビッグバン以降、宇宙はどんどん膨張し、星と星との距離が広がり、どんどん熱量が下がって、やがて、無限の死を迎える。死が無限なのか一時的なのか(要するにまたドカンと行くか)は良く分からないけど、どんどん膨張して行く宇宙というのは、肌感覚として「あぁなるほど、そうだろうね」なんて僕は感じるのだ。

 人の生というのは、とにかく時間と空間に支配され、時間と空間に引きずられて消えて行く。だって、肉体という檻(おり)があるから、僕たちはちょっと地球の裏側に行くにも、空港で手続し、それから十何時間も飛行機を乗り継いで、ようやく辿り着くのだ。そして過去には遡(さかのぼ)れず、未来にも遊びに行けないから、織田信長がどんな顔をしていたのか見に行く事は出来ず、未来の宇宙戦争時代(どうせ人間は戦争を繰り返すから)のガンダムが、実際のところはどんな形をしているのか、確かめに行く術(すべ)がない。時間と空間の制約の中でもがき、肉体が劣化により空間上で機能を停止したら死に、そこで個人としての時間も終了する。生きるとは時間と空間の奴隷として息をするという事だ。

 なので、ひょっとしたら生の反対の死は、時間と空間に支配されないことなのかも、なんて空想をしてみる。僕は子供時代に見上げていた青い風鈴の宇宙を思い出し、すっかり年を取ってしまったけど、そんな空想をしてみるのだ。

 ありゃ、どうやら死んじゃったみたいだよ、運転が荒かったもんなぁ、お気に入りの車だったのにヒドイ状態じゃん、そういうことかぁ、マジかぁ、一瞬だったねぇ、でもまだ意識があるみたいだ、不思議だねぇ、しかもどこへでも行ける感じだ、地球の外へ行ってみる?、、っておいおい、ここ宇宙じゃん、一瞬じゃん、むっちゃ星が綺麗じゃん、すごいねぇ、まさかどこへでも行けるってこと? アメリカの南部とか行ってみる? だって生きてた時に行きたかったとこだし、ってここ、しかも50年代のアメリカじゃん、マイルス・デイビスがいるよぉ、生(なま)でジャズの神様のトランペットが聞けるよぉ、サイコー!

というのはかなりおバカか空想だけど、子供時代に見た宇宙模様の風鈴は、そんな楽しい想像に僕を連れて行ってくれる。僕たちはたった数十年を、この時間と空間の狭い制限の中で生き、死んで行かねばならない。だから、今は小山となった誰かの墓を見て数千年前のの人の営みを想像しながら歴史ロマンを味わい、パンデミックが過ぎ去ったら、スーツケースを持ってきっとどこか遠く遠くへ旅したいと願う。

 でもどうだろうか?車の事故から始まった僕の死後の世界で、僕はそのあと、もちろん月の上を歩いてみたり、エッフェル塔の上に立ってパリの夜景を眺めたり、「ブルータス、お前もか」の現場を見に行って、カエサルの実際の言葉がなんだったか知ってゲラゲラ笑ったり、太古の世界でよく知らない恐竜に追い掛け回されたり、太陽の表面の6000度って熱を間近で見て感じたり、そんな好き勝手なことを何十年も何百年も何千年もやっていたら、いよいよ見に行くところ、経験したいことが全部なくなってしまって、何もかもに飽きてしまうのだろうか?死ぬことで時間と空間の制約から自由になった僕は、結局、「もうこれ以上は何もないや」って肩を落とすのだろうか。

たぶん違うと思う。

 ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の中で、登場人物のイワンが悪魔と対話する有名なシーンがあって、悪魔はイワンにある男の話をする。

その男は法律も良心も信仰も否定するいわばニヒリストだったが、実際に死んでみたら信じていなかった来生(らいせい)があったので、「これは自分の信念に反する」と怒り出してしまった。で、そういう不遜な輩(やから)は罪があるということで、裁判にかけられ、闇の中を千兆キロ歩いてから天国の扉を開いてようやく赦す、という判決が下った。

が、そういう男である。そんなのやってられるかってな具合に、道のど真ん中でふて寝してしまった。歩くのを拒否したのである。

ところが、その男が、千年たったころ、突然むくっと起き上がって歩き始めた。ふて寝する、自分の信念の為に歩くのを拒絶する、というのに飽きたのかもしれない。

僕は「闇の中を千兆キロ」となっているのに、初めて読んだ当時は、なぜか宇宙の真っただ中(周りは美しい星々が囲んでいる)に遥か向こうまで続く白い道をイメージし、その上を男が歩いて行く姿を想像をしていた。そのシーンの中で、悪魔がそんな話は嘘だと言うイワンに対し、「でも考えて下さい。千年だろうが何億年だろうが、そんなの関係ないじゃないですか。だってこの地球だって十億回も繰り返されて来た(宇宙が何度も滅び、また生成されて地球がその度に生まれて来た)かもしれないでしょ。時間軸なんてそんなもんです」みたいな話をしていたので、なおさら、その歩き続ける男が、宇宙の中で星に囲まれテクテク歩いて行く映像を想像したのである。

さて、その男はいよいよ千兆キロを歩き通し、ついに天国の扉を開けた時、歓喜のあまり「サホナ(アーメンみたいな賛美の言葉)!」と叫び、自分は千兆キロを千兆倍した道だって歩き通してみせるぞ、と息巻いた。つまり、無神論者だった彼が歩き通した喜びのあまり、一気に神様バンザイに転向してしまったのである。人間なんてそんなもの。だからこそ大衆の為に天国というものを設定し、それに至る様々な物語を用意してあげる必要がある。そこにプラグマティックな宗教の意味があるのだと、悪魔は言いたかったのである。

もちろん、イワンはこれに対して反駁(はんばく)する。実は悪魔はイワンの一部、もう一人のイワンであり、彼自身の幻影でしかないのだけど、ドストエフスキーはイワンの悪魔に対する憤りを通して、人間はそんな固定された理想や天国に縛られるべきではない、もっと自由な存在であるはずだ、と物語を展開して行く。要するにドストエフスキー流の自由論だ。

人はどんなに天国のような平和なところであっても、時間や空間を越えた果てのどんな魅力的な世界であっても、もしそこが固定されて限定されてしまうなら、自由を求めて、もっと素晴らしい世界へ、もっと新しくて面白い光景を見に、更に向こうへと歩いて行きたいと願う。これはどんどん宇宙が膨張して行くのと同じことである。宇宙が外へ外へと膨らんで行くように、その中にいる僕たちの好奇心とか、喜びとかは、一か所にとどまることを知らず、もし時間や空間の制約がなくなったとしても、それは変わらない。

 だから、交通事故で死んで時間と空間の制約がなくなった僕が数千年の好き勝手のあとに、もう行きたいところに全部行き、見たいものを全部見たとしても、ガッカリすることはなく、もっと宇宙の先はどんなところ?何十億回前に滅んだ地球にはどんな生命体がいたの?宇宙の無限の死の向こう側は?永遠に続く無なのか、またドカンと新しいビックバンが起こるのか?生きていた頃に学んだことだけでなく、死んだ後に学んだことも踏まえて、また新しい別の知りたいこと、見てみたい風景を見に、僕は歩き出すのだろう。好奇心はどんどん膨らみ、もっともっと外の世界、過去と未来の世界へ行ってみたいと思うのだろう。宇宙の膨張は、肌感覚としてよく理解できるのである。

 実家にあった青色の風鈴から、えらいところに話が広がってしまった。

さて、余談だけど、僕は風鈴寺の階段を降りた時に足をくじいて捻挫してしまった。靭帯が切れて松葉杖生活の開始である。あ~あ。

僕たちは空間と時間に支配され、生きて行くしかない。ブチっと音がして激痛が走ったあの瞬間だけは、目の奥に星が煌(きら)めき、宇宙の外へ意識は飛んだけど。

やっぱり現実の生はあんまり自由ではなく、僕は恨めしそうにギプスを見ている。

 

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小浜の青空から恩讐の彼方に向かい、峠越えを運転しながら仇討について考えてみる

 せっかく梅雨が早く明けたのに、土日になると雨とか曇り空で、あぁ休日くらい突き抜けるような青空が見たいなぁ、なんて車で走り出した。途中のSAで天気予報を調べてみると、日本中が雨か曇りなのに、日本海側の若狭湾あたりだけがぽっかり晴れマークがついている。

僕はそちらに向かって走り出した。

突き抜けるような青空の下で、家族と手をつないで散歩する。しかもこんな安全で衛生的で便利な国で。その価値に勝るものは恐らくこの世にない。僕はそう思っている。我々は次の時代に投資せずジジババ優先で彼らの面倒を見ているうち、すっかりみんなが貧しくなっちゃったかもしれないけど、でもこの国に残っている安全とか、この国の人々が持ち続けている衛生観念、緻密さ、生真面目さは、大きな財産として確かに残っているのだ。

