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ロスジェネ映画論(仕事探しの合間に一息)

映画「花束みたいな恋をした」を見てマグネシウムの燃焼と焚火を想像した

 以前「明け方の若者たち」という映画を見て、作品の中に若者時代に暮らしていた明大前の風景が頻繁に登場し、ひどく懐かしい思いをしたが、人づてで「花束みたいな恋をした」という、これまた青春ど真ん中の恋愛映画も明大前が登場すると聞いて、Amazonプライムで観た。

「明け方の若者たち」の時は、懐かしい街の風景が次々と現れて目をつい奪われ、ストーリーそのものが全然頭に入って来なかったけど、今回の作品で明大前は主人公たちが出会う場面(終電を逃す場面)で使われていただけで、その他のシーンも甲州街道沿いを歩くシーンが少しあったくらいで、「懐かしい!」というのが最小限に収まり、僕は物語をすっかり満喫した。

こんなオッサンが、こんな眩(まばゆ)い青春真っただ中の作品を映画館に見に行くのはちょっと恥ずかしいけど、その点、サブスク万歳である。僕は家のリビングでソファに横になりながら、時々うたた寝しつつ、また巻き戻して(この「巻き戻して」という表現が既に昭和!ビデオテープ世代!)、のんびり鑑賞した。

こんな感じが一人で過ごす休日の最近の定番である。外は残暑だ。エアコンの効いた家の中で、じっくり時間と手間をかけてアイスコーヒーを作ってみたり、そうやって寝そべって映画を観たりするのが、何より幸せに感じる。

 「花束みたいな」という表現は本当に素直でセンスがいいなぁ、なんて見ながら思っていた。やたらヨーロッパ映画を観ることに凝っていた若者時代は遥か大昔に過ぎ去り、今は自然に、邦画でも若者向けでも子供向けでも老人向けでも、そして日本人向けでも外国人向けでも何でも一切気にせず、なんとなく見始め、そのまま見ている。そういう鑑賞の仕方が出来るようになったのが、とても嬉しい。こだわりが無くなるって、本当に幸せへの近道である。というのに初老に差し掛かってやっと学び始めた。

さて主人公たちは明大前で終電を逃す場面で偶然出会い、そこから恋が始まる。趣味が合う、好きな小説も音楽も一緒。世の中で不思議に思っていたことも一緒。要するにセンスとか価値観がパチンとハマって、交わすコトバ、会話がすべて楽しくて仕方なくて、そうか、こんな人が世の中にいたんだ!ってその偶然性に興奮して、恋は一気に燃え上がる。

とここまで書いてみて「燃え上がる」なんて表現も昭和だなぁなんて思った。が、表現は既にカビ臭いかもしれないけど、毎度毎度、若者たちが主人公の映画を観るたびに思うのは、やっぱ日本人って変わらないなぁ、ナイーブだなぁ、真面目だなぁ、という事だった。燃え方が静かで行儀いいのだ。

この映画の中で、ごく普通のカップルが、一緒に生活を始め、等身大のまま一生懸命生き、一生懸命恋し、結末を迎えている。至極まともな生き方を、必死でナイーブに生きている。現実の若者たちも同じような感じなんだろな。そう思った。最近じゃ車窓の外を歩く若いカップルを見ていても、なんだか眩(まぶ)しいものを見ているような気分だ。

「燃え上がる」という昭和な表現を使ってしまったので、ついでに書くと、20代前半、要するに人格形成の最終段階が終わった直後の、人としてアクなくフレッシュな状態でやる恋愛は、マグネシウムの燃焼だ。一瞬で燃え尽き、その燃えている間に放たれた閃光(せんこう)は、一瞬だけど我々の心に焼き付き、その美しさは一生、残像として脳裏に焼き付く。が、あっという間に、そして確実に燃え尽きてしまうのだ。だって最初に大好きになって、あとは減点方式だもの。

一方、これまた昭和風でありきたりな表現だけど、人格形成が終わってだいぶ時間がたち、人格にアクが付き始めた30歳前後ころからの恋愛は焚火(たきび)の恋愛もオプションとして選択可能だ。焚火(たきび)を選んだ場合、上手く行けば長々と炎は消えず、忍耐力が備われば、その燃え具合の微妙な変化や、木の燃える芳(こお)ばしい香り、パチパチと小気味よい音、その全てをゆっくり味わって一緒に生活して行ける。運よく薪(まき)が豊富に確保できて質が良ければ、或いは、たいてい晴れの日が続くなどして炎を焚き続ける環境が整っていれば、二人の寿命が尽きて一生を終えるちょうどいい頃に、二人は灰になれる。要するに「なんだ、こんな風にも燃えるんだね」なんてチマチマと加点方式をやるのである。

でも、あくまで20代にやる恋愛はマグネシウムの燃焼なのだ。繰り返されることで麻痺して行く感情とか、変わって行く二人の関係性とか、それに耐えるだけの忍耐力はなく、燃え尽きるのみである。

そうして30歳前後になって改めて始まる恋愛を、マグネシウムの燃焼にするのか、焚火(たきび)にするのか、人は道を選ぶ。30歳前後から再びマグネシウムを手に取るのもアリだけど、今度はほぼ確信犯的に光を放つ。いずれ灰になるのを知りながら、刹那(せつな)的に感情の高まりを、肉欲の発露を楽しむのだ。今度は燃え尽きても、20代に燃え尽きたようなヒドイ傷つき方はしないだろう。やがてすぐに立ち直り、次のマグネシウムを探す。そういう道だ。

一方、焚火(たきび)は忍耐力勝負だ。いくら年を取り始めたからと言って、30歳前後じゃ、まだそんなに「じっくり味わう」なんて出来ない。だから、ちょうど面白くなり始めた仕事に没頭したり、時々恐ろしく背徳的なアバンチュールを楽しんだり、子育てという便利な煩雑さで己(おのれ)を殺してしまったりする。そうやって選んだ道をなんとか歩き続けようとする。もちろん歩くのを止め、全部を捨てて別の町でマグネシウムを手にするのもアリだ。人生は悲喜こもごもである。

では40代から始まる恋愛はどうだろうか?

50代の恋愛は?

