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ロスジェネ旅行論(仕事探しを少し離れて)

嬬恋再訪で、父親の思い出とキャベツ畑の記憶の為に、軽井沢でペイネのグラスを買った

 秋の初めに嬬恋へ行った。再訪である。浅間山の麓(ふもと)一帯に広がるキャベツ畑を観たいと思っていたのだ。

夏前に初めて行った時はまだ時期が早過ぎた。キャベツは芽が出始めたところだった。でも、もしこれが全部丸いキャベツとして成長したら、きっとすんごい景色なんだろうな、いつか絶対に観に来たいな、なんて思っていたから、ついに念願がかなったのである。

で、実際に目の当たりにしたけど、こりゃ有名になるだけあると思った。広大な畑に緑色のキャベツたちが延々と育っていた。その向こうに浅間山と高い秋空が広がり、まさに壮観である。

僕たちは車に乗って、どこまでも続くキャベツ畑の間を走り抜けた。美しい景観だった。最高のドライブコースだ。何度も行ったり来たりし、「愛妻の丘」でおにぎりを食べ、また走り出した。ずっと走っていたい風景だった。

 その昔、ヤマトタケルが東国征伐に行く途上、海上で暴風雨に遭った。船はうねりに飲み込まれ、岸辺に戻ることさえ出来ないひどい嵐だった。同行していたヤマトタケルの妻は、戦(いくさ)に女である自分が付いて来てしまったので、きっと海の神が怒っているのだと考え、沈みそうになるその船から荒れ狂う海に身を投げた。結果、海は嘘のように静まった。ヤマトタケルは無事に東国に到着し、その後、あまたの豪族たちを打ち負かし、伝説を作り、無事に都への帰途についた。

そうして浅間山の麓に来た時、空を見上げたヤマトタケルはふと、自分を想って身を挺したあの妻の事を思い出した。急にたまらなく恋しくなって、「あぁ、我が妻よ!」と泣き叫んだ。

そこから嬬恋のある「吾妻(あがつま)郡」や「嬬恋(つまこい)」の地名が生まれた、という事らしい。

なるほどねぇ、なんて、延々と続くキャベツ畑を横目に、僕はハンドルを握っている。ヤマトタケルがほとんど神話の人物であり、実在したかどうかはともかく、少なくとも、仕事はバリバリ出来たが、男としては平凡な人だったんだろね、って考えてしまうのだ。一人の平凡な男として、だろうね、って思うのである。

若者から脱皮して以降、仕事の面白さが分かり始めると、ベテランの一人としてある程度の役割を任され、或いは担い、さらに面白くなって、生活や価値観の中心にシゴトを据えてしまうのはよくある事だ。仕事に没頭しているその間、他のこと、例えば家族や友人や自分の趣味でさえ、二の次になるというのは、一種の幼児性であり、男が陥りがちな、どうしようもなさでもある。本人にとっては、妻も子供も実は人生の副次的な産物に過ぎず、シゴトに、もっと厳密に言うと「シゴトが出来る自分に」夢中になってしまうのである。妻の小言を聞いている間も、子供と一緒に遊んでやっている間も、頭の中は仕事のことでいっぱいで、どうやって結果を出してやろうか、そんな事をずっと考えている。

で、そんなのは所詮、バランスを欠いた幼児性でしかないから、仕事が一段落したりとか、転職や部署移動で新しいステップに移る直前のエポックに入った時とかに、急にふと我に返るのだ。

アレ?いつの間にか自分は独りで立っているぞ、あんなに自分に向かって笑顔で話しかけてくれていた、そしてその時はちょっと自分は億劫だと思っていた妻や子供たちは、もうそこにいない。いても既に心を閉ざしていて、こちらを見てくれない。全然話しかけて来ない。こちらから話しかけてみると、かつて自分が面倒だと感じていたように、妻や子供たちは露骨に面倒くさそうな態度を取るばかりだ。

アレ?なんでこんなことに?と気づいた時には既に遅く、あとは寂しい思いのまま、仕事に没頭し続け、それで結果が出続ければいいけど、どこかで頭打ちになって自分の限界を知ってしまうと、その後は「シゴトが出来る自分」さえ感じることも出来ず、家では誰も話しかけて来ず、茫洋(ぼうよう)と生きて行く。バランスを欠いたかつての幼児性の罰を受けるのだ。組織にとっても、誰かにとっても、それほど重要な存在ではない。平凡な男の人生の、平凡な中年期が到来するのである。

 という古臭い生き方を否定し、奥さんや子供のために会社員生活を辞め、バンライフで日本一周したり、地方の田舎に移住して自給自足の生活をしたり、要するに「家族」の為に自分の時間(=命)を費やそうと覚悟を決めた若い男たちが、YouTubeで溢れかえっている。これも一つの世相だ。改造した車で寝起きし、焚火で沸かしたコーヒーをニコニコ笑って飲んでいる。みんな幸せそうだ。リモートワークで仕事しながらバンライフを楽しむ夫婦も多い。もはや、ヤマトタケル的な男の平凡さは、平凡ではなくなりつつあるのかもしれない。

 が、40年前の昭和の時代にあって、同世代の大半がモーレツ社員として「平凡な」男の生き方を選択していた頃、僕の父親は明らかに違う生き方を選択していた。生活のすべてを家族とともに過ごし、自分の好きなことに時間を費やし、仕事は二の次だった。まるでYouTubeに出て来る今の若いカップルの男のような、そんな生き方だった。

時代の先を行っていた?

いや、ちょっと風変わりな男だったのだ。

朝、といっても既に昼前になって、ようやく布団から出て来た父親は、台所で新聞を読みながら、何時間もかけて妻の作っておいてくれた朝ご飯を食べる。朝ご飯は、妻がパートに自分の昼ご飯として持って行ったお弁当のおかずの内容と一緒だ。ハンバーグもあれば煮物もある。食パンを焼いてジャムを塗ってサランラップに巻いてあったりもする。大好きな妻の手作りの料理が、彼はなんだって大好きだ。新聞を読みながら、ゆっくり味わって食べ、優雅な朝食の時間を過ごす。

昼頃、ようやく仕事部屋に向かって作業を始める。高級紳士服の仕立ての仕事だ。仕事部屋には隅の方に二つの勉強机が置いてあって、家の中では二人の息子たちはここで勉強したり遊んだりしている。大好きなジャズのナンバーをかけ、ハイライトをスパスパ吸い、裁断ばさみを手に腕前をふるう。腕前はコンクールで表彰されたくらいいい。そしてちょっと疲れたら台所に行って、近所からお裾分けでもらったお菓子か何か甘いものを口に放りこみ、めっぽう濃いコーヒーで流し込む。

で、そのまま仕事部屋に戻るのかと思いきや、自転車に乗って近所のホームセンターに向かう。下の息子が「ニワトリを家で飼って卵を産ませ、その産みたての卵を食べたい」と言っていたから、お手製のニワトリ小屋を作ってあげる予定なのだ。

ホームセンターで木材と、扉に使う蝶番(ちょうつがい)などの金具一式、それからニワトリがフンをしたら網目越しに下にポトリと落ちて、新聞紙を敷いた底の引き出しから簡単に取り出せる(簡単に掃除が出来る)ような工夫をするので、金網などの材料も買って、自転車の後ろの荷台に括り付け、帰って来る。一回では持って帰れないから、二往復して家に材料を揃える。

材料が揃ったら早速、大工仕事だ。大工仕事は子供の頃から大好きだ。ニワトリ小屋だって子供の頃自分で作ったし、それを今回、下の息子の為に作ってあげたいのだ。事前に鉛筆で書いた図面をもとに、ノコギリで木材を切り、釘を打って組立て行く。