ちなみに日本の10万人あたりの殺人件数が0.25人に対して、メキシコは30人だ。両国はほぼ人口が同じなのに、向こうでは毎日100人くらいが殺されている。我々は本当に安全な国で暮らしているのだ。

だから、「最近、物騒になって来た」なんてコトバは印象に基づく話でしかなく、高齢化に伴い、この国の殺人件数はむしろどんどん減っている。それが事実だ。

そりゃそうでしょ。かつてドンパチやっていたその道のプロたちは、今やすっかりお爺ちゃんになって介護施設でオムツを交換されている。僕たちが子供の頃はたくさんあった事務所も、大半は取り壊され、または空きビルになっている。

無敵の人による殺人?それも印象でしかない。じゃあ件数は?もし無敵の人による殺人が増え、暴対法施行以前のかつての殺人件数に戻るなら、議論する価値はあるのだろう。数字は嘘をつかない。殺人の件数は確実に減り続けている。これは国ごと年をとったことによる一種の効用だ。世評する者も、その言動に影響を受ける我々も、まずは事実としての数字を押さえなければ、冷静な判断はできない。印象のみで議論するのは、議論のための議論であり、それはエンターテイメントでしかない。

が、こんな安全な国にあっても、時には運悪く、殺人に出くわすことがあるのだろう。重過失や悪意のある他人の娯楽によって家族を奪われることもある。酔っ払い運転に轢かれるとか、子供がイジメつくされて死に追いやられるとかも、家族にとっては一種の殺人だ。

万が一そんな目に遭った時、平凡な僕たちの人生は一変し、奈落の底に落ち、光が消え、目に映るこの世から青空は消え去るのだろう。

僕の運転する車は雨の中を走り続けている。

だいぶ走って、ちょっと疲れてしまって、若狭の手前で一晩の宿にたどり着き、その夜はそこでゆっくり休んだ。

夏の雨は嫌いだ。どこを運転していても同じ風景にしか見えない。面白くない一日だったな、なんてシャワーを浴び、ビールを飲んだら酔いが回ってそのまま寝てしまった。要するに、ふて寝である。

翌朝、目を覚まし、また走り出す。家人は助手席でニコニコしている。

そして走り出した1時間後、トンネルを抜けたその時、突如、そこには真っ青な青空が広がった。予報通りだ。昨日まで雨の中を走っていたので、青空のその青色を見た瞬間、心の中まで一気に晴れ渡ったような気がした。サイコーだ!ついアクセルを踏み込んでしまいそうになる自分に気づく。最近の天気予報の精度の高さに脱帽である。

 しばらくそのまま気持ちよくドライブして、9時過ぎに僕たちは小浜に到着した。そのあと「お魚センター」に入って、たらふく刺身を食べた。日本海側の新鮮な刺身は格別だ。このお魚センターにはイートインスペースにテーブルがあって、買ったその場で刺身を食べることが出来るので、小浜に来たときは必ず僕たちはここに立ち寄り、買ったばかりの刺身を、ついでに買ったあら汁を飲みながら一緒に食べることにしている。アジの刺身も、ハマチの刺身も、肉厚の大きな生牡蠣も本当に美味しかった。海鮮バンザイだ。

           刺身でも寿司のネタでも一番大好きなアジを堪能!
           ハマチもたっぷり脂がのっていて絶品!
           肉厚な牡蠣の触感はもはや海のステーキ!

そして生き物をたらふく食べてからって言うのはちょっと不敬かもしれないけど、せっかく小浜に来たので、僕たちは相談して、やっぱり仏像巡りをすることにした。

 若狭にある小浜は大陸から都(奈良・京都)への文化の玄関口として、有名な仏閣が立ち並ぶ、歴史好きには垂涎ものの観光地である。だって、魅力的な国宝級の仏像や建築をすぐ手の届くところで眺めることが出来、しかも観光客がまばらなので、いわば古(いにしえ)の時代にタイムスリップして心行くまで大昔の時代を満喫できる、コアで穴場のスポットだからだ。京都や奈良とは違った魅力に満ちた場所である。

僕たちは妙楽寺、羽賀寺、明通寺と有名な寺を順番に廻った。日曜日なのに他には1組か2組の観光客しかいない。広い境内にときには自分たちしかいない場面もあり、苔むした道を、青空を頭上に、手をつないでゆっくりと歩いて行く。

いずれの寺も、そこでしみじみ眺めた仏像たちも、数年ぶりに鑑賞した。妙楽寺の千手観音の個性的なデザインは何度見ても飽きず、千数百年前の仏像なのに、その立体的で個性的な表現がまるで現代アートの一つみたいだ。20代の芸術家がまっさらな頭でこれを見たら、新しいインスピレーションが湧くのでは?そう思った。

羽賀寺の十一面観音のなまめかしさ、石段を登ってたどり着く、山間に佇んだ明通寺の本堂の威容、僕たちは1000年前にタイムスリップして、何時間もかけて、そこで手をつないで歩いた。至福の時間である。時に手を合わせ、時に欄干に腰かけて深呼吸し、塵(ちり)の積もった気持ちの洗濯をし続けた。

そしてあっという間に昼過ぎである。帰らなければいけない。

ところで、小浜で獲れた鯖(さば)を京の都へ運んだ「鯖街道」というのがあって、当時は腐敗を防止するため保存に塩を使っていたが、その鯖街道を1日かけて運んだため、鯖が都に着く頃にはちょうど塩のあんばいがよく、京の人々に大変喜ばれたらしい。

なので、ミュージアムのようなところで「鯖街道を通って京都へ行きたいのですが、車で行けますか?」と聞いたところ、山越えのウォーキングコースであり、車で通るような道ではないとのこと。ありゃ、ダメじゃん。

でも、今日はまだ休日。どうせ夜中に家に帰ってもいいのだから、慌てる必要もない。せめて下道でタラタラ走って京都に出て(なんとなく鯖街道を想像しながら)、そこから高速に乗って家に帰ろうと思った。

で、これがちょっと失敗だった。カーナビの指し示す通り走っていたら、どんどん道が細くなり、対向車が来たらアウトってくらい細くなり、しかも本格的な峠越えの道なので、急角度で登り、急角度で降りる、というのを繰り返した。

何度も激しくハンドルを切り、ハードな運転が続く。どうやら最終的には鞍馬山を抜けて京都市街へ出るらしい。車内はひどく揺れ続けたが、家人はさっきたくさん歩いて疲れたのか、助手席でスヤスヤ眠っている。どこでもスヤスヤ気持ちよさそうに寝る人である。そうして目を覚ましたら、こっちを見て寝ぼけまなこでニコッと笑うのだろう。

そんな人だ。

険しい峠道が続いて行く。渓谷はとても深く、人家はなく、がけ崩れを最低限のお金をかけて防止しただけの、荒涼とした山肌が道の両側に連なる。「落石注意」って看板が頻繁に現れるけど、もし本当に大きな岩が山の上から転がり落ちてきたら、ひとたまりもなく、そして避けることが出来ないのだろう。

そう、僕たちは時には運悪く、殺人に出くわすこともあるし、重過失や悪意のある他人の娯楽によって家族を奪われることもあるのだ。

そして僕たちはそれを乗り切って行くことが出来るのだろうか?

 学生の頃、それこそ何でも読み漁っていて、当時はドストエフスキーにどっぷり浸かっていたけど、癖の強いそんなロシア文学の合間に、菊池寛のシンプルで硬質な文体を読むと、たくさん焼肉を食べた後にウーロン茶を飲んだ時みたいに、気分がすっきりして、なので寝る前によく読んでいた。神保町で買ってきた「菊池寛 全集」という本である。

その菊池寛の代表的な作品「恩讐の彼方に」には、父の仇討(あだうち)で諸国を旅する中川実之助が登場する。

彼は流浪の末に遂に見つけた父の仇(かたき)である市九郎が、長い時を経て既に改心し、罪滅ぼしの為に生涯をかけて人助けをしているのを知る。たくさんの人々が命を落とす絶壁の難所に、市九郎は洞門(トンネルを含む覆道)を手で掘削する作業を、自らに課した修行のように何十年もやり続けていたのだ。実之助は見つけたその場で父の仇(かたき)を斬ろうとするが、市九郎とともに洞門を掘削していた石工たちに説得され、「洞門が開通したら本懐を遂げる」ことにする。

そうして仇討(あだうち)を猶予した実之助だったが、次第に、ノミと槌だけで洞門を通すということの気の遠くなるような困難さと、人助けの為にそれに半生をかけて何十年も取り組み続け贖罪し続けてきた市九郎の姿に、激しく心を揺さぶられ始める。そして遂には実之助も一緒になって岩を掘り始め、一年半後、いよいよ洞門が開通した時、二人は共に感激にむせび泣き、実之助は仇討(あだうち)を取りやめる。もはや慈しみも恨みも彼方に消えて、実之助には相手を赦すという決断しかなかった、というお話だ。

なにしろ菊池寛の作品は文体のリズムが美しいので、一個の旋律を聴いているみたいで、もうストーリーとかテーマなんてどうでもいいのだが、ふと「こんな安全な国で家族と手をつないで散歩する幸せ」から考え始めた「万が一、家族が殺されたら」に思いが至り、この「恩讐の彼方に」という小説のことを思い出した。

こんな安全な国にあっても、万が一、家族を奪われるようなことがあったら、僕は相手への復讐を考えるだろうか?それとも恩讐は彼方へ散って消え去って行くのだろうか?そういう空想だ。

鞍馬山へ向かう峠道を苦戦して運転しながら、僕はそんな空想でずっと頭を満たしていた。もしそんなヒドイことが起こったら、自分は何をするのだろうか?