もちろん、マグネシウムを選ぼうが、薪(まき)を選ぼうが自由である。人はどうせ何をやろうとやり遂げようと、平等に年をとり、肉体が滅び、数十年で無になる。

 26歳の頃、勤めていた会社に50歳過ぎの事務員の女性がいた。僕は昼ご飯は有名な玉子屋の弁当を食べていたが、その人も同じように玉子屋のを食べていて、いつもインスタントの味噌汁を僕の分も作ってお椀に入れて持って来てくれた。そして昼休みの雑談の中でよく身の上話を聞かされた。北海道出身の彼女は早稲田中退で、70年代初頭の学園紛争の激しかった最後の時期に大恋愛をして、結婚し、子供を産み、その後、相手と別れたこと。今の夫とは40代から付き合い始め、バツイチ同士の再婚であったこと。お互い子供もいたが、付き合い始めた頃はバイクに乗って2人であっちこっち旅行に行ったこと。楽しそうに話していた。夫に結婚5周年の記念に買って貰った赤いバッグを肩に掛け、毎日、上機嫌で出勤して来た。笑顔が絶えず幸せそうだった。

 その彼女が、ある日から急に笑わなくなった。深酒をしているのか、顔色も悪くなり、相変わらず味噌汁を作って持って来てくれたけど、ものすごく疲れている感じだった。

その頃ちょうど会社も傾いていて、都内にある工場は閉鎖する予定だった。事務所も営業部門のみを残し、あとの部門に所属する全員が、北関東の工場へ転勤するか会社を辞めるかを迫られていた。彼女は東京に残ることを決意し、辞める予定だった。

「彼とは上手く行かなくなったの。頑張ったけど相手の子供とも上手く行かなくて・・なんかね、タイミングが全部悪くってね。別れるんだけど、新しいアパートも探さなきゃいけないし、こんな年で雇ってくれそうな所もなさそうだし、後々のことを考えて、いよいよ青いビニールシートでも買おうかしら」

青いビニールシートとは、もちろんホームレスのテントを指す。ある日、昼食の雑談で、味噌汁をすすりながら、彼女がそう言った。冗談とも本気ともつかない顔だった。そして僕はまだ26歳で、相手にかける言葉は思いつかなかった。ただただ、成熟した大人だって、きっと僕たちなんかよりずっと忍耐力のある、いわば酸いも甘いも知った大人だって、こんな風に恋愛ってやっぱり上手く行かなくなる時は一瞬なんだな、と思っていた。寒い東京の冬の日だった。

その後、工場閉鎖と北関東の工場への生産移管の段取りで忙殺されている僕の座席の前に、営業マンとして新規で採用された人が座った。営業部門は残るのだから、人員補充という訳だ。でも新人といってもその男性は既に50歳を過ぎていた。以前は教材の営業をやっていたらしく、畑も違うし、全然使えないって、30代の営業課長が怒り狂っていた。50過ぎの新人はその課長の罵倒に毎日耐えながら、リストを片手に順番に電話を掛け、アポが取れると外へ飛び出し、深夜になると帰って来た。温厚な人で、見るからに忍耐力のありそうな人だった。

その時期は辞めて行く人と、これから営業として生き残ろうとする人が交わる、不思議な期間だった。僕は北関東へ行く準備をしながら、辞めて行く大人の怨嗟(えんさ)と、必死で生き残り食いつないで行こうとする大人の後ろめたさの交差する事務所の風景を見ていた。

「新橋に馴染みの美味しい料理屋があるんですけど、今度一緒に飲みに行きませんか?」

50過ぎの新人はあくまで丁寧だった。親子くらい年が離れていたのに、こちらが恐縮するくらい丁寧な言葉で僕を誘ってくれた。夜中近くまで働いて、事務所に二人きりになることも多く、話す機会もあった。僕は人生の後輩として堂々とついて行き、本当にそこの料理は美味しく、盃を交わしながら相手の話を聞いた。人の話を聞くのは若いころから大好きだった。その人は時々白髪をかき上げながら、娘が前年に成人式を迎えたこと、離婚した相手とはずっと上手く行っていなかったけど、娘の為に別れるのを我慢し、晴れて成人したので、こちらから切り出したこと。せいせいしたと思っていたら、今度は30年近く務めた会社をリストラされたこと。別れを切り出された側って大抵、自分はそんな事言われるなんて予想していないから驚くんだけど(前の奥さんも離婚を切り出したらひどく驚いていた)、切り出す側はもう相当前からそんな事を考えていたんだよね、って事は前の会社はきっと、ボクの事をだいぶ前から切りたがっていたのかも、なんてケラケラ笑い出した。

昼間、事務所の中では「すいません」と小さな声で繰り返し謝っている姿が印象に強かったから、なじみだというその狭い料理屋で明るく笑う彼の笑顔を見て、僕も暖かい気持ちになったのを覚えている。時代も組織も人に非常に厳しかったけど、そしてそれは今もこの国の現実だけど、一人ひとりの個人は一生懸命生き、そして時にはふざけた異常者が暴れ回って無差別に人を殺すことがあっても、ほぼ大半の人々は生真面目に、謙虚に、小さな幸せを忍耐強く噛みしめて生きている。今も昔もそれは変わらずだ。

「そうそう、いつも味噌汁を作って持ってきてくれる方がいるじゃないですか。本当にボク嬉しくて、でも、もう辞めてしまわれるんですよね?」

あ、と思った。興味があるんだ、と思った。

キューピット?いやいや、無理でしょ、こっちはただの若造だし、年齢違い過ぎて何をアピールしてあげればいいか分かんないし、とか思っているうちに、次の話に話題が移って行った。

が、この話には後日談があり、僕が何もしなくてもその1か月後、工場閉鎖の最終日、レストランで行われた会社主催のお別れパーティの後で、二人で仲良くスナックへ入って行くのを僕は目にしている。二人の身の上話を聞いた僕としては、今となってからの想像だけど、いよいよ老いが迫ったその瞬間に、心と体を温めるための火をくべようと、二人で薪(たきぎ)を取りに行ったのかもしれない。そのあと一つずつ組み上げ、火をつけて、炎をかざし、炎が消えてしまわないように、薪(まき)をくべ続けたかもしれない。それまでの人生で培(つちか)った忍耐力は、今度こそ命が尽きるまで炎を灰にせず、静かに燃やし続けるかもしれない。

これは幸せな想像だ。

 さて、キャンプブーム真っただ中にあって、焚火(たきび)に振りかけると炎の色が七色に変化する粉が売っているらしい。You Tubeで見たら本当に七変化していた。そして炎がなんだかマグネシウムを燃やしたみたいな明るい閃光に見える瞬間があった。フォトジェニックなキャンプファイヤーになるというので若者に人気らしい。で、その七変化は30分くらいで終わるらしい。

分かっちゃいないなぁ、なんてほくそ笑んでみる。フォトジェニック?

焚火(たきび)のような恋をしたい。忍耐力をもって薪(まき)をくべ続けよう。なんて大人向けの地味でストレートな恋愛ものでもないかな?