夕方前までそうやって好きなことをしていると、上の息子が小学校から帰って来る。慌てて仕事部屋に戻り、仕事を再開だ。しつけ縫い作業の続きを始める。

上の息子は学校から帰って来ると、勉強机に向かって勉強を始めた。学校の宿題はすぐに終わらせてしまい、いつもやっている通信教育の算数と国語のドリルをやって、それを自分のところへ持ってくる。自分は仕事を中断し、手元の解答集を使って答え合わせし、間違ったところについては、解答集の解説を読みながら、間違いの理由と正しい解答を教えてあげる。上の息子は下の息子と違って本当に勉強が好きだ。一生懸命間違ったところの説明を聞いている。そしてその通信教育のドリルが終わると、今度は最近始めたNHKラジオの基礎英語を聴き始めた。そうやって夕ご飯までずっと何かの勉強しているのだ。

夕方になって、やっと下の息子が帰って来た。コイツはいつも、さんざん道草しながら小学校から帰ってくるから、こんな時間に家に着くのだ。上の息子と違ってあんまり勉強が好きじゃないから、家に帰ってからも、台所でお菓子を食って牛乳を飲んでダラダラやっている。お前もお兄ちゃんと一緒に勉強しなさい、と台所へ言いに行ったら、「ニワトリ小屋は?」と聞かれ、つい庭へ一緒に出てしまった。

下の息子が熱心に作りかけのニワトリ小屋を見ている。これからどんな風に完成させるのか、話してやると「いつできるのか?」と目を輝かせて聞いてくる。本当に楽しみで仕方ない様子だ。ニワトリは近所の養鶏場からひな鳥を分けてもらう予定である。この子は生き物が大好きだから、完成したニワトリ小屋で飼い始めたら、きっと本当に喜ぶんだろうな、なんて考える。

妻がパートから自転車で帰って来た。マズイ。昼間あんまり仕事しないで過ごしていたのがバレる。慌てて仕事部屋に戻り、仕事を再開する。妻が家の中に入って来た時には、まるで朝から一生懸命仕事し続けていたかのような様子で「おかえり」なんて言ってみる。下の息子も、さっきまで一緒に庭でニワトリ小屋の話をしていたのに、今はちゃっかり勉強机に座って、今まで勉強していたかのように振る舞い、妻に「お母さん、おかえり」なんて言っている。コイツはそういう奴だ。上の息子は無表情に、ずっと勉強机に向かって何かの勉強を続けている。

妻が庭に干してあった洗濯物を取り込んでたたみ終わると、自分は台所へ行って妻の為にお茶を入れてあげる。パートから帰って来た直後、夕ご飯を作る前のこのひと時が、彼女にとって1日で一番ホッとする大切な時間なのだ。お茶を入れてあげ、テーブルに向かい合って座り、妻の仕事場での愚痴をずっと聞いてあげる。自分は妻のことが大好きだ。この貧乏な借家暮らしにも文句を言わず、パートに出て家計を支え、子供たちにとってよき母親をやってくれている。そして何より美人だ。よく息子たちの前でも「君って美人だね」と言って怒られることがあるが、本当にそう思うからつい口にしてしまうのだ。

夕ご飯は家族全員で7時のニュースを見ながら食べる。アナウンサーのスーツの仕立てがカッコ悪いとプロらしく批判してみるが、家族は誰も反応しない。上の息子は黙って黙々と食べ、下の息子は料理の味付けが薄いと文句を言って妻に怒られている。

夕食後、8時くらいまでは子供たちと一緒にテレビを見ている。世界名作劇場とか、うる星やつらとか、要するにアニメを一緒に見る。これが結構面白い。月曜日は7時のニュースの代わりに北斗の拳を見る。

8時過ぎにお風呂に入って仕事部屋に向かう、ここからは比較的真面目に仕事する。洗い物を終えた妻がやって来てミシン縫いを手伝ってくれる。子供たちが勉強机で本を読んだりしているから、ジャズは聞かず、4人家族で同じ空間で黙々と時間を過ごす。

子供たちが寝室へ寝に行き、妻も寝に行く。もう12時前だ。カセットテープに録音した浪曲とか落語を小さな音で聞きながら、ハイライトをスパスパ吸って、マイペースに仕事する。家族は隣の部屋で眠っている。静かに夜はふけて行き、明け方まで黙々と仕事する。

そんな気ままな職人生活を長々やって、全然稼げず、バブルの真っただ中で失業し、もはや正社員として雇ってくれるところはなかったから、バイト生活を始めた。それまで職人として生きて来たプライドが打ち砕かれた部分もあったと思うが、だからと言って気持ちが荒れることはなかった。バイトから帰ってくると、子供たちの勉強の相手をし、相変わらず妻の為にお茶を入れた。父親にとってあくまで主軸は家族と自分の好きなことだったのである。一風変わった人だった。

 そこからさらに遡(さかのぼ)ること20数年前、日本が高度経済成長期に入ったころ、地方の農村で生まれ育った父親は、中学だけ卒業して地方の都市部に集団就職した。「かっこいいスーツを自分で作って着てみたい」という夢があったから、仕立て屋の職人に弟子入りし、兄弟子たちと一緒に寝起きしてひたすら修業した。

その数年後、修業を終えて独立すると、親類のおばさんが縁談を持ってきた。相手は自分が生まれ育った村の隣村の評判の娘だった。写真を見ると無茶苦茶かわいい。5人兄弟の一人娘で、大切に育てられたらしい。一張羅(いっちょうら)のスーツを着て、見合いすることにした。実際に会ってみたらホントに美人だった。しかも気立ても良さそうだった。結婚することにした。最初の子供は流産してしまったが、やがて長男が生まれ、次男が生まれた。

家で仕事し、家族とともに時間を過ごし、酒は飲まず、付き合いは一切せず、自分の好きなことをして、大好きな妻と子供と一緒に暮らし続けた。途中で仕事が無くなったが、バイト生活をしながら暮らし、そのうち成長した息子たちは順番に家を出て行き、そうして60歳になった時、肺に癌が見つかった。

 父親が癌で手術を受けた時、僕は群馬の工場で働いていた。20代の半ば過ぎだった。母親からの電話で手術の話を知り、しかも「メスで開いたが全身に癌は回っていて、もはや手遅れ」という話だった。僕は群馬の借り上げアパートの一室で号泣し、翌日、有休をもらって電車を乗り継ぎ、新幹線に乗って帰省した。

地元の病院に到着すると、すっかりやせ細った父親がそこにいた。僕は前日に一人で号泣しておいたから、冷静さを装うことが出来た。軽く右手を上げた。父親は不思議な表情でこちらを見ていた。

半日くらい病室でとりとめの無い会話をし、いよいよ帰る時間が来た。もうこの様子では、次に会うのは危篤状態になってからだと分かっていた。

「じゃぁ、行くよ」

「遠いところ悪かったな」

「うん」

「母さんを頼むぞ」

僕は振り向かずにそのまま病室を出て、階段を降り、病院を出て駅に向かって歩き出した。涙が止まらなかった。まだ20代半ば過ぎだった。何一つ親孝行していなかった。早過ぎる、という怒りがこみ上げていた。

「母さんを頼むぞ」

本人に告知はなかったが、先がない事は悟っていたのだろう。大好きで仕方ない妻と一緒に暮らし、その大好きな妻に看取られて死んでいく一人の男があそこにいた。

僕は電車に乗って群馬へ戻った。

 そんな群馬にある嬬恋村だ。僕は家人を助手席に乗せ、キャベツ畑の間を走り続けている。秋空はどこまでも青く、どこまでも高い。運転しながら、ずっと父親のことを考えていた。

 宿は前回と同じ旅館を予約して宿泊し、夕食に旬のキャベツ料理を腹いっぱい食べた。キャベツの冷静スープ、キャベツと豚肉の冷しゃぶ、回鍋肉など、全部が本当に美味しく、大満足だった。キャベツって本当に美味しい!