野生の鹿の影が、うっそうとした木々の向こうにチラッと見えた。どえらい山道だ。ところどころにガードレールがない箇所もあって、ちょっと汗ばむ。鯖街道どころの騒ぎではなくなっている。僕の空想はどんどん駆け巡った。

 そうそう、数日前にテレビで見た素人の男性が、娘を交通事故で失い、相手への怒りと恨みのやり場なく、お遍路をした話をしていた。話をしながら涙を流し、改めて怒りと恨みを語っていた。お遍路には色んな意味があるのだろうが、焼き付くような過酷な太陽の日差しが、または凍えるような冷たい海風が、それを受け止めながら歩む自分を見つめることで、大切な人を救えなかった、可哀そうに、辛かっただろう、痛かっただろう、でも助けられなかった、自分は生き残ってしまったという罪の意識を、その間だけは緩めてくれるのかもしれない。困難を受け入れることで、守れなかった申し訳なさを償っているのである。

が、お遍路をやり遂げ、家に戻って日常がまた始まれば、怒りや恨みはなお消えず、そして自分を責め始める。結局、恩讐は彼方へ去らず、僕たちは自分を許せないのだろう。

だから、実は仇討(あだうち)という且つてこの国にあった制度は、もちろん家(イエ)制度の延長線にあったのだろうが、理にかなっていたと言えばいえるのかもしれない。自らの手で仇(かたき)を殺めて、殺人者となり業(ごう)を背負うことで、守れなかった大切な人への申し訳なさを償うのか、或いは、実之助のように仇(かたき)を許して、ということは一生、故郷には帰れなくなることによって、父への申し訳なさを償うのか、いずれにせよ己(おのれ)を罰することで、死んで行った者たちへの償いが出来るのである。現代の死刑制度のように、自分の手から遥か遠く離れた執行室で、仇(かたき)が国家という漠然としたものに殺されてしまっては、生き残った者は一生、自分を赦すことが出来ない。仇(かたき)のことではなく、罰を受けない自分のことを許せないまま生きて行かねばならない、という事である。これは極端な死刑反対の立場だろうか?人道的な理由ではなく、生き残った者が救われないから、生き残った者の意思を尊重するために死刑反対、遺族に仇討(あだうち)をさせるべし、なんていっぱしの社会人が口にすべき話ではないのかもしれない。が、もし家族を奪われるようなことがあったら、僕はお遍路をせず、即座に自らの手を汚す決断をし、業を背負って、守れなかった申し訳なさを償おうとするかもしれない。

いつの間に人家が現れ、すぐ真横を叡山電鉄が走っていた。峠を越えたのだ。鞍馬山を抜けていた。雨は降っていない。まばらな観光客の横を、車で通り過ぎて行く。

京都市街に出たころには、ホッとして、なんだか長い悪夢を見ていたような気がしていた。信号待ちして車窓の外を眺めながら、街の風景を目に、仇討ってなんだよって思い返した。峠越えの運転で始まった空想は、恩讐の彼方の実之助につながり、テレビで見たあの男性の涙につながり、やったこともないお遍路につながり、僕の家族を奪った(と仮定した)男の死刑執行の場面へつながって行った。現実には何にも起こっちゃいないのに、そして昼間あんなに美しい青空と、美しい古寺の情景の中で家人と手をつないで僕は散歩していたのに、鯖街道から始まったヒドイ悪夢だと思った。

「ねぇ、何を難しい顔してるの?」

助手席で目を覚ました家人がニコニコこちらを見ている。寝が足りて満足って顔だ。

「うん。なんかね」

「何?」

「どうやら鞍馬山には天狗がいるみたいだよ。ヒドイ悪夢を見させられた」

「あなた運転してたのに?」

「うん」

僕たちは時には運悪く、殺人に出くわすこともあるし、重過失や悪意のある他人の娯楽によって家族を奪われることもある。

でも恩讐の彼方へ向かうには、僕は人間が出来ていないし、とても生きているうちにそんなところに行けそうにない。恩讐(慈しみと恨み)のど真ん中で、最後まで生々しくもがきながら、生きて行くような気がするのである。

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「燃えよ剣」を見て久しぶりに司馬遼太郎の作品を思い出し、ついついサラリーマンの哀愁を思い浮かべる

 歴史好きのご多分に漏れず司馬遼太郎が大好きだった。学生時代に本当に読み尽くして、エッセイも評論も随筆も全部読んで、文字になっているもので読んでないものはないくらい読んだ。それくらい好きだった。

作品の中でも、みんなに人気があるのはどうやら「燃えよ剣」や「竜馬が行く」や「坂の上の雲」で、やはりどれもドラマ化とか映画化をされている。そしてどれも160年以内の非常に最近の日本人の話だ。だから今の我々と比較的似ていて、共感しやすいというのがあるのかもしれない。

でもやっぱり僕を魅了したのはちょっと古い時代の、しかもあんまり良くわからない(ということは想像するしかない)時代やジャンルの人間を描いた物語だった。

「箱根の坂」とか「梟の城」とかだ。戦国初期や戦国末期の、要するに日本人が徳川300年でステレオタイプに収まって行く前の時代の、イキイキと、そしてドロドロと生きていた、今の日本人とは全然種類の違う人々が登場する物語である。

「梟の城」の主人公の得体の知れない価値観や喜び、「箱根の坂」に出て来る権威や血に対する人々の牧歌的な信仰など、今を生きる我々にはあんまり共感できるところが少ない故に、そういった時代があり、そういった別の類(たぐい)の日本人がこの国にいたことに感嘆し、それは一種の作家の想像であってフィクションかもしれないけど、でもそんな今と全く違う世界が広がっていた事を物語を通じて想像し、なんとなくワクワクするのだ。

一方、幕末まで来ると、そこに見られる登場人物の葛藤は、今のサラリーマンの葛藤にあっさり重なったりして、共感し感動はするが、新しい世界を垣間見るワクワク感は少ない。そりゃ幕末は特別、血生臭い時代だったのかもしれないけど、やはり徳川300年後の血生臭ささである。戦国の血生臭ささとは違う。そうだよなぁ、日本人ってそんな感じなんだよなぁ、同調圧力が異様に強いんだよなぁ、周りのみんなに言われてやむを得ず腹を切ったんだねぇ、なんて登場人物に同情しつつ読んだりする。

だから、高杉晋作のかっこいいアウトローぶりは理解できるけど、やはり僕は、例えば、戦国時代初期に現れた北条早雲という怪物を、必死で想像しようとした司馬遼太郎の熱心な創作とディテールが、小説を読んでいる間だけは僕たちを別の世界に連れて行ってくれるみたいで、とても好きだったのだ。

 で、Amazonプライムで「燃えよ剣」の映画を観て、久しぶりに司馬遼太郎のことを思い出した。熱にうなされるように読み漁っていたあの頃から既に、四半世紀がたとうとしている。楽しかったなぁ。

ちなみに「ある運命について」というエッセイで人生の無意味さとブッダの立ち位置を語った有名な箇所があって、その一文を書いただけで、この司馬遼太郎という作家はこの世に生を受けて意味があったと、後世の万人がきっと評価すると思った。それくらいその一文は恐ろしく研ぎ澄まされた内容であり、真実であり、僕のその後の人生に大きな影響を与えた。これも懐かしい思い出だ。

 さて、リビングでお菓子を食べながら見ているのは、どえらいハンサムが土方を演じる「燃えよ剣」である。

もはや僕はすっかりオッサンなので、何かの作品が自分の人生に大きな影響を与えるなんて幸せな出来事は起こりそうにもなく、当人にも、若いころのように、何かを求めるが如く真剣な眼差しが1mmもない中、ときどき居眠りをしつつ、お菓子を食べつつ、ぼんやり作品を見ている。のどかな休日のリビングでの出来事だ。

土方歳三という男は写真も残っていて、その映画の役者のように男前で、剣を信じ、剣で立身出世の道を切り開き、剣で死んで行った。竜馬が千葉道場で北辰一刀流を極め、その後、あっさり剣術を止めて航海術を学んだり、剣の代わりに拳銃や万国公法を持ち歩きながらクルクル時代の裏側で動いていたのとは対照的である。もちろん拳銃や万国公法は、後付けの創作の逸話らしいが、竜馬はおよそそんな話でもくっつけられそうな曲者(くせもの)だったのだろう。