休日の午後の時間がのんびりと過ぎて行く。僕はソファに寝そべり、次の映画を探している。

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映画「浅田家」を観て、家族って何?のテーマを考えつつ、人生に理由を求めても幸せになれないよねってやっぱり諦めた

 昔はやたら洋画ばかりを見て、邦画なんてほとんど観ることがなかったのに、最近は妙に心に沁みることが多く、邦画浸けである。いいなぁと思う作品が多いのは、それだけ邦画の作り手の層が厚いのかなとも思う。

 「浅田家」は有名な写真家の話だし、今はなき写真雑誌の「アサヒカメラ」で何度もその方の作品を見たので、興味があった。いったいどんな人なんだろう、というやつだ。で、映画館へ行くのを行きそびれて、結局、Amazonプライムで観ることになった。便利な世の中だ。

 子供時代に父親からもらったカメラを使って夢中で撮る、なんて自分の人生にも重なるところがあって、あっという間にストーリーに気持ちが入り込んで行く。主人公は、自分の家族がみんなで消防士とかのコスプレをして撮影する、という一風変わった「家族写真」に取り組み、これで世に打って出て、紆余曲折の末、木村伊兵衛写真賞という小説で言うところの芥川賞のような権威のある賞を取る。そしてそこからは、やはりこの「家族写真」を主軸に写真家としての活動を続けて行く話だ。

テーマはもちろん「家族」である。

 映画でもそのシーンが出て来るが、戦隊もののヒーローのコスプレを家族みんなでやってから写真を撮る、などというのは、一種のディフォルメ行為であり、我々は家族写真を撮るとき、例えば子供の入学式(全員正装)とか、祭りに行く前(全員はっぴ姿)とか、よくよく考えてみると、全員でちょっとおめかしした時点で、多かれ少なかれコスプレをやっているのである。

「全員でおめかし」の準備作業のてんやわんやや、そこで繰り広げられる喧々囂々(けんけんごうごう)とした家族の会話が、すでに家族写真の一部であり、それは単なる記念として一瞬の時間を切り取ったものではなく、そこに至るまでの準備を含めた、家族のコミュニケーションや関係性の反映でもある。

だからこの浅田という写真家の活動はいたって真面目であり、そのアイデアは「家族」を表現するための実に理にかなったものとなっている。というのを作品を観ていれば自然に分かる、そんな興味深い映画だった。

主人公はもちろん、登場人物全員が飄々(ひょうひょう)としていて、嫌みがなく、「家族」を押し付けることもなく、それでいて「家族」を考えさせる爽やかな作品だ。

なぜ家族を持つのか?

観終わってから、改めてそんなことを考え始める。

 我々の生まれたころは、40代の生涯未婚率が2%だった。今の我々40代は、男性の23%が、そして女性の14%が一生、家族を持つことはない。劇的な変化だ。

諸説あるが半分は経済、半分は娯楽の多様化が理由だろう。どんなに一生懸命稼いでも、大半をジジババに没収され、そのくせ将来、自分たちがジジババになる頃にはこの国がスッカラカンになるのは分かっているので、そんな能天気に家族なんて抱えている場合じゃないぞ、というお金の面の悲観と、一方、今やネット時代、一人で過ごす休日を充実させるためのコンテンツが物凄く豊富で、特段、そこに侘しさや悲しみや孤独がないからである。街へ飛び出せば「おひとり様」向けの楽しみが溢れ、既に「おひとり様」は歴とした市民権があるので、男も女も引け目を一切感じず堂々と生きて行ける。

ではそれでもなぜ、ある一定数の人々は家族を持とうとするのか?

 国の未来は暗い。人口比率の推移を考えると、第二次ベビーブーマーである自分たちが90歳を越えて死に絶えるくらいにようやく、この国は世代間の数の極端なアンバランスを脱することが出来るだろうから、それまでは(自分たちが死に絶えるまでは)歴史的な技術革新が起こらない限り、全体としては貧しくなって行く一方だろう。家族を持つとは、自分以外の他人の人生を抱えるということだ。自分以外の存在である配偶者や子供の人生を、どんどん貧しくなって行くこの国で抱えて行かなければならないって、それなりの経済的な覚悟が必要である。

ではそれでもなぜ、家族を持つのか?

一人で生きて行く方が楽で、不安もなく、お金もある程度自由に使えて、のびのびと人生を楽しめるのでは?

 もう20年近く前の話だ。

 僕は東京から地元にUターンして、そこから数年はシングルを謳歌(おうか)して過ごしていた。なにしろフツーの地方都市だ。何もない訳ではないが、何かある訳でもない。

土曜日。フィルムカメラと釣り道具を車に積み込み、町を抜けて田舎を走り抜け、野山に分け入って、夏空の下の美しい田園景色を何時間もかけて撮影したり、草原の上で昼寝したり、渓流に釣り糸を垂れたり、夕暮れ時の息をのむような美しい森の風景にカメラを向けたりして過ごし、暗くなったら車に乗って、自分のアパートに向かった。

そして途中でスーパーに立ち寄り食材を買って、部屋に戻ったら、自分が食べたい料理を夕ご飯に作って食べ、テレビを見てのんびり過ごし、ちょっとベッドでゴロゴロした後、ヤフオクで競り落としたビンテージサックスを入れた革製のケースを手に、車に乗ってレンタルスペースへ出かけ、夜更けまで一人で練習した。

なぜ家族を持つのか?

日曜日。少し早起きしてTOEICの勉強をし、洗濯と部屋の掃除を終えて昼ご飯を作る。午後はのんびり音楽を聴きながら本を読み、眠くなったらまどろむ。夕ご飯の前に母親に頼まれていた掃除機(壊れたので新しいのを買って来るよう言われていた)を電気店に買いに行き、実家へ立ち寄ってそれを置いてくる。だいぶ年をとった母親の背中がずいぶん小さく見え、胸の中心に小さな痛みを感じながら、家路につく。夕ご飯は昨日の残りで簡単にすませ、PCを起動させて学生時代の友人とチャットする。明日からまた仕事だ。どうせ今夜は眠れない。普通のサラリーマンの日曜の眠れない夜を過ごす。

なぜ家族を持つのか?

平日は死に物狂いで仕事だ。中途採用だから誰から仕事を教えてもらう訳でもなく、誰がサポートしてくれる訳でもない。即戦力と自己責任が僕たちに叩きつけられたキーワードだ。必死で盗み、学び、処理し、乗り切り、潰れないように、上司のパワハラなんて気にせず(当時はそんな言葉や概念はなかったが)、潰されず、仕事を覚え、仕事を続けて行く。周りで次々と潰されて家から出て来れなくなる連中(やはり中途採用の同世代)がいても、誰も気になんてしない。部屋で死んでいようと誰も気にしない。僕たちの目の前に仕事があり、お金が定期的に通帳に入って来ることに感謝だ。ただそれだけだ。上の世代?逃げ切るのに必死なんだろう。皆、傾いて行く世の中にあって必死だ。

なぜ家族を持つのか?