翌日、軽井沢を抜けて家路につくことにした。途中、ペイネ美術館へ立ち寄って作品を眺め、グラスをお土産に買った。ペイネは好きな人と長く長く一緒に暮らし、90歳まで生きたフランスの画家だ。「ペイネの恋人たち」というシリーズの作品をたくさん残していて、ほのぼのとした画風は見る者の心を本当に穏やかにする、そんな画家である。

 僕はめったに土産物を買わないが、グラスに刻まれたイラストがあまりにも魅力的で、父親の思い出と、今回の家人との嬬恋旅行の思い出と、キャベツ畑の記憶と、そして何より祈りを込めて、そのグラスを買った。

「あぁ、我が妻よ!」

ヤマトタケルの泣き叫ぶ声は、未来永劫(みらいえいごう)、どうしようもない男たちが放つ、哀しい咆哮(ほうこう)である。嬬恋(つまこい)なんてロマンチックな名前だけど、情けない男の姿が表裏一体となった、際どい名前だと思った。

秋の突き抜ける青空が、運転席の頭上いっぱいに広がっている。僕は平凡な男の一人として、ここで生きている。

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南国の人々の逞しさと生きる喜びは、きっと強い太陽の眼差しのおかげだと思った

 いきなり行けと言われてたった10日間で準備し、アセアンの工場へ飛び立った。そこからは毎日が仕事だ。朝から夜中まで、その生まれたての工場で、僕は現地のニューカマーたち相手に死に物狂いで働き、運用を立て直し、日本の部隊と会議を重ねて必要な技術支援を要請し、また現場へ走って、それは土曜日の深夜まで及んだ。日曜日はホテルの部屋から一歩も出ず、朝から晩までかけて報告書を作成し、また月曜日の朝がやって来る。そんな1か月だ。

 南国の人々は控えめで大人しく、一生懸命だった。この日本からやって来た丸い目の日本人の、いかにも日本人がやりそうな緻密な管理、細かいゴール(納期)の設定、整理し順序立てられたプロセスの指導に対し、最初は遠巻きに、少しずつほだされて自分たちなりにチャレンジを始め、褒められて、前のめりに頑張り始めた。

ウン、アジアの人々は、それぞれの国で組織の動かし方とか、大事にしていること、傷つけてはいけないこと、それぞれが違ったとしても、相手を想い一生懸命接すると、必ずそれぞれのスタイルでその一生懸命さが返って来る。

有難いな、なんて思いながら、朝晩の気温が5度くらいで「春はまだかい」の日本から、いきなり35度の常夏の国にやって来て、「おいおい、太陽が完全に夏の太陽じゃんか、冬からいきなり夏だなんて、こんなの付いて行けねぇよぉ、勘弁してくれよぉ」と初老になり始めた自分の身体が悲鳴を上げているのを感じていた。倒れてはならない。それは日本に帰ってからだ、なんて気持ちを張って、働き続ける。

 何百年もの間、白人たちの植民地だったその場所は、混血が進み、地元の血と白人の血と中華系の血と、要するに色々な顔や瞳の色、髪の毛の色、バラエティー豊かに混ざって、どの顔も日に焼け、いつも笑顔だった。他人を押しのけて上に立つ、という喧嘩も始まらず、仲良く頑張る。オリジナルに拘ったり誇りを持ったり、それらを守るためなら争いも厭わない、というのではなく、便利なら高いものを買わされようと買い、クールならそれが異国の文化でも従容として受け入れ、しかも楽しむ。だから使う側というより使われる側に立ちやすいけど、だからと言って卑屈になる訳でもなく、あるがままを受け入れ、神に感謝し、家族で支え合い、笑顔を絶やさない、そんな人々だ。

やれ民族の起源がなんだとか、誇りがなんだとか、国を豊かにするためにどうやって海外と戦うとか、そいういうのはあんまり向いていないので、気にしない。結果的に国の中は、すぐにそういうのに熱中して他を出し抜こうとする東アジアの連中(もちろん我々もその一種)の資本だらけだけど、別に気にしない。仕事がたくさんあれば、外資だろうと国内産業だろうと、助かるよね、それでお金が貰えれば、家族みんなでご飯が食べられる。そんな感覚だ。それは彼らの明るさでもあり、逞しさでもある。それ以上の幸せがどこにあるの?って具合だ。

 この逞しさ、決して無理に努力して獲得したものではない、あるがままの自然な彼らの逞しさは、いったいどこから来るんだろうか?熱帯気候が育む豊かな自然から?

そんなことをぼんやり考えながら、早朝にホテルに迎えに来た車に乗り、工場へ向かう途中の窓の外の風景を見ていた。

30年前に大噴火を起した火山が朝焼けの隣に姿を見せる。朝霧に包まれ、ふわっと宙に浮いているみたいで、雲の帽子をこれもまた頭の上に宙に浮かせ、茫洋と立ち現れている。

そう、今からまた夏の太陽を、熱気にあふれたあの光線の祝祭を、この草原に覆われた地面に、注ぎ始めるのだ。朝のそんな風景と、昼間にやって来るであろう強烈な太陽の光が、なんとなく想像の中で重なって、うん、きっと彼らのの優しさとか逞しさは、今から注がれるあの太陽の光のおかげなんだな、と思った。

日本からやって来た、疲れたサラリーマンのぼんやりした想像である。

バタイユは太陽の過剰なエネルギーが人を破壊行動に走らせると言ったし、カミユは小説の主人公に「太陽のせい」と言わせて罪を犯させた。が、そんなヨーロッパ人が考えそうな思想は、アジアにはない。そんなのは支配しに来た側の異質な感覚だ。

太陽は地元の人々の肌を焦がし、果物を甘く熟させ、豊かな穀物の実も実らせて、ついでに草原にいる獣たちを太らせ、今度はそれらを収穫した地元の人々が、皮を剥ぎ、肉を引き裂き、火であぶって、お腹一杯になるまで食べ、そのあと音楽に合わせてみんなで踊り、夜明けまで祝祭を続ける。そうしてまた朝が来て、霧の彼方から太陽が姿を再び現す。何百年も何千年も、仮に侵略者によって血も文化も変更させられる事があったとしても、太陽が光を注ぐ限り、彼らは暗く落ち込んで閉じ籠ったりなんかしない。恨み続けることもしない。毎日を楽しみ、味わい、逞しく楽しんで、生き伸びて行く。

 さて1か月ぶりに帰って来た日本は、やっぱり寒かった。袖の付け根が少し破れたダウンジャケットがスーツケースに入らず邪魔だったので、向こうでつい捨てたのが失敗だった。少々破けていようと、ちゃんと持って帰ればよかった・・・すんごく寒く感じる。また身体が「おいおい」と愚痴り始める。

あっという間の1か月だった。夢中で仕事し、彼らの笑顔に囲まれ、彼らの穏やかな情熱に火が付くよう、僕は全力で工夫した。

I hope things get back to normal soon・・・・

うん、大丈夫だよ。世界は決して元に戻らないけど、ひょっとしたら、もっともっと取り返しのつかない過ちを犯すかもしれないけど、でもきっと大丈夫。

太陽はこれからも貴方たちの小麦色の肌を焼き、貴方たちにおいしい果物を、そして丸々と豊かに太った豚や牛や鳥たちの肉を与え続け、貴方たちはそのまま自然にそれらを享受し、そのまま逞しく、笑顔で家族と太陽の贈り物を分かち合いながら、楽しく暮らして行けると思う。それは何百年も何千年も貴方たちが繰り返して来たことだ。たかだか100年ちょっとくらい前に世界の舞台に踊り出したサムライの緻密な技術を受け入れようと、或いは受け入れまいと、あまり関係はない。あなたたちは最初から人生の幸せを知っている勝者だから。