一方、土方歳三は実務家であり徹底したリアリストだった。彼にとっては、新撰組という組織をどのように強くするかが一番大切だった。そこに組織運営に身を捧げる美学はあったが、組織の将来を見据えた大局観や、行動原理としての思想はなかった。

それは石田三成の参謀だった島左近も同じだ。組織を実際に仕切る人間が土方や島のように実務家でありリアリストだと、組織はどのみち、道を誤って滅びるしかない。全員、美学のうちに死ぬしかないのである。だって組織の将来を時代の変化の中で見極める力を、もともと実務家は持っていないからだ。

だからこそ、組織のトップに必要なのは決して実務能力や、口を開けば常に最悪を想定する目の前への危機感や、筋を曲げない美学ではない。大局観をもってその時々で情熱的に思想を語れること(それが楽観的な大ボラであっても)が重要なのである。

そしてこれは会社の経営幹部になる人間も同じである。大きくて強い組織の経営幹部はたいてい、大局観を持ってリスクプロテクトが出来るし、口を開けば熱い理想をペラペラ喋れるし、そのくせ、信じがたい変節や部下の切り捨て、自分の保身の為の大嘘など、およそ美学とはかけ離れた行為をしがちなのである。

これは当たり前の話だ。

我々は土方の美学をカッコいいと感じ、一方、そのリアリストぶりが行きつく先は、破滅しかないことを知っている。時代は常に変わり続け、時代とともに価値は変わって行く。それに付いて行けるだけの柔軟さがなければ、滅びるだけだ。例えば、十数年前まで数字を出すためにパワハラをやって何人もの自分の部下を潰して来た人間が、出世して相応の地位につき、今や率先して「働きやすい職場環境を、ハラスメントのないマネジメントを」と熱く語ったりしているのを見ると、ウン、なるほどね、これぞ経営幹部だ、なんて思うのだ。

そこに人としての美学はないが、大きな時代の変化の中で、組織が生き延びる為に必要な思想はある。土方はサラリーマンになっていたら、出世はしなかっただろう。

そんなことを考えながら、やっぱり司馬遼太郎の作品は、うんと古い時代の物語がよかったな、なんて思い出していた。ハンサムな土方がテレビ画面の向こうで、バッタバッタ人を斬っている。う~ん、絵になるなぁ。

 ご存じの通り、日本刀が実戦で使えたのは、屋内や狭い通りで人を斬るのが流行った幕末の一瞬だけである。町屋で数十人の殺し合いをやる分には有効だったが、そんな規模で世の中は動かない。世の中を動かす規模の殺し合いは数千、数万規模でやる戦(いくさ)であり、戦(いくさ)で圧倒的に主要な武器として機能したのは戦国時代から弓矢と鉄砲だ。そういう飛び道具以外であれば槍が最も殺傷力があった。考えてみたら分かる話だ。鎧を着た者同士で日本刀で斬り合っても、全く埒があかないのである。防具の隙間を縫って相手の身を突き刺すには、間合いを取った場合は槍が、接近戦ではむしろ脇差が有効だった。

が、武士という殺人を職業にしながら、ほぼ殺人をすることなく一生涯を終えざるを得ない特殊な江戸時代にあって、武士たちの屈折した美学は日本刀という実用面からは中途半端な武器に傾き、その日本刀に魂を込めてその美学を磨こうとした。池田屋事件を始めとする幕末の数十人の斬り合いは、徳川300年で屈折した武士たちの最後の小さな晴れ舞台だ。土方たちはもともと武士ではなかったゆえに、強烈に武士たる者であろうとし、それは剣に生きることだった。

で、その土方率いる新撰組は鳥羽伏見の戦いで日本刀を振り上げ、振り下ろし、散々負けた。やはり日本刀は戦(いくさ)で使うものではないのである。

 ハンサムな土方が映画のエンディングで華々しく最期を迎えようとしている。実際には土方の亡骸は行方不明なのだから、これは後世の人間が想像を楽しめばいいのである。エンドロールが流れ、僕は別のお菓子を取りにソファから立ち上がる。

のどかな休日の午後はぷらぷらと続いていく。

 パンデミックの前まで、会議室でホワイトボードを使いながら上手に議事進行するというのは、ちょっとした主要な技術だった。或いは、p.pでプレゼンするとか、Excelで複雑な計算式を組めるとか、Accessを使いこなすとか、要するにサラリーマンの嗜(たしな)みとして、そういったスキルはある程度要求された。僕たち中高年は若いころからそれらを嗜みとして頑張って身に着け、若者時代にはブラインドタッチ一つ出来ない上の世代を馬鹿にした。

でも、アフターコロナが見え始めた最近では、なんとなく僕たちが身に着けて来たそれらのスキルも、幕末の日本刀みたいなものなのかな、なんて思い始めている。

最近の新入社員は下手をすると僕たちオジさんなんかよりExcelが使いこなせないが、TeamsやZoomでサクサク機能を使いこなして会議を進めて行く。対面して直(じか)に話すと目を見て堂々と話せなかったり、理路整然と話せないくせに、オンライン会議ではペラペラ喋って議事を進行し、必要なデータを引用して共有し、まさに光を放っている。そして僕たちオジさんたちは、昨夜一生懸命作ったExcelの資料を共有しようとして、ボタンを押し間違い、あたふたしている。

時代はまた新しく変わったのかな?僕たちは日本刀を振り回し、これから散々負けるのかな?

駄目だ駄目だ、こんなところに落ち込んでは。やっぱり司馬遼太郎の作品はもっともっと古い時代の話がいいや。江戸以降の話はどうもサラリーマンっぽい考えが頭に湧いてしまって、よくない。

僕は新しいポテチの袋を開けて、一枚、口に放り込んだ。次の映画を観て、元気を出そう。おバカなアクションでも見ようかな?

休日の午後が、ゆっくりと過ぎて行く。

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ロスジェネ読書論(仕事探しの息抜きに)

「古寺行こう」を衝動買いして、仏像好きにはこの先も衝動買いしてしまうと痛感している

 書店の一角には必ず「週刊〇〇」という雑誌が平置きにされているコーナーがあって、懐かしのF1マシンなんかが付録でついていて(そういうのはもはや書籍というより、BOXのおもちゃだが)、要するに我々の衝動買いを誘うコーナーのようなものなのだが、先日、それらの類の一つを、つい買ってしまった。

「古寺行こう」という隔週で小学館から刊行される薄い雑誌のシリーズだ。

別に付録がついている訳ではないけど、有名どころの寺ごとに刊行されており、「興福寺」「薬師寺」「三十三間堂」の3冊を僕は買った。

なんで衝動買いしてしまったかというと、パラパラと中身を見たら、さすが老舗の出版社が出すだけあって、十分な量の仏像の写真が収められ、解説も最低限のことがしっかり書かれていて、1冊が770円と比較的安価だったからだ。

例えば京都の東寺へ行って、その圧倒的な仏像群に打ちのめされ、境内でちょっと休憩した後、すんごかったなぁ、いつ見てもやっぱ半端ない迫力だなぁなんて思い返し、帰りに土産店に立ち寄った際、もちろん「東寺」という写真集が売っているのだが、ものすごく高価な値段である。若いころ、何回も迷って、さんざん迷って、結局、買ってしまったが、確かに解説が充実していて物凄く面白いけど、3,000円近くするのは財布に痛いなぁ、なんて思ったのを覚えている。

ただただ、さっき見たあのすんごい迫力の仏像を、もう一回写真でもいいから見たいなぁ、と思うだけなのだ。

なので、書店で見つけたその「古寺行こう」シリーズは、薄い雑誌ではあるけど、最低限の十分な仏像が収められていて770円なんて、ついつい嬉しくなって買ってしまった。

ちなみに僕の書斎には「仏像」と名の付く本が20冊以上並んでいて、今回買った「古寺行こう」の中の写真の仏像は全部、含まれている。いわば既に他の書籍や雑誌で持っている内容なのに、寺ごとに分けて雑誌になっただけで、なんか嬉しくなって、まさに出版社の思惑通り、衝動買いしてしまった。症状が末期的である。家人は、また買ったの?という怪訝な顔で見ている。

 仏像好きは巷(ちまた)にたくさんいて、きっと僕もそのうちの一人なんだろう。子供の頃から惹かれ、この年になるまで惹かれ続けて来た。興味の無い人には面白くない話かもしれない。

 初めて寺とか仏像に興味を持ったのは小学5年生の時だった。現場学習でバスに乗って薬師寺に到着し、そこで初めて境内に入って、その建物と建物のバランスの美しさとか、来訪者を見下ろす東塔の凛としたたたずまいとか、そして並び立つ如来と菩薩のみずみずしい立ち姿とか、全部に衝撃を受けた。一言でいうと「美しい」のだ。