土曜日。疲れ切って昼近くまで眠る。昼過ぎにゆっくり洗濯と部屋の掃除をして、シャワーを浴び、ちょっとおめかしして出かける。居酒屋で幼馴染みと待ち合わせ、馬鹿話をしながら楽しく飲む。幼馴染みが連れて来た女の子は結構可愛いけど、僕はフツーに接し、フツーに冗談を言い、楽しく飲んで、3軒くらい一緒にハシゴして、電話番号を交換して、帰りのタクシーを捕まえ、乗り込む。

日曜日。少し勉強し、持ち帰ったシゴトをせっせとこなし、昼過ぎに遅い昼食を食べ、車で出かける。実家で母親を拾い、祖母の収容されている施設に到着し、もはや生きているのみで表情はなく、言葉も発しない祖母に母親がスプーンでゼリーを食べさせるのを、そばで静かに眺め、また母親を車に乗せて実家に戻り、母親を下ろしたらそのまま自分はアパートに帰って行く。もうすっかり日暮れだ。アパートの部屋で夕食を作って食べ、普通のサラリーマンの日曜の眠れない夜を過ごす。

なぜ家族を持つのか?

東京から帰って数年は僕はそんな感じで過ごし、古いフィルムカメラの優雅なシャッター音とか、ビンテージサックスの深みのある低音とか、好きな料理が出来上がる瞬間の芳ばしい香りとか、幼馴染と居酒屋で飲むドイツビールの味とか、誰もいない森の奥の渓流の水面に反射する光の束とか、要するに人間以外のものに休日は囲まれ、人間以外のものを味っていた。

そしていずれ、母親は年を取って祖母のようにもはや生きているのみで施設に収容され、そして僕は時々そんな母親に会いに行くだろうし、そしていずれ、その母親の最後を見守って、見送って、そうしたらいよいよ、人間以外のものだけが、僕の身の回りに残るのだな、と考えていた。そしてそう考えた時、それは地元に戻ってそんな人間以外のものに自分が癒され、ある意味、心を閉ざし続けて仕事に没頭する数年を経てからの事だったけど、急になんだか人恋しくなった。

誰かを好きになりたいな。

そういう感覚だ。出来る限り人間以外のものに囲まれ、心を閉ざしていた期間がなぜ自分に必要だったのか、当時の自分にちっとも分からなかったように、ある日急にそんな風に人恋しくなった理由も、当時の自分にはちっとも分からなかった。

誰かを好きになりたいな。

僕はある女性を好きになり、一緒に暮らし始め、結婚した。数年間、人間以外のものに気持ちが囲まれていたそのあと、僕は突然湧き出て来た人恋しさの延長線上で人を好きになり、そのままその人と一緒になった。

なぜ家族を持つのか?

生きることの無意味さを忘れ得る便利な制度だから?

知恵だから?

でも我々は、家族を持ち、子供を育て、孫の面倒をみて、確かにその間は無意味さの忘却に包まれて生きて行けるが、一方、死ぬ直前にはやはり無意味にたった一人で死んで行かなければならないのを知っている。どんなに家族に囲まれていても、死ぬときはたった一人で死んで行くだけだ。息子や娘の悲しそうな顔や孫の不思議そうな表情を病床で見たとき、本当に心の底から意味があったと思えるだろうか?或いは意味があったと思い込んで安心して死ねるだろうか?

それは誰も分からない。だから、無意味さの忘却は、家族を持ったとしても、一時しのぎでしかない。僕たちは無意味に生き、無意味に死んで行くことに変わりはないのだ。

ではなぜ家族を持つのか?

それは、「なぜ?」と問いを立てる対象では、そもそもないのかもしれない。生きることに意味や理由や目的がないのと同義ということである。それを理解せずにこの「なぜ?」という問いを立ててしまうと、僕たちは生きる意味が分からなくても生きて行けるのに、家族を持つ意味が分からないと言って、家族をもたないという選択をしてしまえる。それは少し不幸なことだ。もし家族を持つことに少しでも興味があるなら、なおさらである。意味を求めなくていい。なんか結婚しちゃえばいいのである。なんか子供が出来ちゃえばいいのである。不真面目な考え方だろうか?合理的な根拠が必要?家族を持つって生きることの一部なのに?生きるなんてどうせ不合理なのに?

 「浅田家」の主人公は末っ子らしく、風来坊だ。地元に残ったお兄さんと違い、気まぐれで、時に衝動的で、家族の暖かいまなざしと支援と友達のような関係に嫌みなく甘え、好きなことをして、好きなものを好きと言える。そしてその延長線上で好きな人と一緒になり、自分の「家族」に対しても、撮影対象である他人の「家族」に対しても、自然な目線を注ぎ続けカメラのシャッターを切る。そこに「なぜ?」はなく、合理的根拠も求めることはないだろう。

 僕たち40代は最も熾烈な受験戦争に晒(さら)されて来た世代だ。現代文のテストの回答は、どのような物語の人間関係の機微にも「理由」が存在するということを建前にしていた。他の教科も含め全てのテストには、必ず回答が1つ存在するというのが大前提だった。要するに必ずどこかに回答とそれを成立させる合理的な理由があると、徹底的に叩き込まれた世代だ。

が、世の中には回答が存在せず、人生にも回答は存在しない。生きることに合理的な理由なんて存在しない。そんな800年前に方丈記で書かれているような事でさえ、僕たちは未だに腹落ちできず、そのまま年を取り、「なぜ?」の中で迷い続けているのだ。

「人生であと一枚しか写真が撮れないとしたら、君は何を撮る?」

写真学校の先生に主人公が言われた言葉である。主人公はそこから家族写真を撮り始めるのだが、この「浅田家」という映画を観た写真好きなら、みんな観終えてから自分は何を撮るだろう?って考えたはずだ。

それが家族の写真なら幸い。

家族でなくても自分の大切な人なら幸い。

人間以外のものではなく、息をしている人間そのものであれば幸い。

僕たちは迷いの中で、死に向かって静かに生きて行く。それは、回答がないのに回答を求め続ける、悲しい人の宿命でもある。

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「ボクたちはみんな大人になれなかった」と「明け方の若者たち」と脂ぎった外国の友人

 サブスク全盛である。休みの日になんとなくテレビをつけても、テレビ番組を見ることはない。そのままチャンネルをアマゾンプライム、hulu、Netflix、と順番に流して行き、なんとなく興味があれば映画をだらだらと見て、何にもなければYouTubeに切り替えて「リラクゼーション:波の音」なんて流しながら、ソファーで昼寝する。