 シティホテルの狭い一室のガラス窓からは、足早に歩くスプリングコートの群れが見下ろせる。皆、静かで、表情なく、何も語らない。笑うこともないその群れが、都会のアスファルトの上を、駅に向かって黙々と歩いて行く。

ここはまだ、早春の日本だ。

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九州一周旅行の最期に機内で人生をしみじみ考え込んでしまったこと

 九州一周旅行はいよいよ終盤に入った。延岡の安いビジネスホテルを早朝に出発し、僕たちは高千穂に向かった。神が降臨したというあの高千穂だ。古代史が大好きな家人が、吉野ケ里遺跡に次いで楽しみにしている場所だった。

 高千穂は想像以上に山間にあって11月ということもあり、さすがに肌寒かった。実は4日前に博多空港に降り立った時から「やっぱ九州、暖かいや」と思っていたし、指宿ではなんだか秋の始めくらいの気候に感じたから、高千穂の冷たい空気が、ちょっとピリッと気を引き締めた。そうそう、ここは信仰の対象となる神聖な場所なんだ。

とはいえ、やはり僕たちは観光客なので、そそくさとボート乗り場に向かい、「よかったぁ、平日の早い時間なら並ばないってホントだったんだ」なんて思いながら、ボートに乗り込む。

漕ぎ出すとすぐに、テレビや雑誌で見るあの光景が向こう側に見えてきた。大興奮だ。でもここは神聖な場所だから大はしゃぎしてはいけない。

とはいえ、やっぱり僕たちは観光客だし、こんなボートに乗っているので、ついつい嬉しくなって、やれちゃんと漕げとか、やれ方向が違うとか家人に怒られながらも、写真をパシャパシャ撮り始めた。上から流れ落ちる水しぶきは清々しく、美しく、本当にこんな風に神々しい光景を間近で見させてもらえるなんて、大感謝だ。

本当に美しい。こりゃ降臨をイメージするのは当たり前だ。しばらく行ったり来たりして水上から景観を楽しんだ。

僕たちはそのあと、そのまま阿蘇に向かった。阿蘇の雄大な姿を横目で眺めて運転していたらもうお昼前で、お腹がすいてきた。そういや朝から何にも食べていないや。と思い、通りすがりに見つけた美味しそうなお店の「田楽」という看板の文字に吸い寄せられるように車を駐車し、中に入って行った。

中は広くて立派なお店だった。すごく楽しみだった。板張りの客間に囲炉裏が並んでいて、僕たちはその一つに案内された。

躊躇なく、田楽を頼み、熊本弁らしきコトバを喋る女将さんのおススメで、地鶏炭焼きも一緒にに注文する。

炭で焼いて食べるのだから美味しくない訳がない。旅番組でしかこんなベタな炭火焼きを見たことがないが、実際、地鶏も田楽の豆腐もこんにゃくも激うまだった。なるほど、炭で焼くとこんなに香ばしい味なんだね。

 翌日には博多に帰って飛行機で帰る予定だ。

実は、最後の宿を別府温泉にするか、湯布院にするか、この九州一周旅行を計画していた時にだいぶ悩んだ。

で結局、最後の宿はちょっと贅沢をすると決めていたから、それがイイ感じでぴったり当てはまる宿が湯布院にたまたま見つかったので、宿泊場所は湯布院に決めた。

が、ここまで来て別府温泉を見ない訳にはいかない。

僕たちは阿蘇を車で突っ切って、別府の街を目指した。ちょっと天気が悪く、うっそうとした山合いを何時間も走り、高速道路に乗って、別府に到着したら既に夕方前だった。

「なんかね、別府温泉には地獄めぐりというのがあって、海地獄、鬼石坊主地獄、かまど地獄、鬼山地獄、白池地獄、血の池地獄、龍巻地獄という7つの地獄があるらしいよ。時間的に1つしか見れそうにないけど、どの地獄を見たい?」

「血の池地獄」

ということで、その名の通り血の池のような色をした血の池地獄を見に行った。

ん?赤土?

あぁ、鉄分が多いんだね。錆の色だ。確かに赤いね。

別府の街は一度ゆっくりめぐりたいなぁと思ったのは、街を走っていると、あっちこっちで湯煙が勢いよく吹き上がっていて、それが風景の一つになっている点。あっちこっちお湯が噴き出す広大な丘の上に家やビルやコンビニが建っているように見えた。面白そうな街だ。今度は数日ここに滞在して全部の地獄めぐりをしてみたいな、なんて思った。

 あっという間に夕暮れ前である。僕たちはもう一度高速道路に乗って、湯布院に向かった。山間のはずれに目指すべき宿があった。

宿は四季庵という旅館で、合掌造りの建物の中でご飯を食べ、部屋は全部、離れになっていて、僕たちは1棟貸し切りで宿泊した。昨晩は安宿で我慢した分、九州旅行最後の夜はちょびっと贅沢を楽しむ気満々だ。

この離れが今晩の我々の宿泊場所だ。期待を胸に中に入って行くと、間取りは広く、古民家の味わいを大切に残しつつ、全部が豪華な作りだった。

お風呂は障子扉(もちろん和紙ではなく防水素材で出来た障子)を開ければ外の庭が見えるという、プライベート感と解放感とゴージャス感が満載のお風呂である。

うーん、サイコー!

そして何より嬉しかったのが、風呂と寝室の間の玄関に本格的なビールサーバーが置いてあって、滞在の間、飲み放題であるということ。

神様ありがとう!このために数々の試練を僕に与えて来たのですね。なんて素敵なご褒美でしょう!

メーカー勤務としてはやはり仕組みが気になるので扉を開けて中を見てみる。なるほど、こういう仕組みで泡いっぱいのキンキンに冷えたビールが飛び出してくるのね。

 日が完全に落ちて夜になると、宿全体がライトアップされた。闇に浮かぶ古民家のフォルムが幻想的で美しかった。

そしてこの庭!なんだこれは、というくらい贅沢で完璧な美しさ!これぞまさに和風リゾート!

あとはご想像の通りである。

九州一周旅行の最期の夜を、僕はお風呂に入って庭を眺め、お湯から上がってはサーバーでジョッキにビールを注いで飲み干し、またお風呂に入って庭を眺め、お湯から上がってはサーバーでジョッキにビールを注いで飲み干し、というのを7往復やって、幸福な忘却の中、要するに酔っ払って気絶して眠った。4日間で千数百キロを運転し、無事だったことに感謝。そしてこれまでの人生で見たことのないような美しい景色をたくさん見せて頂いて感謝。家人と一緒に、それぞれの地域で美味しいものを本当にたくさん食べさせて頂いて感謝。なんてムニャムニャ言って眠った。

翌朝、ちょっと頭の奥がズキズキするのを感じながら、博多に戻り、レンタカーを返して、最後に博多ラーメンをもう一回食べて帰ることにした。

これ以上美味しいラーメンを僕は食べたことがない。最後の最後までありがとう、九州!