例えば法隆寺に入ると、目に映るすべてが、何千年もの間、日本人が美意識の全力を集中して投入し続けてきたその結晶だと気づく。あの空気感は、要するに大昔の人々が「どうよ、これが美しさというものよ。これ以上の美しいものがこの世にあると思うか?」と目の前に叩きつけて来るような、そんなイメージだ。

建物も仏画も仏像も、いろいろと解釈や表現はあるのかもしれないが、僕にとっては「美しい」で十分だと思っている。東寺のあの不動明王とその取り巻きたちの憤怒の表情でさえ、迫力の向こう側にあるのは、古来から我々が感じて来た美意識、美しいと思う感覚である。

 中国に駐在していたころ、そこは田舎の町だったけど、ナショナルスタッフに近くの寺へ行きませんか?と誘われた。そのスタッフは会社でシステム担当をしている人だった。数週間前に、ホテル暮らしの僕の部屋のネット環境が不調になった時に、ホテルの保全スタッフの腕前が悪すぎて、僕はしびれを切らし、個人的にお願いしてそのスタッフに部屋に来てもらい、解決してもらった。その時に僕の部屋に置いてあったサックスとか、プレステとか、家族写真とか、日本から持ってきた雑誌や書籍を目にし、書籍の中には仏像の本も混ざっていた。僕は当時まだ上手く中国語が喋れなかったけど、照れながらカタコトで「古い寺とか仏像が好きなんだ」と言ったのを、そのスタッフが覚えていたのだ。

 中国の歴史は古い、というのを再認識したのは、まさにその田舎の平凡な小さな寺が、創建が日本の弥生時代の終わりくらいだと気づいた時である。もちろん建物は全部入れ替わっていて、決して古いものではないが、確かに、そんな太古の昔に、そこには寺があったのである。

で、中に入って仏像が全部、金ピカのペンキで塗られていたので、ガッカリしたというオチである。海外に慣れていないド日本人にありがちな、独りよがりのガッカリだった。仏像の金箔が剥がれても塗りなおさず、まさにその剥落にさえ詫びさびを感じて美しいと感じる不思議な感覚の日本人の一人として、「ペンキでピカピカ」はどうしても腑に落ちなかった。

「どうですか?」案内してくれたスタッフが僕の顔を見て聞いた。僕は、うん、すごいね、と笑顔で返した。心中は別である。

その数か月後、タイにいるスタッフがその僕が駐在していた中国の工場へ打合せにやって来ることになった。聞けば英語しか話せないらしい。僕は空港へ迎えに行き、社用車で工場まで同行した。

中国語の難しさに苦労しながらも少しずつ話せるようになった頃だったから、久しぶりに英語を喋ろうとすると訳が分からなくなる。頭がぐちゃぐちゃになりながら、僕は車中でそのタイ人と雑談していた。

「もう中国での生活は慣れましたか?」

「ありがとう。なんとかね」

会話が続かない・・・

あぁそうだ、この間、近所の寺に行って、「ペンキでピカピカ」にがっかりした話があったぞ。僕は、disappointedなんて言葉はいつから口にした事がなかったろう、なんて思いながら、その体験をタイ人スタッフに話した。

「日本では古きを良しとして、決して塗りなおさない。だから仏像も古めかしくて雰囲気があるし、そこに価値を感じるんだ」

「そうですか。でもタイでも仏像はたくさんのダイヤモンドを埋め込んだりして、毎日ピカピカに磨いて美しくします。だって大切なものを美しくしてあげたいと思うのは人間として自然でしょ」

あ、と思った。

そういうことなんだね。

大切なものなら美しくしたいのは自然、ってそりゃそうかもしれない。僕は日本の古都にある片腕や片足がちぎれたままのあの仏像たちを思い出していた。確かに、ちょっと変わっているのは、我々の方かもしれない。外へ出た日本人にありがちなカルチャーショックである。

 古寺とか仏像が好きなのはそのまま続き、帰国後はしばらく毎週のように高速に乗って京都や奈良へ行っては、好きな仏像を見ていた。もちろんその頃には、要するにこの詫びさびの感覚、外国人から見たら、ボロボロの仏像をボロボロのまま鑑賞する、というのが世界標準では特殊なのは知っていたが、今さら日本人を止める訳にはいかない。僕は心の底から帰国を謳歌し、心ゆくまで好きな仏像を眺めていた。

 もちろんブッダが生きていた頃は、仏像なんてなかった。死んでから500年くらいたったころ、布教の道具として仏像が生まれた。だから悟りとかそういう話とは関係ないのが仏像だ。生きている人間、悟りなんて全く無縁の生々しい人間が、ブッダの面影を見たいという願いから生まれたのである。葬式も同じ。昔から死は、決して自分のものではなく、生き残った人々の、いわば自分以外のものである。生き残った側はその死を受け入れるために、思い出としての写真を、記念としての儀式を、これからも生きて行くために大切にする。死はその人のものとして存在しない。その人を大切に思う、生き残った人々のために存在し、だから生き残った人々はその人の思い出を祭壇に飾る。古来から色々な形でわれわれ人間がやって来た事だ。

 なので、古寺にあるあの美しい仏像たちは、面影を見たいという願いの記念品であり、仏師たちの情熱は、その願いに注がれていた。出来たばかりの仏像たちは、みんなピカピカだった。それをそのまま美しいままにしたいと考えるのが普通の感覚だろう。

でもこの島国の我々は、美しさが時間とともに滅びて行く、この世の常ならない(無常)に趣(おもむき)を感じ、仏の頬の金箔の剥落に、かつて必死で美しいものを再現しようとした人々の情熱を見出して、感嘆する。複雑な人たちだ。そりゃ、海外の人たちから見たら得体が知れないだろう。

が、僕たちはこの複雑な日本人を止められない。もっとシンプルに人生を楽しんでスパっと死ねればいいのにね。

 ところで「古寺行こう」シリーズは全部で40巻も出るらしい。マズいなぁと思った。この先、衝動買いを回避できるだろうか?無理だろうなぁ。このまま小学館の思うつぼにハマって行くのかな?

古都に佇むあの仏像たちの表情の向こう側に、かの人の死を思い出に留めたいという古人の情熱と願いを、僕たちは静かに見ている。それがどこかの小さな家の書斎の、本棚に並べられた書籍の一冊の一枚の写真であってもだ。

僕は椅子に座って一人の時間を過ごし、手にした雑誌の写真を静かな気持ちで見ている。

 

 

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神保町の古本屋とドストエフスキーとベルジャーエフとソロヴィヨフのこと

 子供のころから本が大好きで、図書館が小学生時代の僕のお気に入りの場所だった。そしてそのまま大人になり、読書好きは大学生の頃にMAXを迎えた。当時はヘビースモーカーだったから(その後やめたけど)、セブンスターをスパスパ吸いながら一晩中、煙でモヤのかかった部屋で本を読み、朝になっても読み、そのまま昼前まで読み続けて、疲れて机の上でうつ伏せになって眠り、目が覚めたら日が暮れていた。電気をつけ、カップラーメンをすすったら、また煙草に火をつけて本を読み始める。そんな感じだった。

 今は仕事で疲れた目を休めたいのと(会議までTeamsになったので、ずっとPCのディスプレイを見続けている)、老眼がひどくなって来たせいで全然本を読まなくなったが、人生をちょっと無駄にしているかも、なんてまた最近は思い始めた。本は人生を豊かにする、というのは古今東西、世界中で言われて来たことだ。

 読書好きがピークだったそんな大学生時代、僕は他の本好きの例に漏れず、古本屋めぐりをしょっちゅう楽しんだ。なんせ時間はたっぷりある大学生だ。一週間近くをぶっ通しで神保町に通って過ごすこともあった。サイコーに幸せな時間だ。

 古本屋というのは一軒一軒に個性があって、店主のこだわりが見え隠れする。それがまた楽しい。なぜか店の一角にガラスケースが置いてあって、骨董の能面が並べられて売られていることもある。そんなのもまた面白い。ありゃなんだろ?