 だからとりとめもなく映画を見るのだけど、ついつい懐かしさから「ボクたちはみんな大人になれなかった」(森 義仁監督)とか「明け方の若者たち」(松本 花奈監督)を見ていた。どっちも東京の懐かしい風景が映画に散りばめられていて、あぁ懐かしいなぁとか、何にも変わってないなぁ、なんて感慨深く見ていた。

だから肝心のストーリーはあんまり頭の中に入って来ない。もちろん入って来るけど、そんなに重要にも思えず、ただただ、登場人物のいる店の内装とか、かかっている音楽とか、町の風景に目が行ってしまって、いつの間にかエンディングだ。

こりゃいかん。ちゃんともう一回中身を見て、感動の一つくらいしなきゃ・・・

 「ボクたちはみんな大人になれなかった」は世代的にもど真ん中である。だからなおさら「おぉー懐かしい!」が目白押しで、そのまんま見終わってしまった。そうそう渋谷の街並みも、みんなのファッションも、90年代はそんな感じだったね、あぁそうそう、こういう類(たぐい)の人たちがあの頃はいたなぁ、なんて思っているうちに、ありゃエンディングだ。

一方「明け方の若者たち」はグンと世代が下がって、二回りくらい若い人たちの話だけど、舞台が明大前とか下北沢とか高円寺とか、要するに自分が若者時代を過ごした町が次々出て来るものだから、ついつい、あぁまだこの建物があるんだ、なんて見入ってしまう。特に明大前は甲州街道にかかるその大きな歩道橋を毎日渡って会社に通っていたから、映画の中で登場人物たちがその歩道橋を渡る都度、ついそちら(歩道橋)に目が行って、登場人物たちの会話とか恋愛模様とか素通りしているうちに、ありゃエンディングだ。

で、ストーリーを何度見ても、つい、昔のままの居酒屋のカウンターだとか、あそこの公衆電話がまだあるのかなとか、要するに登場人物の心情の機微に対して一向に集中力が持てないのは、僕が既に年を取り過ぎたからだと気づいた。

町の風景だけではなく、まさに人間こそな~んにも変わらないんだな、という率直な感想と、そもそもの人間への興味の無さである。これは生悟りの感想であり、マズいなぁと思う。

 実際のデータが示す通り、日本人は男も女も驚くほどシャイで、一生で付き合うパートナーの数が、恐ろしく少ない。一歩、日本の外に出れば、自分たちの国民性のシャイぶりや保守的な価値観が、いかに独特であるか気づいてしまう。

そりゃ一部の人々は次々とパートナーを変えて人生を楽しんでいるが、僕たち日本人の大半は、ナイーブで相手との距離というものを物凄く意識して生活し、そうやって年を取って行く。だから、世界基準で絶対量がそもそも少ないから、一回の恋愛の持つ意味やインパクトが非常に大きく、壊れてしまった時の引きずり方も半端ではない。ピュアといえばピュアだが、若さなんてそんなに長く続かないのだから、そんな過去の1個の恋愛に引きずられては、人生がもったいないのでは?次のパートナーを探しに町へ飛び出して行けば?と、脂ぎった海外の友人(架空の想像の友人)あたりに言われそうである。

が、やっぱり僕たちはシャイで淡泊な日本人だ。大半は自分の数少ない「大恋愛」の一つ一つの記憶と思い出を宝物のように大切に、胸に秘め、生きている。なんと殊勝(しゅしょう)な人たちだ。開放的な南の国の人々からすれば、もったいない人生だが、本人たちは年をとって以降も感傷を味わいながらそんな過去の「大恋愛」を思い出したりするのが大好きなので、放っておけばよろしい。

確かなことは、世代が変わろうと、少なくともここ30年間は、賃金や物価がほとんど変わらなかったように、「若者」の恋愛の中身も登場人物も行為も、ひょっとすると、なんにも変わっていないかも、ということだった。

或いは、僕が偏狭なものの見方をしてしまっているのか?

昔から、男女問わず、本気でなくても相手と肉体関係を継続できる人は、肉体関係の相手をどこまでも記号として愛しているだけであり、どんなにきれいな言葉で感情を表現しても、相手を人間として愛することはなく、記号として愛するだけだった。そして記号は、代替可能な娯楽であり、代替して行くことに一抹の罪悪感とか後悔はない。ザイアク感とかコウカイとかの記号(おしゃれな思い出としての記号)にはなり得ても、相手という一個の感情を持った人間の心を潰したかもしれない、という生々しい罪悪感や、自分の人生に将来に亘って苦しみを与え続けるであろう具体的な痛みとしての後悔などではない。それは他の誰かと肌を重ねながら快楽の合間に思い出す、おしゃれな記憶のファッションである。

だからそういう類(たぐい)の人々は、何度でも別の相手と本気ではなく肉体関係を継続して行ける。実は配偶者ともそれが出来る。これは、シャイとかシャイではないとかの話ではなく、淡泊とか脂ぎっているとかの話でもなく、保守的とか開放的とかの話でもない。浮気する人はずっと繰り返しやり続けるよね、という、やはり男女問わずどこにでも、いつの時代にもある平凡な話である。そういう意味では、失恋しても次の恋を探しに町へ飛び出して行く脂ぎった海外の友人(架空の想像の友人)は、毎回本気で相手を人間として愛し続けるのだから、いたって真面目な人間なのである。彼は浮気はしないはずだ。もちろん真面目か不真面目かは個人の生き方の一領域の話なので、誰かが誰かを裁く話でもない。あるタイミングや年齢から急に真面目になってしまい、人が変わったようになる場合もある。もちろん逆もありき。一緒に飲みながら、最近こいつ急に色気づきやがって、熱く愛を語っているけど、やっとることヒドイな、なんてケラケラ笑って話を聞くこともある。悲喜こもごも、それぞれの人生をみな平等に歳取って行く。

なんてソファに寝ころんでテレビ画面を見ながら、ぼんやり考える。

 さて、実は「明け方の若者たち」を見て一番心に刺さったのは、主人公たちの恋愛の話ではなく、主人公の友人の若者が、優秀で前途有望だったろうに、結局、数年で会社を辞めて転職を決意するシーンだった。本筋には影響のない、些細なシーンだが、僕の心に刺さった。こんないい若者を手放してしまう、生き生きと活躍する場所を用意できない会社組織って何だろうか?という気持ちである。