 遠く小さくなっていく九州の街を機内の窓から眺め、今回の旅行がたぶん、人生で一番楽しく素晴らしい旅行になったのかも、なんて考えていた。もちろん、これまでも海外を含めたくさん旅行して来たし、これからも旅はするけど、自分の年齢、健康、家族の年齢、健康、今の仕事の状況、いろんな意味で、人生で一番、心の底から景色を、料理を、家人との会話を、酒を、深く深く、心の底から楽しんだ旅だったな、なんていつか思い出すような気がした。

と独りごちて反省する。

ダメだダメだ、考え方が暗すぎる。

これじゃ夏休みにおばあちゃんの家で楽しく遊んで、明日から学校に行くので憂鬱になっている小学生と変わらない。

「あなたはいつも最悪を考え過ぎる、暗すぎる」って、家人にいつも冷やかされているのでは?

先行きなんて誰にも分らないし、そりゃ僕たちの老後なんて、もっともっと国は貧しくなり、年金はやっぱり死ぬ直前までおあずけで、60歳を超えて腰が痛いとか愚痴りながら若者たちと一緒に中国あたりに出稼ぎに行かなきゃいけないかもしれないけど、或いは、重い病気になろうと医療費が高すぎて病院に行けず、もう国はスッカラカンで、あなたたち老人たちはさっさと死んで下さい、なんて時代を人生の最後のほうに迎えるかもしれないけど、或いは、現役時代に頑張って建てた終の棲家がなんとかトラフで焼けるか流されるかして、どこかの体育館のシートの上にしょんぼり座り、途方に暮れながら、あぁもう俺、平均寿命の年齢なんだよなぁ、今から「頑張ろう!日本!」なんて言われてもなぁ、なんて考えているかもしれないけど、それでも、これからも、強く強く生きて行こう、そう思いなおした。

だいたい僕たちの世代は、若い頃からひどい目に遭い過ぎたせいで、いつだって悲観的になりがちなのである。世の中や社会や人生というものを信用していないのである。が、人生は続き、旅は続き、だから、そうそう、ホントにいつか何もかも失って、大切な家族も失い、自分の健康も失い、美味しいビールも飲めず、家も失ったとき、あの美しい岬の馬たちに会いに行こうか、なんて思った。指宿で見たあの美しい朝日を、もう一度見に行こうか、なんて思った。

「楽しかったかい?」

「美味しかった」

僕は隣でウトウトしかかった家人の手を握りしめ、もう一度、機内から窓の外を眺めた。そしてそこには、九州の上に広がる大きな青い空があった。

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天空の岬で青い空と海に囲まれて馬を眺め、冷や汁をお腹いっぱい食べる

 九州一周旅行は福岡の博多空港に降り立ったところから始まり、長崎、佐賀、熊本、鹿児島を経て、宮崎に入った。宮崎にはどうしても行ってみたい場所があった。

都井岬である。

日向灘の南端にあるその美しい岬には、野生の馬たちがいるという。

 その日もとても晴れていて、岬の上には突き抜けるような青空が広がっていた。美しい岬だった。絶壁の上に草原が広がり、その上をのんびりと馬たちが歩いていた。

全てが絵になる風景である。平日ということもあり、僕たち以外は誰もおらず、あまりに世離れしたゆったりした時間が流れていたので、なんだか別の国に来ているみたいだった。青い空と海を背景に、少し離れてその野生の馬たちを眺める。

さらに離れてみると、やっぱりこれは、もはや一枚の絵画だ。

すんごいや。こんな場所があるなんて信じられない。僕たちは時間を忘れて岬を歩いた。プラプラ歩いた。馬たちを眺め、海を眺め、空を眺めた。美味しい空気。さわやかな風。ほのかな潮の香り。いつまでもいたいと思える静かな場所だった。近くに人家はないけど、こんなところがもし、車で数時間のところにあるなら、僕は毎週末、その数時間をかけてやって来るだろう。

が、次の目的地に行かなければいけない。僕たちはちょっと後ろ髪を引かれる思いだったけど、車に乗って美しいその岬を後にした。

ついに九州を折り返し、北上を始める。宮崎を楽しみ、美味しいご飯を頂くのだ。

 宮崎のことを日向(ひゅうが)というが、これは昔は「ヒムカ」と呼んでいたらしく、日向かうという意味で太陽が現れる方向を示した。おひさまが出て来るところなのだから、もうそれだけでめでたく、そこは天上の国につながっているということ。神話の世界の物語の様々な舞台になって当然である。

で、いきさつはともかく、日向の国にはモアイが並んでいて(神話はさておき)、そこに立ち寄った。いかにも観光向けの施設かなと思ったら、意外に素朴に、そこに並んでいる。

ものすごく自然で嫌みがないのだ。そりゃそうだ。人の善意がきっかけで、地球の反対側にいるモアイたちがそこに「完全復元」されているのだ。実物は思った以上に大きく、みな表情が豊かで、暖かい気持ちになった。微笑んでいるんだね。

少し丘の上にのぼって見下ろすと、これまた日向の真っ青な海に似合う。

 さて宮崎と言えば「冷や汁」だ。といっても無知をさらすようで恥ずかしいけど、僕はこの料理を、じゃらんを見るまで全く知らなかった。じゃらんに掲載されている写真を見て、是非食べたいと思った。

冷や汁は、味噌と魚のだし汁に具材として豆腐とキュウリを入れた冷たい料理で、これを麦飯にかけて食べるのだが、バリエーションが結構ある。でもまずはオーソドックスな冷や汁を頂くことにした。

鯛のほぐし身が入っている。激うまである。むちゃくちゃ美味しい。なんで九州はこんなに料理がおいしんだろうか!

欲を張ってトロピカルとか海鮮の冷や汁も頂く。どれも美味しいけど、結局オーソドックスなのが一番いいかな。だし汁が美味しいので、とにかくツルツルとお腹に入って行ってしまった。

この冷や汁、ウィキによると、同じような名前で埼玉や山形にも郷土料理があるとのこと。すっかりファンになったので、いつかそちらの冷や汁も食べに行きたいと思った。そしてベタだけど、もちろんチキン南蛮もちゃっかり食した。だってここは宮崎だもの。

 遊び疲れた夕方、すっかり日が暮れていた。なんだか日向の国は果てしなく青い空と果てしなく青い海が目に焼き付いたなぁ、なんて岬の野生馬たちを思い出しながら、ハンドルを握りしめる。北上して明日は高千穂に向かうのだ。

 九州旅行も終盤に向かいつつあった。明日は神様が降臨した地を訪ね、温泉に入る。最後の宿はちょっと豪華にしたから、前日の今日は質素なビジネスホテルで我慢だ。

 何もかもが美味しく、何もかもが美しく、僕も、助手席で眠りこけている家人も、この九州一周旅行に大満足だった。事故に気をけなきゃ。僕は慎重に運転していた。

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ロスジェネ旅行論(仕事探しを少し離れて)

熊本ラーメンへの敬意と薩摩の国で見た途方もなく美しい風景

 九州一周旅行は続く。嬉野温泉から鹿児島へ向かう途中、熊本に立ち寄った。熊本城は震災の修理で近づけなかったけど、遠くから見てもその雄姿に心打たれた。熊本の人々は本当に誇りに思っているんだろうなと思った。あんな雄々しいお城は他に見たことがない。清正という男を想像し、向こうに見える天守をしばらく眺めた。

熊本はどのみち数日後に阿蘇に戻って来る予定で、まずは鹿児島まで走り切ってしまおうと思ったけど、やっぱり熊本ラーメンを食べたい。からし蓮根も食べたい。と思い始めたらまっすぐ走れなくなった。

ということで熊本空港へ寄り道して2つとも食べた。本当はちゃんと市内の有名店なんかを調べて時間を割いて行きたかったけど、その日のうちに鹿児島へ移動する必要があったので、両方いっぺんに揃っている上に味も評価が高かった空港の店で食した。これまた美味しい!