今はどうか知らないけど、神保町の古本屋街は雑居ビルと雑居ビルが細い通路でつながっていて、まさに古書のハシゴが出来た。売る気があるのかないのかよく分からないような乱雑な積み上げ方で、通路狭しと茶色く焼けた古本が並べてあり、その隙間を次の店、次の店へと渡って行く感じだ。本当にワクワクして飽きなかった。

当時、ドストエフスキーが大好きで、もちろん本人の小説は全部読んだ上で読むものが無くなって、ベルジャーエフとかソロヴィヨフとかその周辺の思想家の本も読み漁っていた。思春期以降ハマっていた昭和文学や英米文学を経て、最終的にロシア文学が大好きだった頃の話だ。

そしてその本は、一軒の雑居ビルに入っていた薄暗い古本屋で見つけた。山積みに置かれた古本たちの隙間に表題が見え、僕はそれを取り出すのに、いったん手前のいくつかの本を横にどけてから手に取った。奇跡の出会いだ。古本屋で買った本は、すべてその人にとって奇跡の出会いとなる。後で思い出してみても、よくあんな場所からこれを見つけたな、って思うからだ。

表題は「ドストエフスキーの世界観」という書籍で、昭和30年に第三版が発行されたベルジャーエフの評論だった。

もちろん、例によって、僕は自分の部屋でセッタ(セブンスター)をスパスパ吸って中身を読みながら、この偏狭だがズバ抜けてものが深く見えてしまっているロシア男の一言一句に感嘆していたけど、その古本の特徴は、おそらく最初に買った人が書き込んだであろう線があっちこっちにたくさん引いてある事で、それが物凄く面白く感じた。前の持ち主がどの部分に興味を持ったのか、要するに「心に刺さった」のか知るのは面白いものだ。

ああ、なるほどね、そこにグサッと来たんだね、という場合もあれば、なんでこんな所にこの人は二重線を引いているんだろ?と首をかしげる場合もある。いずれにせよ、それまでその本を手に取った人々とそんな風に対話できるのも、古本を読む楽しみの一つだった。

ちなみに、この本の後ろには、これを買った人が書いたと思われる文字が記載されている。「1956.12.25.東京 日本橋丸善にて」ってカッコいい筆跡だ。

1956年と言えばジェームズ・ディーンが死に、ワルシャワ条約機構が結ばれた年だ。

ワルシャワ条約機構だなんて、今の世界情勢を考えると、おいおい、本質は何にも変わらないんだねって思う。

ネットで「戦後」「丸善」「日本橋」を並べて画像で検索すると、今はない立派なビルと、白黒写真に写る集団就職でやって来た金の卵たち(若者たち)、彼らが希望と夢を胸に働き、いずれ手にする三種の神器が次々と現れる。

いったん焼け野原になって、そこから若者たちが上を目指して頑張り始めた栄光の時期に、日本橋の丸善でこの本を買った人がいるんだ、という感慨にふける。

若者たちは毎日一生懸命働き、一日一日が豊かに変化して行き、頑張れば頑張るだけ報われると、信じるに値する日々を生きていた。僕が生まれる遥か大昔の話だけど、羨ましい限りの時代だ。僕が生まれたころ、この国は改めて資源問題にぶち当たり、緩やかに坂を下り始めた。

 さて、この古本は「パンセ書院」という出版社が発行しているが(たぶん今はない)、思想書の翻訳が多く、裏表紙に不思議なイラストが載っている。

何だろう?女性らしき人が松明か紐をくくりつけた棒か何かを持って、走っている。走るというより何だか駆け上がって行くような姿だ。

 きっと出版社を興した誰かの思いが込められているんだろな、って想像しながら、そしてその思いはきっと希望に満ちたものだったのだろうな、なんて空想しながら、書斎で時々手に取って、その不思議な姿を眺めている。

そう、希望はあるということだ。

それは人間の変わらない本質のどうしようもなさの一方で、焼け野原からでも灯(ともしび)を見つけ駆け上がって行ける人間の明るさが確かにあるということだ。僕たちはずっとニュースで、誰かの悲しい姿を見続けている。泣き叫び、これからも誰かが泣き叫び続ける。でもきっと希望はあるということ。

 64年前に誰かが日本橋へ行って、丸善ビルに入り、この本を手に取って買った。

東京が焼け野原になって10年くらいしかたっていないあの時代に、誰かが世界の何かの真理を求めて、希望を胸にこの本を買ったのである。

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アラン・シリトーの「長距離走者の孤独」はランボーの「永遠」という一編の詩に帰結し、地方都市の若者は東京を目指す

 ストーリーの中身そのものというより、文体の美しさとか躍動感でどんどん読み手をその世界観へ引き込んで行く、そんな小説がある。

昭和文学でいうところの谷崎潤一郎であれば「母を恋ふる記」という作品なんて、ようするに自分が見た夢の話をタラタラ書いただけなのに、それはもう驚くほど美しい文体であり、切ない一個の叙事詩になっている。ストーリーそのものに特に工夫はない。ただただ文体の美しさの中に読者は吸い込まれて行くのである。

 その点、「疾走感」というコトバがぴったりの文体で書かれているのが、アラン・シリトーの「長距離走者の孤独」という短編である。長距離走者の話で疾走感なんて、まるでウクレレを弾きながら「ハワイの夕暮れ」という題名の曲を演奏するようなもので、そのままじゃん、と言われれればその通りなのだが、その瑞々しい文体は英語の原文を読んでも主人公の焦燥感や息使いまでが伝わって来そうな迫力をもって、非常に読後感が気持ちいいのである。

 窃盗の罪で感化院(少年院)に入ったスミスが、院内のクロスカントリーの選手に抜擢されトレーニングに打ち込み始める。院長の大きな期待を受けながら院の代表として競技大会に参加し、2位以下を大きく引き離してゴールまで近づくのだが・・・・そんなストーリーだ。

 10代の少年の反抗的でパンクな精神は「疾走感」というテーマとよく似合い、これまでもいろんな形で表現されて来た。が、尾崎豊とかホットロードとかは10代の少年少女がやるから様(さま)になるのである。オジサンが疾走感をやると、現実には現実から逃げ出した、だからと言ってそこに瑞々しい反抗心とか壊れそうな繊細な不安とかがもう残っている訳でもない(年を取って面の皮が厚くなっているので)、ちょっと薄汚れたプライドがそこに見え隠れしているだけである。なので、映画の「ライフ」(監督+主演 ベン・ステイラー)みたいなファンタジーや、ミスチルの「くるみ」のMVみたいな名曲に乗ってこそ初めて人様(ひとさま)に受け入れられるのであり、もし現実でオジサンがこの「疾走感」をやると、「あぁ、会社がホントに嫌だったんだね、逃げたかったんだね」くらいの残念な扱いで終わる。まったく小説にも曲にもならない。

 ところで、疾走感の行き着く先はいったいどこだったのだろうか?

 結局、若者だった僕たちはそこに到達したのか?

 もう何もいらない、迷いも不安も抱えながら幾夜も乗り越え、僕たちはただ光を放つ方向へ向かって走って行く、なんて類(たぐい)のティーンエイジャーの疾走感は、もっと古いところでは、ランボーの詩集でも味わえるし、有名な「永遠」という彼の一編の詩は、いわば若者が疾走した最後に行き着くゴールを示したような陶酔感の極みだ。

なので、高校生だった僕は、ランボーの文庫版詩集か、それともこのシリトーの「長距離走者の孤独」の文庫をジーンズの後ろのポケットに入れて持ち歩き、授業中、または授業をサボってやって来た映画館のロビー、なんとなく電車に乗ってずっと乗り続けてたどり着いたよく知らない山奥の駅舎のベンチなんかで、繰り返し読んでいた。

あるいは昼休みの学校の中庭で独りで、図書館の隅の夕暮れに照らされた窓辺の椅子に座って独りで、その疾走感を繰り返して読んでいた。カバーがボロボロになり裏からテープで貼って、それでもなぜか縋り(すがり)付くように繰り返し読んだ。

若かったんだね。結局、どこに辿り着いたのか?

 覚えていない、というのが正直な感想だ。高校生だった僕は、午後の数学の授業をサボって駅に向かい、電車に乗って、乗り継いで、夕暮れが迫っても乗り続け、いつの間にか窓の外は真っ暗だった。乗客は向こうの座席に一人、老人が座っているだけで、電車は闇の中を静かに走り続けていた。

衝動的になんとなく降りた駅は無人だった。しまったと思ったけどもう遅い。夏の蒸し暑い風が顔に当たって不快だった。自動販売機さえないぞ。僕は駅の反対側のホームへ歩いて行き、時刻表を見たら次の電車が1時間後にしか来ないことを知る。駅の周りは何もなく、林の中にポツンと駅舎があるようなそんな場所だった。ベンチに腰掛け、ポケットから文庫本を取り出し、また読み始める。そうそう、この「長距離走者の孤独」は短編集で、他にもイングランドの場末感のあるさまざまな舞台で、人々の暮らしや人生が魅力あるストーリーとして語られ、何回読んでも飽きないのだ。

 そしてふと目を上げると、プラットホームの天井の蛍光灯に夏の虫たちがたくさん集まり、競って回転し、ぶつかり、ホームの上に落ちて、くるくる転がっていた。なんということはない、恐ろしく平凡な行動で、光の周りを群れをなして回転して飛んで、次々と落ちていた。僕の足元にそのうちの一匹が転がって来る。たくさんの虫たちの中の平凡な一匹が、大量生産されて生きて来た虫たちの中の平凡な一匹が、こうやって疲れて地面に落ちて、苦しみながら地面を転がっている。そしていつか動かなくなり死んで、亡骸は風に飛ばされ線路に落ちて、粉々に轢かれ、土に帰る。僕はじっとその虫を見ていた。薄暗い駅のホームのベンチに座って、目の前で回転するその平凡な虫を見ていた。そして、あぁこんな田舎で年をとって死んでいくのは嫌だな、東京へ行こう、って思った。