もちろんフィクションの中の話だけど、その主人公の友人の若者を見ているうちに、会社の自分の部下の若者の一人の顔が思い浮かび(そいつも本当にいい若者だ)、もし新しい世代が新しい時代を築くチャンスを与えられていないなら、僕たちジジイになりかかっている連中は、上の世代が僕たちにやった事と同じことをしているのかもしれない、なんて思った。

それは最悪である。滅ぶべき国がさらに滅んで行くだけである。硬直した国や組織に新しい世代の活躍する場所が用意出来ないなら、せめて世界へ出して羽ばたくチャンスくらいは与えた方がいいのかもしれない・・・

 さてだらだらと過ごす休日の時間が続いて行く。次は何を見ようか。パンデミックが終わったら、「海外出張はホテルに出るゴキブリとかがデカいから苦手っス」とか言っているあの若者を、ニヤニヤしながら送り出してやろうかな。

老人だらけのこんな国には無いものを見て、何かを感じて、新しい時代を築いて行ってくれたらな、という期待がそこにはある。

もはや恋愛映画を見た感想とか、どうでも良くなっているね。恋愛映画なんて見る年齢ではなくなったってことだね。と、ソファに寝ころび独りごちてみた。

暖かい春の日の休日の一日だ。まどろみつつ、若者時代を過ごしたあの東京の風景を思い出している。

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東京の雪の景色を映像で見ると、北欧映画の数々を思い出す

東京は大雪になるらしい。というか今年はやたら寒く、やたら雪が降る。比較的暖かい僕の住むこの地方都市にも、今年は何度か雪が降った。

東京時代、雪がチラつくとなんとなく北欧映画が見たくなって、レンタルビデオ屋へ足を運んだ。当時は笹塚に住んでいて、会社から帰る途中、駅から出て甲州街道へ歩きながら粉雪がチラつくのを目にすると、スーパーに立ち寄って夕食の食材を買った後、アパートへ向かう途中にあったレンタルビデオ屋に入り、いろいろと借りた。そして一人鍋なんか作りながら、ゆっくりテレビデオで作品を見るのだ。「ボクたちはみんな大人になれなかった」の時代の一人の若者の話である。

 北欧映画といってもいろいろあるが、90年代であれば「春にして君を想う」が有名な作品だ。これは老人ホームから抜け出した幼馴染のカップルが、ホームを抜け出し、生まれ故郷へ死への旅路に出かける話を描いた美しいロードムービーである。作品中に映し出されるアイスランドの圧倒的な自然の風景の連続に、そこに住む人々の死生観、日本人が持つニュアンスと違う「自然に還る(かえる)」を見せつけられる、そんな作品だ。人間は自然から生まれ、自然に戻って行く、それが生と死ということ。

 最近見た北欧映画では「ハロルドが笑うその日まで」(ノルウェー映画)があり、やっぱり雪国の生活は大変そうだな、なんて思ったし、妻に先立たれて死のうとするところから始まっていて、あぁやっぱり北欧映画のストーリーにありそうだな、なんて思った。中身はものすごくブラックユーモアに富んだオシャレな作品である。

そしてこれも最近見た「幸せなひとりぼっち」(スゥエーデン映画)も、やはり妻に先立たれた老人が首をくくろうとするところから話が始まる。これは主人公の妻の墓参りの仕方(リラックスしてピクニックのように墓石のそばで過ごし、故人に語りかけ続ける)がものすごく自然でいいなぁ、なんて思った。日本の墓参りは、所作に無駄がなく短時間のご挨拶で終わる。だから主人公がダラダラと墓のそばで過ごす、というその様子がとても印象的だった。好きなシーンだ。

と言う訳で、東欧の映画はなぜか死を扱いたがる。何か理由があるのかな?

そんな大学の講義(映画論)とか、そういう類の比較文化論がありそうだけど、素人の僕は不案内だ。ただ、雪景色の中で暮らし、雪に閉じ込められた長い冬を、暖かい家の中で長時間、静かに過ごし、生と死をじっくり、そして、人生を、ゆっくり見つめ直す時間を、彼らは大切にしているのかもしれない、なんて想像している。

社会保障の税負担率がべらぼうに高い、幸福度は高いが自殺率も高い(実は日本人ほどではない)、いろいろ言われるけど、それぞれ国にそれぞれの歴史と事情があり、そもそも僕たちは「北欧」とまとめているけど、「東アジア」で日本と周辺の国がひとまとめにされるくらい乱暴な話だと思う。

だから、安易な社会論や比較文化論に陥るのではなく、フツーに「うん、そうだよね。最後はみんな一人で死んで行かなきゃ。だから残される側は誰だって辛いよね。そしてその苦しみは大昔からニンゲンが味わって来たことだし、大昔からのニンゲンのテーマの一つだよね」くらいの素直さで、僕たちは北欧映画を見ればいい。

でも、なぜこんなに扱うテーマは重いのに、北欧映画はいつだって、自然の圧倒的な美しさとか、人間の滑稽でユーモラスな哀愁とか、ある種の明るさ伴うのだろうか?この明るさは、北欧映画の大きな魅力の一面だ。

とここまで考えると、要するに雪景色の中に閉じ込められて、ニンゲンがニンゲンの生きるという事と死ぬという事をじっくり考えた結果が、こんな明るい作品として表現されるなら、ひょっとするとニンゲンの生と死の本質は、存外、明るいものなのかもしれない。それは僕たちにとって大きな希望だ。映画の主人公たちも、結局は希望を取り戻しながら生き、死んでいく。

世界は美しい自然に満たされ、人間はやっぱり身近な人間を愛し続け、いつか雪景色の中に閉じ込められても、君を想いながら幸せに独りぼっちの生活を楽しみ、いつか笑って死んで行ける。ある人はそれを人間の強さと言うかもしれない。でも僕はこれを人間の明るさと言う。

だから、僕は雪景色に厳しさとか孤独のイメージを持ってはいない。それは北欧映画から学んだこと。東京の雪景色に、あの北欧映画の数々を思い出しながら、ニンゲンが生きることと死ぬことの明るさを思い返している。希望はあるということだね。

東京はもうすぐ大雪になるらしい。

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ロスジェネ映画論(仕事探しの合間に一息)

親ガチャという言葉で一番好きな映画を思い出し、家族のことを思い出して、やっぱりイタリア郷土料理のティンパーノを作ってみたいと思った

 一番好きな映画はと言われれば、「シェフとギャルソン、リストランテの夜」を挙げる。もちろんそれ以外にも甲乙つけ難い映画はいっぱいあるけど、どれか一つを選べと言われればこの作品を選ぶ。内容はこんな感じだ。