よくインスタントラーメンで熊本ラーメンを銘打って売っているが、あれは全く別ものである。熊本ラーメンは不必要に油っこくなく、不必要に臭みもない、上品で深い味わいのスープが特徴だ。あっさり平らげた。

 熊本から僕たちは鹿児島へ向かって走り続けた。宿は指宿にとってあった。指宿を目指した理由は家人が「砂風呂に入りたい」というベタな希望を申し述べたから。

日が暮れても走り続けた。鹿児島にいるっていうだけでワクワクしていた。いよいよ薩摩の国にやって来たんだ。下道をだいぶ走って僕たちは19時ごろにようやく旅館に到着した。案内された部屋で、さっそく西郷さんが出迎えてくれる。

 まずは温泉に浸かって食事を、といいたいところだが、やっぱり最優先は目的の砂風呂である。食事は後回しにして、旅館に併設された砂風呂施設に行くと、手順をイラストで書いた看板の通りに、専用のガウンみたいなのに着替え、シャベルを持った2人組のおじさんのところ(砂場)へ歩いて行った。おじさんたちは慣れた手つきでシャシャッと砂の上に窪みを作り、そこに仰向けで寝るように僕たちに指示した。言われるがまま寝るとあっという間にシャベルで砂が体にかけられて顔だけ地面に出すという、あのテレビで見た通りの状態に二人ともなった。想像していた以上に熱い。そして一番感じたのが、想像していた以上に「砂が重い」ということだった。よく映画のマフィアものなんかで、土で生き埋めにされるシーンを見るけど、こんな表面の砂を掛けられただけですごく重く感じるのだから、砂で息が出来ないとかの前に、あのギャングたちはきっと重さで潰れそうで胸が苦しいとか、そんな感じだったのかなぁなんて考えていた。しょうもない話である。隣では家人が気持ちよさそうに土に埋められ寝ている。

 10分もしたら身体がポカポカになった。僕たちは砂から這い出し、シャワーを浴びて土を落とした。驚いたことに、本当に温泉に浸かったあとくらい、体の芯から温まり、たくさん発汗していた。体をきれいに洗って浴衣に着替え、いよいよ食事に向かう。

 食事は土地の野菜や近場の海でとれた魚介を使ったものだった。美味しく頂いた。ビールを飲んだら長時間の運転で溜まった疲れが一気に出てきた。あぁ今日は九州を一気に縦断したな、楽しかったな、なんて思いながら部屋に戻り、布団の上で酔いが回ってそのまま記憶を失ってしまった。

 目が覚めたら明け方だった。昨夜は遅くに旅館に着いたから、部屋の窓の外は真っ暗で何も見えなかったし、まずは砂風呂だ、って飛び出して行ったから、朝になって初めて、カーテンを開け外の景色を目にした。そしたらベランダの向こうはなんと海だった・・・

しかも無茶苦茶きれいな海だ。昨晩、食事会場に向かう途中、すぐ近くで戦時中にこの海から飛び立って行った悲しい歴史がパネルで解説してあり、読んでいた。そうか、こんな美しい海からだったんだ・・・

向こうから朝日が昇り始めた。美しい場所だと思った。何も言葉が出てこず、僕はずっと海を見ていた。

 朝食は本当に美味しかった。このとき鶏飯(けいはん)という奄美地域の郷土料理を生まれて初めて食べた。温かいご飯に錦糸卵やシイタケの煮物や鶏のほぐし肉や紅ショウガなど好きなものを乗せて、鶏ガラスープをかけてお茶漬けのようにして食べる料理だ。

これが本当に美味しく、僕は何回もおかわりした。九州というところはどこへ行っても郷土料理で美味しくなかった試しがない。市井の人々の味へのこだわりと代々の工夫がいっぱい詰まっていて、単に美味しいというより、人間の温かみを感じる料理ばかりだと思った。

 チェックアウトし、ちょっと噴火したばかりの桜島を横目に、宮崎へ向かって走り出す。途中でお約束だけど、黒酢の壺畑へ立ち寄り、そのちょっと噴火した桜島をお約束の構図で記念にパシャリと撮っておいた。

あぁなんだか、もっと時間をかけて回りたい土地だなぁ、また絶対来たいなぁなんて思った。僕の薩摩の国の印象である。明らかに、僕たちが触れたのはこの土地の魅力のごく一部に過ぎないんだろなと思った。

 九州一周旅行が始まって4日目の朝だ。まだまだ僕たちの旅は続く。駆け足だけど、めったに来れない場所だから、見れるだけ見て、料理も土地の魅力も、短い時間の中で味わうだけ味わいたいと考えていた。

空はどこまでも青い。

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九州の魅力は食いしん坊にとっては底がない

 九州一周旅行は博多の食い倒れから始まり、いよいよレンタカーに乗って走り出した。長崎方面に行くから、喜ぶかなと思って家人にハウステンボスで遊ぼうなんて誘ったら、「吉野ケ里遺跡へ行きたい」とのこと。そうか、この人は古代史が大好きで、一人で古墳巡りをやっている人だった事を思い出した。古墳のほとんどは小山の前に看板があってそこに解説が書いてあり、逆にそれを読まなければただの小山にしか見えない。が、そんな小山の前の看板の写真(どれも同じに見える)をたくさん集めているのが家人だ。僕はがぜん昭和の男子として歴史は戦国時代が大好きだから、あんまり古代に興味もなかったが、今回の旅の目的として家人の接待を最優先とし、僕たちは吉野ケ里遺跡に車を走らせた。

すごく大きい!広い!砦の入り口からすでに期待でいっぱいだった。

上機嫌の家人に引っ張られてどんどん奥に進んでいく。弥生時代の住居が復元され、その当時の人々の暮らしが、出土品とともに分かりやすく紹介されていた。本格的な歴史学習の施設だ。

祭祀の様子や、政(まつりごと)をやっている様子が人形で再現されていて迫力満点。

広大な施設の敷地を歩いていたら、小腹がすいたので併設されているレストランで混ぜご飯のおにぎりを食べることにした。ついでにムツゴロウの焼いたのを付けてもらう。ムツゴロウは真っ黒に焦げていて、あんまり味はしなかったけど、おにぎりは素朴な味で美味しかった。ムツゴロウって本当はどんな味がするのだろ?と考えながら、炭素の塊みたいなのをカリカリかじる。

11月の九州は気持ちよい風が吹いていて、食べ終わるとまた僕たちは、のんびり古代が復元された風景の中を歩いた。芝生の上を、古代の景色の中を、本当にのんびり僕たちは過ごした。人ごみの中を観光したりするよりずっと贅沢な時間の味わい方だ。訪ねて大正解だった。

 その後、長崎に入って、平戸を見物し、平和記念公園で祈り、カステラを食べに行った。松翁軒という老舗のカステラ屋さんで、どうしても行きたかったところだ。2階がレストランになっていて、レトロでものすごく雰囲気がある。

 僕たちはこのレストランでコーヒーを飲みながら美味しくカステラを頂いた。ここのカステラは日本一、上品な味のカステラである。博多に行くたびにお土産で買っていたのでファンになった。旅の途中で贅沢な時間をゆっくり過ごす。そうそう、このレトロな感じは、横浜とか神戸にもあるセンスのいい老舗の喫茶店と同じ雰囲気だと思い、同時に、長崎も歴史のある、そして町全体が雰囲気のある港町であることを思い出した。カステラはどこまでも美味しい。

 その夜は佐賀県に戻り、嬉野温泉の宿で泊まった。和多屋別荘という旅館で、ご飯の評価が高かったから予約していたのだけど、案内された部屋に入ってビックリ。洗面台の染付や檜風呂の鄙びた感じが、ザ・和モダン。

 お風呂は驚くほどとろみのある温泉だった。ゆっくりお湯に浸かって体をほぐし、夕ご飯を食べ、旅の疲れを癒した。たくさん歩いたからたくさん眠った。普段はベッドで寝ているから、時々こうして旅館の和室で布団の上で眠ると、溶けるように寝てしまえる。今日もいい1日だった。九州旅行サイコー!