 という、ありがちな地方都市の青春の一幕である。今はもうその駅は閉鎖されツタに覆われ、電車は通過するだけだ。でも今日もどこかでどこかのティーンエイジャーが、そんな決意を胸に都会へ、そしてこの古く腐っていく国の外へ、いつかは飛び出していくんだろな、なんて想像しながら車窓の外を眺めている。

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ハイラインの「宇宙の戦士」で学生寮の生活を思い出し、そのあとのサラリーマン生活の修羅場を思い出した

 子供のころから乱読するタイプで、SFも結構読んだ。もちろんジュール・ベルヌの作品群は小学生だった僕の経典だ。生まれて初めて自分のお小遣いで買ったハードカバーの書籍が「二年間の休暇」だったし、これがあんまりお気に入りの物語だったので、何回も読んだ挙句、自分で原稿用紙に同じようなストーリー(無人島に流された少年が冒険するお話)を書き始めたくらいだ。小学生の頃の僕の夢は、小説家になることだった。

 そして兄貴のすすめで読んでいた作家の1人にハイラインがいる。ロバート・A・ハイライン、右翼と言われつつも「2001年宇宙の旅」を書いたアーサー・C・クラークたちと並んでSF界のビッグスリーと呼ばれたその人だ。

 ハイラインの小説のうち、日本では「夏への扉」が大人気で、最近でも邦画として映画化されていたと思うが、僕はやはり「宇宙の戦士」こそが一番面白いと思っていた。そしてまさに、この小説のおかげでハイラインは右翼のレッテルを貼られ続けた。

 豊かな家庭に育った主人公のジョニーが、軍隊に入って教育を受け、クモに似た宇宙生物と戦うというシンプルな話だが、軍隊生活での紆余曲折、ティーンエイジャーらしい悩み、友情や恋や家族との別れの中で少しずつ成長し、やがて立派な軍人になって活躍して行くお話である。

 中でもジョニーと歴史哲学の先生、デュボア先生とのやりとりが卓越していて、というか気持ちいいくらい右側に偏っていて、正しいとか間違っているとかじゃなく、ギリシア哲学以降、何回も議論されて来た「市民の権利と義務」のあり方が、暴力と道徳の関係を踏まえながら議論されて行く。

 暴力に社会の問題や個人の道徳問題を解決する効用があることは、ある程度、社会生活を送っていたら分かる。経済活動だって同じだ。富の奪い合いを、種が絶滅しない程度にルールを作って、いろんな形でやるのが外交であり、それに基づいて実際の奪い合いを実行するのがビジネスだ。そしてこの「いろんな形」の本質は暴力=力で解決、である。訴訟を使ってもいい、人権問題を利用してもいい、密室での交渉という方法を選んでもいい、民間のさらにもっとミクロな次元では、パワハラにならないよう言葉を選びながら(新しい時代のルールに従いながら)、上司は部下に罪悪感を持たせ、死に物狂いで結果を出させようとする。これが経済活動の本質である。空爆することも、殴ることも、言葉で罵倒することも、「論理的に」説得し指示することも、雇用の不安を煽って黙らせることも、要するに力で相手を動かす、ということである。そして、人間の活動、特に組織的な経済活動のど真ん中に、この暴力は居座り続けて来たし、これからも居座り続ける。だって、原始時代から人は、食料を手に入れるために暴力を使い続けて来た。対象が動物から貯蓄が可能な穀物へ、手段が小規模集団の活動から国家という大規模組織の活動へ、ツールが槍や弓から核爆弾へ、少しずつ変遷して行ったに過ぎない。

 という訳で、要するに「なんだかんだ言って暴力=力で解決、っていうのが世の中のルールである以上、それを否定した無菌教育なんてしたって、実際の世の中で通用しないから、次々と落伍者が出る=その社会は没落し、逆に肯定した教育を推し進める社会は強い戦士をたくさん生み出す=その社会は勃興する、ってことだよね」というお話を、SF小説を通して語っているのがこの「宇宙の戦士」だ。

 昭和の時代になんとかヨットスクール事件というのもあったし、今だって体育会系のシゴキが幅をきかせ、なんだかんだ言ってそういうのを経験して耐性のある連中が「組織」を動かして行く。上下関係?そりゃ身に付いていた方が組織ではやりやすいでしょ。最近はビジネスの環境もだいぶ変わって、組織の倫理や価値観も変わって、体育会馬鹿では通用しなくなったと言われているけど、それはあくまで中間管理職以下の表面的な話であり、コトが経営の根幹に関わる重大事になると(例えば損害が半端ない、逸失利益が半端ない、なんて状況)、業種がITだろうが何だろうが現代のジェントルマンよろしく経営陣の顔つきは、あっという間に昭和の顔つきに戻り、役員室のドアは閉じられ、ソファーに座らされ、密室の中で「宇宙の戦士」が始まる。ひぇ~・・・・でも現実はそんなもんだ。

 学生時代、かつてはGHQに接収されたこともある古い鉄筋の建物が寄宿舎になっていて、僕はそこに住んでいた。20畳の3人部屋で、上級生が「室長(しつちょう)」をやる一方、新入生である1年生は「室僕(しつぼく)」という刑務所で使いそうな名前で呼ばれ、同じ部屋に住む先輩方に徹底して尽くさなければならなかった。お茶を出す、前を横切る時は1日何百回でも「失礼します」を言う。部屋を出る時も入ってくる時も、廊下で向こうの方に姿が見えた時も、トイレのドアを開けて顔を合わせた時も、必ず「こんにちは。失礼します」を繰り返す。ちょとでも言い忘れたり粗相(そそう)したなら、その場で怒鳴られ、怒られ、許してもらえるまで「失礼しました」を大声で叫び頭を下げ続けなければならない。体育会の連中が「アソコはさすがにヤバい。キツ過ぎ。」と評していたような、きっつい上下関係がまかり通る寄宿舎だったけど、そこで無事に生き残れば、朝飯+夕飯つき、お風呂も共同だけど入れて、それで1か月を2万5千円で暮らせた。地方から出てきた貧乏学生には夢のような場所だったのである。先輩は無茶苦茶怖いけど、バイトで稼いだお金のかなりの余力を使って、女の子と遊べる。学費は奨学金で乗り切ればいい。

 今となっては全部が懐かしい思い出だ。ありきたりな友情物語もある。ジョニーが軍隊生活で体験したように、20歳前後の体験は、どんな環境だって、どんな厳しさだって、どんな惨めさだって良き思い出になるのである。あそこで味わったほどの罵倒は社会人になってから1度もなかったし、社会に出た時点で既に「面の皮(つらのかわ)が厚くなっている」状態は、それだけでアドバンテージだった。

 久しぶりに書斎を整理していて、背表紙がボロボロになった「宇宙の戦士」を見つけ、なんとなくパラパラめくっているうちに、これを熱中して読んでいた子供時代、それから学生寮で徹底的に上下関係を叩き込まれた記憶、その後のサラリーマン生活で時々味わった「暴力=力で解決」の修羅場の数々、なんかを思い出した。

 暴力を肯定しようと否定しようと、受け入れようと受け入れまいと、それが目に見える形で分かりやすく表現されていようと、見えにくくオブラートに包まれていようと、それを受け入れて社会に適用しようと、それを否定して社会を変えようと努力しようと、人間は食べていくために常に新しい形で暴力を使い続ける。形が変わって行くだけだ。手にした槍を獣(けもの)の体躯に突き刺し血潮を浴びていた時代から、何一つ変わっていないのである。

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ミラン・クンデラの恋愛小説を通して愛を考える

 いろんな作家に影響を受け、いわゆるハマって来たけど、学生時代に大好きだったのはミラン・クンデラとドストエフスキーだった。ドストエフスキーは卒論のテーマにした。 ミラン・クンデラ は卒業してからも繰り返し読み、まだ読んでいるから、よっぽど好きなんだろう。思想として読むことも評論として読むことも出来るその作品は、でもやっぱり瑞々しい文体とおしゃれなストーリー展開で、芸術文学としての意味合いが僕にとっては強い。ハードカバーの背表紙のイラストがどの作品もこれまたおしゃれで、本棚に並ぶそれらの本は何だか画集みたいだ。

 初めて ミラン・クンデラ の作品で読んだのは「存在の耐えられない軽さ」だった。映画化されたからすごく有名だし、ベタといえばベタだけど、僕もこの作品から始まってそのあとどっぷり彼の世界に浸かった。

 7部に分かれるこの物語は冷戦時代のプラハを舞台に繰り広げられる恋愛ストーリーだが、哲学的思考を行ったり来たりしながら、複数の魅力的な登場人物がそれぞれの信条に従って相手を愛し、相手を捨てる。第Ⅲ部の「理解されなかったことば」はこのそれぞれの信条の違いから生じる言葉が持つ意味の違いやズレを、小辞典形式で説明して行く。いきなり小辞典形式で、それぞれの登場人物にとって「音楽」「女」「墓地」「力」といった言葉がどういう意味を持つのか、何が致命的に違うのか、解き明かして行く。 ミラン・クンデラ の小説はいつも形式にとらわれず自由に活き活きと話が広がって行き、しかも文体は常に瑞々しい。二十歳前後の僕はすっかり虜になってしまった。