 1950年代のアメリカの田舎町で、イタリア移民の兄弟(プリモとセコンド)がイタリア料理のレストランを営むも、アメリカ人向けの料理を作れない兄プリモのせいで店は全然流行らない。プリモは頑固なシェフで、自分たちの故郷の「本物の」イタリア料理にこだわっているのだ。アメリカ人好みの味付けに変えた料理を出せば店は流行るだろうが、プリモは自分のプライドがそれを許さず、絶対にそんな料理は作らない。そんなカタブツの兄のせいで店の経営がどんどん苦しくなって行くから、弟のセコンドは苛立ちを募らせつつ、兄の頑(かたく)なさが理解できず、それでも資金繰りに苦労しながらなんとか店を存続させようと努力する。

そんな中、知り合い(ライバル店のオーナー)に、宣伝の為に有名なジャズシンガーを店に連れて来てやると話を持ち掛けられ、兄弟はこれを最後のチャンスとばかりに財産をはたいて大一番のディナーを準備するが・・・

 個性的な一人ひとりの登場人物の魅力はもちろん、流れるジャズミュージックのセンスの良さ、ディナーで出て来る料理が全部美味しそうに見えること、この映画の魅力は尽きない。

が、僕はそんな風に、音楽いいなとか、美味しそうだなとか、軽い気持ちで見ていたけど、エンディングの次のシーンで不覚にも号泣した。

朝、疲れ切った夜(この映画の原題はBig Night。兄弟は大騒ぎの末、それまでの互いへの不満をぶつけ、大ゲンカしている)を越えて、途方にくれながら、兄弟二人は調理場で黙って肩を並べ、卵を焼いたものを食べる。店の存続は絶望的であり、将来は見えない。二人は何も会話をせず黙々と食べる。そしてお互いの背中を叩きながら、肩を組んで、やっぱり黙々と食べるのだ。それがエンディング。たったそれだけ。が、僕は号泣した。なぜか?

これは二人きりの男兄弟を持っている人にしか分からない感覚だ。そう、男二人の兄弟というのは、たいてい、本質的には正反対なのである。他人の目から見れば表面的には似ていても、根本的な価値観とかは、どういう訳か同じように育てられても正反対になってしまうのである。

そしてそんな決して越えられない違いがあるからこそ、ある地点で、どこかの場所で一緒に宿命とか運命を共有した瞬間、僕たちは世界中の誰よりも繋がりを感じるのである。プリモとセコンドが二人で一言も交わさずに朝食を食べるそのシーン、絶望的な状況の中、肩を並べて黙々と食べるシーンに、僕は自分と自分の兄とのこれまでの人生をつい重ね合わせ、涙が不意にこぼれた。

 家が貧乏、というのが僕の兄の人格形成の中で大きな意味を占めていたのは間違いない。バブル全盛で友達の親がやたら羽振りよくなり、海外旅行へ家族で行ったり、子供に家庭教師をつけたり、留学させたり、そんな一方で、僕たちの父親は職人の身で失業し、自転車に乗ってアルバイトしに行っていた。母親もパートに行って家計を支えた。借家を転々とする。それが僕たちの子供時代だ。

が、両親は賢い人たちで、朝から晩まで働きながら、自分たちの田舎にある実家から野菜や米を送ってもったりして、子供たちに食べるものには苦労させなかった(子供たちに空腹な思いはさせなかった)。田舎から送られて来た野菜はどれも新鮮で、母親はその新鮮さを子供たちにニコニコ語り、子供の僕はウン、こりゃ確かにうまいぞ、新鮮な野菜が食べられるって運がいいな、おじいちゃんとおばあちゃんに感謝だ、なんて素直に考えていた。という横で、一切、料理の味に感想を言わない小学生の兄は、黙々とご飯を食べていた。

教育も同じだ。両親はお金がないから僕たちに一切の習い事をさせることが出来なかったが、通信教育くらいならなんとか費用を捻出できたので、それを申し込んで子供たちにやらせた。小学校時代は学校から帰って来ると、学校の宿題はもちろん、その通信教育の算数と国語の課題(テスト)を1日1枚やってからしか、外へ遊びに行かせなかった。僕たちは学校の宿題はすぐに終わらせることが出来たけど、その通信教育のテストはすごく難しくなかなか終わらなかった。

夜、父親は子供たちから提出されたテストの回答を添削し(正解集は父親が持っていた)、子供たちに計算の間違いや、文章の間違いを指摘して教育した。中学しか出ていない父親でも、さすがに小学生くらいの算数や国語は教えられる。

その後、子供たちが中学に入ると、Z会(これも通信教育)を使って勉強させた。Z会の添削による指導内容は非常に中身が濃く、もはや父親がフォローする必要がなかった。僕たちはそんな風に、塾に行かなくても学校のプラスアルファで勉強していたし、僕は「ああ学校の宿題だけなら余裕なんだけどなぁ」なんて思いながら、それでも通信教育の練習問題をせっせとこなしていた。

兄はそれでも足りないと判断したのか、さらに書店で参考書や問題集を買って来て自分で勉強していた。とんでもないガリ勉だ。マンモス中学に通っていて、1学年の人数が480人くらいいたけど、兄は中学3年間の実力テストの成績をずっと1位で通し、他に譲らなかった。3つ年上だったから、兄が卒業すると同時に、僕は同じ中学校に入学し、兄の学年の担任をしていた先生たちがそのまま下りて来て1年生となった僕たちの学年の担任をしたので、入学時に「お前があいつの弟か?」なんて授業で言われたのを覚えている。もはや伝説の人だった。僕はどんなに勉強を頑張ったって学年で1位なんてとれないから、褒められることもなく、マジ嫌だなぁ、損だなぁ、なんて思っていた。

だから次男坊である僕は、美味しい野菜もたくさん食べさせてもらったし、あんまり好きじゃない勉強も、人よりたくさんさせられたな、なんて振り返るのだ。家が貧乏だからって、それで何かを感じることなく、僕はのびのびと成長した。

が、長男というのは、全然違うみたいだった。

兄は何かを背負うように勉強していたし、弟の僕が学校のテストで悪い点を取ってくると間違ったところを僕に教え、僕の理解が遅いとぶん殴った。なんて人だ、勉強で殴られたのは、両親でも先生でもなく、兄貴だったのだ。そして彼は思春期になると、自分たち兄弟の置かれている状況がいかに将来にとって不利か語り、一生懸命がんばらなきゃいけない、と僕によく言った。高校生として進学校に通う兄は、大学受験に向けた勉強の中で、さすがに独学で勝ち抜く不利を感じ始めていたようだ。都市部の大手の予備校へ電車で通わせてもらったり、家庭教師をつけてもらったりするライバルたちを凌ぐのは、かなり難しい様子だった。教育にお金はかかり、お金をかけてもらえる子供が、将来お金を稼げるように有利な立場に立ちやすいのである。古今東西、どこでも同じだ。