 この宿の凄みは実は翌朝食べた朝食にあった。と、翌朝、思い知らされた。白がゆに好きなだけ明太子を乗せて、温泉卵を乗せて、イワシの昆布締めを乗せて食べるのだ。

 こうして九州旅行の3日目が始まった。いよいよ僕たちは南に向かう。数百キロを走って薩摩の国へ向かうのだ。胸のワクワクが止まらなかった。薩摩の国へ向かうのだ。

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博多でラーメンと餃子ともつ鍋と水炊きを食い倒れ

 勤続年数がある程度長くなると、「家族サービスしてこい」という意味だと思うが、会社から1週間ほど休暇が貰える。なにしろ自分で仕事の都合をつけて時期を決めて休むので、シーズンオフに安い値段で観光地を巡ったりするのにはうってつけの休暇となる。

 数年前、僕はこの休暇を初めて利用し、5泊6日で九州一周旅行をやった。家人に「1週間休みが取れるけど、どこ行きたい?」と聞いたら「美味しいものがたくさん食べたい」という回答だったので、迷わず九州に行くことにした。出張で博多へ行くことがあっても、それ以外はほぼ行ったことないし、遠いからこんな機会がなければ今後もそうそうは行くことはないだろう。九州は何でも美味しいというイメージがあって、僕たちはレンタカーで一周しながら、美味しいものを片っ端から食べる事に決めた。前知識は全く無く、情報は「じゃらん」が全てである。余計な事前調査とか段取りは一切しなかった。宿泊する場所だけ予約しておき、あとはレンタカーでその時の気分にしたがって移動することにした。行き当たりばったりで、まさに旅って感じの旅だ。

 そして博多からスタートである。

 空港に降り立って、博多駅まで電車で移動し、博多駅で速攻で「らーめん二男坊」という店で博多ラーメンを食べた。いきなり美味しい・・・

そのあとプラプラ歩きながら腹ごなししようと思ったけど、プラプラの出だしくらいで「テムジン」という店の前で足が止まってしまい、匂いに引き込まれ、そのまま店でひとくち餃子を頬ばった。これまた美味しい・・・

 さすがにお腹がパンパンなので、ちょっとは歩かなきゃと思って、「去年、出張に行った時に先輩に連れて行ってもらった店が美味しくてさ。夜にまた食べに行こうか?本店じゃないけど駅の隣のビルの中にあってさ、下見にでも行く?」ということで「おおやま」という店へ歩いて行った。そうそうここだよ、ここのもつ鍋が絶品で・・・と客が鍋をつついているのを見ているうちに、やっぱり食べたくなって、そのまま店に入り、もつ鍋とおきゅうとを頼んだ。ここのもつは無茶苦茶柔らかく、スープの一滴まであっという間に飲み干してしまう。たまらないくらい美味しい・・・

もうお腹いっぱいで動けなくなって、ベンチで休みながら、動けねぇと思いつつ、自分たちは博多駅からこのまま出られないのでは?と思い始めた。それくらい次々と美味しそうな店が目の前に現れるので、歩き出したそばからフラフラ店に入ってしまって、全然、外へ飛び出して行けそうになかった。博多駅恐るべしだ。

 ようやくちょっと動けるようになったころ、駅の外へ出たらすっかり日が落ちて辺りは暗くなっていた。イルミネーションに灯がともり始めている。そうそう、博多と言えば屋台だ。じゃらんには「観光客向けの屋台は値段が非常に高い場合があるので注意」と書いてあったから、今度こそちゃんと腹ごなしするために、歩いて見るだけ、と決めて観光をすることにした。僕たちはタクシーに乗って「屋台を見たいので連れて行って下さい」と言った。親切そうな初老の運転手で、観光客向けの屋台は見栄えはいいが、やはり値段が非常に高くトラブルも多いこと、ちょっと離れたところに地元の人が通う安い屋台があって、味も美味しく、出来ればそちらに行った方がいいこと、などを教えてくれた。僕たちはお礼を言って、見るだけだから大丈夫と伝え、観光客向けの屋台が並ぶ通りの前でタクシーを降りた。あぁ、そうそう、これだ、これがよくテレビで見るやつだ。立ち並ぶ屋台を2往復くらいしながら、僕たちは写真を撮り、ときどき客が食べている料理をのぞき込んだ。さすがにお腹いっぱいだったからそんなに食べたいと思わなかったが、確かにこんなところでお酒を飲みながらパクパク食べたら、いかにも観光をやっている気分になれるんだろな、と思った。

 じゃらんを片手に僕たちは歩いて博多駅へ戻った。博多駅は青いイルミネーションのツリーが立ち並んでいてとてもきれいだった。でも僕たちは花より団子だ。その頃には、僕たちのお腹は、また博多の別のグルメを受け入れる準備がすっかり出来ていた。あたりをキョロキョロ見回す。食い倒れ再開だ。

 そんな感じで食べ歩き続け、夜の11時を回ったころ、そろそろシメを食べようということになった。シメは水炊きに決めていた。「かしわ屋源次郎」というお店だった。鶏料理専門店で、看板メニューとして双璧をなす親子丼も魅力的だったけど、僕たちはやっぱり薄味の水炊きを選んだ。あとで卵を入れて雑炊にするのだ。味付けがサイコー!ダシがサイコー!それ以上言うこと無し。ただただ美味しかった。僕たちはあっという間にたいらげた。

博多の人たちの味覚は凄い!だってこんな美味しいものを生み出せるのだから。僕たちは大満足して店を出て、宿泊予約していた駅近くのビジネスホテルへ向かった。明日からはレンタカーに乗って、いよいよ九州一周の旅が始まる。

 治安という意味でも食という意味でも、世界一安全な国にあって、こうして夜中まで美味しいものだらけの街で美味しいものを食べまくってから、ホテルのベッドに倒れ込んで眠る、というのをやったのだから、本当に天国のような楽しさだった。僕たちはキャベジンを飲み、幸福の絶頂でお腹をさすりながら、ぐっすり眠った。やり切った感じだった。

 こうして、九州一周旅行は幸先のいい出だしとなった。旅の初日だったから強烈な印象として残っている。おかげで、いまでも「博多」という地名を聞いただけで、あの食い倒れをやった幸せな1日を思い出し、なんだか自然に唾が出てくる。条件反射というやつだ。全部が美味しかったもんなぁ、博多の街は。

 ちなみに、6日目に九州一周を終えて、またこの博多に戻って来たが、やっぱり最後にもう1回、博多ラーメンを食べて帰ろうということになった。Shin Shinという有名なラーメン屋さんで美味しく頂いた。東京時代には家系のラーメンや二郎に通ってそれなりに味にはうるさいほうだけど、僕はここのラーメンが今まで生きて来て一番美味しかった。最後にそれくらいの味に出会った。