 いろいろとその魅力をテーマを挙げながら紹介して行くと、本当に無尽蔵でキリがないのだけど、この作品で僕が一番そのあとの人生でも影響を受けたのは、カレーニンという主人公夫婦が飼っていた犬が最後を迎えるシーンで、人間の愛と犬の愛を比較している場面である。愛するという行為を、人間は犬のように輪のように繰り返して行くことが出来ない。人間は時間を一方向に決められた直線として生きているので、愛するという行為も同じような情熱で繰り返すことなど出来ず、一方向へ向かって走り続けて行くうちに、あんなに新鮮で魅力的だった仕草も、あんなに大切に思えた寝顔も、いずれ色あせ心の外へ徐々に追いやられて行く。魂は別の新しい刺激を必要とする。一方、犬の愛は輪のように繰り返し変わることはない。すっかり年を取ってくたびれ、家族からも軽んじられるようになってしまったお父ちゃんが家に帰って来れば、玄関で愛犬は変わらない愛情で尻尾を振り、全力で喜びを表現して出迎えてくれる。これはその愛犬が最後を迎えるまで続けられる。一方で人間の愛は、同じ熱量で繰り返されることはなく、脳みその構造上それは不可能で、従い人間は愛に関しては幸福になれない。

 学生だった僕は当時、人間機械論の魅力に取りつかれ、文系のくせに脳科学の最新知識とかが素人に分かりやすく書かれている書籍を読み漁っていた。なんだ、哲学だ心理学だ愛情だ宗教だとか言ったって、結局、人間の人生も価値も全て、脳みその刺激に対する反応が生み出だしたものでしかないじゃん、なんてちょっと世の中や人間を分かったような気になって、今思うと、いかにも若造(わかぞう)が陥りがちな勘違いだけど、とにかく「どんなにいいと思っても、感動しても、美しいと思っても、好きだと思っても、繰り返すと飽きるよね。残念だよね。古いものは捨て、また新しい刺激を求めて繰り返すんだから、人間が生きるって、しょうもない化学反応の積み重ねでしかないよね」みたいな事をまくしたてていた。しょうもない若造である。

 その後、長々と生きているうちに、経験を積み、父親の死もあり、自分の肉体的な劣化や気持ちの老いもあり、自分自身の価値観の緩やかな変化を受け入れ、世の中にカレーニンがいることも知った。そして自身もカレーニンになれることを知った。簡単な話だ。愛することは、愛する側の自分自身が変化して行くことで、新しい意味を持ち、それを続けて行けるという自然の摂理を、これも脳みその化学反応の一つとして受け入れたのである。だから僕たちは、大切な人を、若かったころに愛したやり方とは別のやり方と感じ方で、愛し続けることができる。朝、目が覚めて、小皺の増えた寝顔を撫でながら、おでこにチュッとする時の感情は、肉体が若かったころの自分の激しい欲動とは全く無縁だけど、確かな気持ちとして自分で感じ取れる。相手は自分にとって本当に大切な人なのだ。カレーニンのように、輪のように、人は人を愛することが出来る。

 これは愛に関するこの小説のテーマの一つだ。こういう類のアイデアや人生のヒントや面白さの味わいが、この小説にはいっぱい詰まっていて、僕はボロボロになった背表紙を裏側からセロテープで補強しながら、いまだに旅行先なんかに持って行って、繰り返し読んでいる。年をとって読み返すことで、新しい発見や感動がまだいくらでも出てくるのが名著であり、自分の人生に影響を与えた小説だ。

 これだから読書はやめられない。

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ロスジェネ読書論(仕事探しの息抜きに)

夏休みの読書の思い出と、あの贅沢だった時間について

 子供のころの夏休みの楽しみの一つが、「○○文庫の100冊」といった類の各出版社から夏に出される小冊子を書店からもらって来ることだった。カラフルでおしゃれなイラストがいっぱいのその冊子を何度も眺め、自分のまだ読んだことのない本の紹介文を読みながら、いろいろ想像した。

 80年代、僕は小学生だった。紳士服の仕立屋だった父親は既製品の勢いに押されてどんどん仕事がなくなり、僕たち一家は借家を転々として暮らしていた。めっぽう貧しかったけど家族は仲が良く、お金がなかったけど子供の僕はお金がかからない楽しみ(書店からタダの小冊子をもらってくるとか)をたくさん見つけ遊んでいた。

 それでもやっぱり、小冊子を見ているうちに欲しくなった文庫に赤マジックで丸をつけ、貯金箱のお金を何度も取り出しては、買うべきか買わざるべきか悩むこともあった。小冊子で初めて知った作家たちの小説は、きっと僕を新しい世界に引きずり込み虜(とりこ)にするに違いなかった。

 当時、バブルが始まったばかりだった。近所の畑がどんどん売られてマンションに代わり、同じ町内の同級生のヨシキのお父さんがベンツに乗り換え、夏休みの終わりに家族で海外旅行に行って来たという証拠の土産を近所から貰うことが多かった。古い家は壊されてこぎれいな別の建物に生まれ変わり、それでも僕たちの家のようにひっそり暮らす人たちの借家街はそのまま取り残され、あるいは頑固な老人が営む小物屋の古い建物も取り残され、そんな取り残された建屋の一つに、大昔からそこでやっていた養鶏場があった。

 母親が家政婦として働いていた通りの向こうのお金持ちの老夫婦の家に、その養鶏場から産みたての新鮮な卵を持って行くのが僕の仕事だった。自転車に乗って1㎏分の卵を養鶏場へ買いに行き、もみ殻を敷き詰めたダンボールにまだ温かい卵を一つひとつ乗せてもらって、自転車の後部座席に積み、ゴム紐で縛って、老夫婦の家に向かった。

 老夫婦のお爺さんの方は昔の青年将校だったらしく、カクシャクとした人だった。優しい人だったけど体が大きくて、少し怖かった。僕は卵の入ったダンボールをそのお爺さんに手渡し、卵の代金と数百円のお駄賃を受け取ってそのまま書店へ向かった。

 当時、文庫の中には200円以下のものも結構あったはずだ。ディケンズのクリスマスキャロルもそうだったし、ジキル博士とハイド氏もたぶん百円玉2枚で買えた。新潮文庫のディケンズの作品の表紙はとてもお洒落で、いつか全部読んで集めてやろうと思ったくらいだ。

 夏の書店はたいていキンキンに冷房が効いていて、何時間でもそこで過ごしていられた。そして実際に過ごした。僕はさんざん迷ったあげく、長い夏休みのあと残りで買わなきゃいけない諸費用も考慮して、200円で買えるという理由だけでソール・ベローの「この日をつかめ」を買った。レジのおじさんに「難しい本を読むんだね」と言われたのを覚えている。

 そう、小学生の僕に、「この日をつかめ」のテーマになっていた離婚とか投資とかの話が分かるわけなく、内容が難しかったし、最終的な感想は「お金のないアメリカ人のお話かぁ」でおしまいだったけど、新品の書籍の紙の香りを思い切り味わい、そのあと自分の机で読んでいるうちに内容に没頭し、母親が夕食の時間を告げに呼びに来た時には、今いつの時代のどこの国にいて自分が誰だったか思い出すのに一瞬時間がかかった。子供時代の読書は、自分が日本人の子供だったことも一瞬忘れるくらい、心をその世界の中へ引きずり込んで行くものだった。今思うと贅沢な時間だ。今じゃ自分が普通の日本人のオジサンだと一瞬忘れるのは、海外出張中にキツイ酒を飲まされてベロベロに酔っぱらってしまった時くらいなものである。

自分を忘れて無くなってしまえるほど没頭できる時間。なんて幸せな時間だったんだろうか。

僕は夕食をそそくさと食べ終えると、お風呂に入り、カルピスを飲みながら自分の机に座って、さっきの続きを読み始めた。蚊取り線香の香りと、父親のミシンの音と、カルピスの氷が溶けてガラスコップの縁(ふち)に当たりカランと鳴る音が、全部セットになって、僕の夏休みの読書の思い出として記憶に残っているのだ。

 今年も夏の100冊は書店に並んでいた。中身をパラパラと見てみたら、子供時代の内容とずいぶん変わっていた。キクチカンって今の子供はもう知らないのかな?昭和初期の文学はテーマが普遍的で文体に迫力があって、今でも魅力的だと思うんだけどなぁ、なんてちょっと寂しい思いもしながら、僕は書店を後にした。

 80年代のあの夏の光の中で、少年だった僕は100円玉を握りしめて書店に向かい、自転車を漕いでいる。