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ひたすら非日常を味わってストレスを解消する旅

 旅をする理由とか意味ならごまんとあって、非日常を味わってストレス解消できるとか、本場のグルメを味わえるとか、要するに効能みたいな理由もあるし、自分を見つめ直せるとか、新たな価値観を見いだせるとか、忘れていた自分の情熱を取り戻すきっかけになるとか、ちょっとマインドに響くような理由を挙げる人もいる。が、正直、40歳を越えて人生の半分を終え、あとはひたすら働いて税金を納め、組織から放り出されたとしても何とかお金を自分で稼ぎ続け、この世からいなくなるその最後の瞬間まで生存競争に晒されて行かねばならない我々にとって旅とは、

 「ひたすら非日常を味わってストレスを解消し、美味しいものを食べること」

 という具合に徹底したプラグマティックな効能の追求で充分であると考えている。僕は大半のメーカー勤務の人たちと同様、給料が安くても土日が確実に休める=土日を人生の楽しみに生きている類(たぐい)なので、なおさら土日なんかで行く小旅行は、平日の複雑な人間関係とか組織の要請から来るストレスを、非日常を味わうことで解消し、かつ平日の殺伐とした食事(職場で会議の合間に慌てて食べる食事は、ご飯というより餌を食べるという感覚)を埋め合わせるかのように、旅先で出会った地元の美味しいものを食べることが出来れば、それで大満足である。

 海外駐在から帰ってきた人間にありがちな話で、久しぶりに日本の組織に戻ったはいいが、海外と比べ与えられる裁量権は小さく(もういらない、と簡単にチームメンバーを交換できない)、そのくせ細々した責任が網のように足に絡みつき、マネジメント上、面倒な手続きとか複雑な日本人のきめ細かなケアとかいろいろ要求され続けて、とにかく感覚を日本の組織向けに戻すまで非常にストレスフルな日々を送ることになる。僕もご多分にもれず、帰国して数年間は非常に苦労の多いストレスだらけの日々だった。どれくらいストレスフルかというと、あんまりにイヤ過ぎて、職場とか住んでいるところで息をするのも嫌で、自由になる毎週末には日本のどこかへ旅行に行っていた。本当に毎週末、出かけていたのだ。

 金曜日、本来は17時で残業なしを原則に大半の社員は退勤するのだが、僕はトラブルを抱えた部下の緊急対応をフォローしたり、週明けに提出しなければならない業績報告書なんかの作成をやっているうちに時間がとんで、結局、オフィスを出るのが20時くらいになる。あぁやっと1週間が終わった、何とか乗り切った、キツかったぁ、コレまだ続くんだよなぁ、来週はまた怒られるんだろなぁ・・・なんて考え込み、せっかくのメーカー勤務のくせに、金曜日の夜をなんでそんな暗い顔をしてんだって言われそうな顔でアパートに帰って来ると、家人が待っていて、余計なことは言わず、

「どうする?」と聞いてくる。

「うん、どっか行くよ」と僕は答えると、そそくさと家人は「お泊りセット」なるバッグを準備して、着替えとか一式を車に運び込む。

「どこへ行くの?」

「どっか、ここじゃないとこ」ハンドルを握って車を走らせた僕は、本当に行き先を決めず、コンビニでお茶とサンドイッチだけ買って高速に乗り、そのまま走り出す。できる限り遠いところのほうが非日常を味わえるし、もちろん初めて行くところがいい。日本なんて国土が狭いから、走れるところまで走って、一晩どっかで眠ってまた明け方に走り出せば、土曜日の昼頃には東北でも四国でも到着してしまう。僕はひたすら夜の高速を会社やアパートのある場所(=平日の場所)から逃れるように走り続け、家人は毎週末がピクニックとばかりに大はしゃぎして、昼間あったこととか、テレビで見た話とか、取り留めない話を車の中でずっと話し続けてくれる。僕は全然内容を聞いていないけど、彼女の声を聴いている。金曜日の夜はまだまだ頭の中はシゴトでいっぱいだけど、それは仕方ない。そして家人もそれを理解してくれている。

 土曜日の昼頃、数百キロ離れた美しい場所で観光している。「るるぶ」を手に持つ家人に見せたいものを見せ、食べたいものを食べさせ、そうすることで僕の頭の中から少しずつシゴトがぽつりぽつりと消え始め、さっき急遽予約したその晩の宿の夕ご飯に期待する。

 土曜日の夕方、温泉に浸かり、部屋に戻って食卓に並ぶ地元のグルメに目を丸くする。ビールを飲み、料理に舌鼓を打ち、家人の上機嫌な顔を眺め、食べ終わったらちょっとウトウトして、それからもう一度、温泉に浸かりに行く。夜は平日の浅い眠りとは比べ物にならない、心地よい深い眠りの中へ落ちていく。

 日曜日の朝、窓の外の美しい景色を眺めてから、朝ご飯を食べに行く。やっぱり地元のグルメが並んでいて、おなか一杯になるまで食べる。平日の朝飯は眠くならないためのコーヒーと脳みそがちゃんと回転するための甘いパンで終わらせているけど、日曜の旅館の朝飯は食べたいものをじっくり味わって食べ、食べているうちにこれが「人間が食事する」ということであり、本当は生きている幸せの一部なんだなって改めて気づかされる。

 日曜日の昼間、まだ帰らない。せっかくここまで来たのだから、もっと観光しておく。焼きものづくりとかの体験も楽しそうだ。昔、歴史で勉強した事件の現場とか、偉人ゆかりの地を巡るのも面白い。移動途中で立ち寄る道の駅やサービスエリアの土産物コーナーは、非日常の世界そのものだ。串焼きとかお焼きとかちょこちょこ喰いをしながら、僕たちは旅を楽しみ続ける。

 日曜日の夕方、さすがにそろそろ帰途に就く。運転中に明日からのシゴトがあっという間に頭の中を占領し始め、高速を走る僕は金曜日の夜と同じ表情をしている。家人は何も言わない。僕たちは夜中の12時過ぎにアパートに到着し、シャワーを浴びて、ビールを飲んでベッドに入る。日曜の夜なんてどうせ眠れない。若いころからそうだ。そうしてまたストレスフルな平日が始まる。

 そうこうしているうちに、駐在時代に貯めた預金がどんどん無くなってしまった。その頃にはもう本州の観光地は行ったところがないくらい旅行に行っていた。2回目となると、たとえそこが自分の住むところから数百キロ離れていても、もはや非日常ではない。でも一方で僕自身が、そろそろ日本のストレスフルな組織に改めて順応し始め、自分のアパートで土日を過ごすことも出来るようになっていた。そろそろ潮時だと思った。僕は家人に家を建てることを宣言した。一つは貯金がなくなってしまう前に家を建てて節約生活に切り替えるため。もう一つは、土日に二人でのんびり過ごせるお気に入りの場所を作るため。

 今や土日は我が家で寝坊し、もんじゃ焼きをし、近くのショッピングモールへ買い物に行き、また家に帰って読書しながらウトウトし、夕ご飯のカレーを作り、そのあとネットで映画を見ながらのんびり過ごしている。でも時々、こんなパンデミックでシゴトが大変なことになって、平日のシゴトがついつい週末に押し寄せて来て、僕の頭の中からシゴトが消えなさそうな金曜日の夜には、家人が「お泊りセット」を準備し、僕はハンドルを握って高速を走り出す。でもすぐに下りる。こんなパンデミックだから何度も行ったことのある近場で車を止める。それは仕方ない。もちろんそこに大した非日常はないけど、なんとなくあの非日常を求めて毎週末に日本中の観光地に出かけた懐かしい日々を思い出し、ちょっとその時の気分を再現してみるのだ。そして非日常とか関係なく、地元のグルメは何度食べようと美味しいことは変わりはない。僕は海鮮や山菜を頬張り、温泉に浸かりながら、あの旅の日々を思い出している。