で、子供のころからご飯を食べることも勉強することも、何も文句言わず黙々とやってきた兄は、思春期に一気に苛立ちを募らせ、父親と対立することが多くなった。職人の父親も気の強い人だったから、まぁ男の子がいる家庭にはよくある話だけど、殴る蹴るもフツーにあって、古い借家の壁やドアは穴だらけだった。そんな日々だ。

そして兄が高校を卒業する際、彼が選んだ道は、「分子生物学の勉強をしたいが、そんな学科はこんな田舎の駅弁大学にはないので、都会へ出て行く。奨学金を借りて全部自分でやるので、今後は自分の人生に親は関わらないでもらいたい」というものだった。

そしてその後、本当に家を出て都市部の国立大に入学し、国の金で修士号まで取ってしまった。生活費は貸費の奨学金を借りたみたいだったが、学費は大学4年間の分も、大学院時代の2年間の分も、途中でアメリカに1年間留学した分も、全部、試験を受けて給費の奨学金を手に入れ、国に金を出させた。有言実行である。

父親は本当は、長男である兄に地元の国立大学を出てもらって、地元で働き、家庭を築いてもらって、孫の顔を見たかったのだろう。家を出てからほとんど実家に立ち寄らない、そして立ち寄っても父親と顔を合わせずに帰ってしまう兄、「お金を稼げない」ということで思春期に入ってから自分を罵倒し続けるそんな兄に対して、一人の男としてのプライドや、父親としての面目が潰され、口を開けば怒りが出て来る一方、その長男の近況が気になって仕方ないみたいだった。母親に「あいつはどうしているか?」を何度も聞いていていたらしい。

一方、同じ環境で育てられた僕は野菜の新鮮さに感動しつつ、料理の味にうるさい、そして勉強好きの兄貴のおかげで、そこそこ勉強させられたぞ、なんて考えている、ちょっとのんびりした人間に育った。「東京へ行って色んな種類の人間と接し、たらふく遊んでみたい」なんて好奇心剥き出しのお馬鹿な動機で大学に入学し、兄同様に仕送りがなかったから生活費こそアルバイトで稼いで食いつないだが、学費は全部、貸費の奨学金を利用した。利子がつかなかったけど、全額を返し終わるのは30歳を越えてからだった。兄弟でもぜんぜん違うや。なんて今でも思っている。

でも僕だって、大学に入ってから、遅ればせながら、今でいう「親ガチャ」の意味を理解したのだ。大学はぶっ飛んだ金持ちの子供が比較的多く通うことで有名な私立大学だったので、時々、世離れした同級生に出会うこともあった。生まれた時から「お金」を意識する必要のない連中だ。そういう身分の人たちが結構の数でいるということ。それは知識として知っているのと、実際にそういう階級の連中と接するのでは、全然違った。それはこの世の不合理な真実の一つだ。

そして大学卒業後、超買い手市場の就職戦線で玉砕した同級生たちは、別の途(みち)を見つける際に、両親の支援を更に得られるかどうかで運命が分かれた。ある者は公認会計士や司法書士を目指して、両親からの支援を更にもらって資格学校に通い始め、ある者は卒業直前に休学して海外留学し、英語力を武器に翌年の就職活動を改めて戦い、社会に潜り込むことが出来た。他方、僕同様に大学卒業にて、「もうこれ以上はお金がありません(お金は借りられません)」という連中は、ブラック企業の社員だろうと、派遣社員だろうと、フリーターだろうと、食べて行くために、どんな形でもいいから働くのみだった。

20代に「金がねぇ、奨学金の返済が重いやぁ、仕事がブラック過ぎだぁ、世の中は俺たち若者のことなんて見る余裕はねぇ、どっかで死んでても気にしねぇ、転職してランクアップなんて時代は当分は来ねぇ」なんてヒーヒー言いながら、若さを燃焼させていた。

「親ガチャ」なんて今に始まったことではないし、大昔からもっと酷いレベルであったし、海外ではもっと露骨である。それが国際基準である。この世が不平等なのは、夜が明ければ朝が来る程度に当たり前の話なのである。

でも遅ればせながら、僕は持つ者と持たざる者との違いと、決して人生は公平ではないことを、20代の自分や周りを見渡して、感じていた。幸い、既に僕は大人だったから、「親が」なんてアホな話ではなく、「自分が」どうすれば持たざる者のまま年を取り死滅しないで済むのか、他の同世代と酒の席でそんな話をしながら、考えていた。

そして僕が27歳の時、父親がガンで死んだ。

いよいよ危篤かもって母親から電話があったけど、僕は当時、東京にいて、地元の病院へ到着した時は既に亡くなった直後だった。そしてそこにほぼ10年ぶりに顔を合わせる兄がいた。僕は東京へ出て行ってからも、お盆や正月には実家に帰ることがあったが、兄は必要がない限り実家に立ち寄ることがなかったので、僕が高校を卒業して以来、ほぼ10年間は、電話で話すことがあっても顔を見ることがなかった。実に10年ぶりに兄の顔を見たのである。泣き叫んで母親がしがみついているベッドの上の父親の亡骸(なきがら)の向こう側に、すっかり大人の顔をした兄がちょっと手を挙げ、笑顔で「久しぶり」ってあいさつした。僕もちょっと手を挙げ、笑顔で返した。奇妙なご臨終の場面である。

その後、葬式の段取りをするところから葬式までの数日間を一緒に過ごしたが、兄はあんまり変わっていなかった。修士号を取ってまで勉強した分子生物学はとっくの前に放り出し、ある会社の役員としてその会社の海外進出や株式上場に熱中している最中だった。人に使われるサラリーマンは嫌だと言っていたから、そのままその言葉も有言実行をし続けているみたいだった。ブチブチ文句を言いながら、土日を楽しみに人に使われる道を選んだ僕と、やっぱり対照的だ。

でも僕たちは互いに近況を雑談しているうち、あぁなるほどな、と感じていたのだ。そう、僕たちは極端に貧乏ではなかったけど、お金には苦労しているし、これからもこの圧倒的についた差(高度経済成長からバブルまでにその家がどれだけ財を蓄積できたか)は、付いて回るんだろね、という諦念に似た感覚である。第二次ベビーブーマーたちは、その後どんなに頑張っていい大学に行こうが、どんなに努力していい会社に入ろうが、そんなんでは埋められないくらい、親の世代で決着がついていた。まぁ仕方ないよね。焼け野原から復興し、大きくコケるまでの2世代くらいの間で勝ち負けが決まったのがこの国の戦後の富の歴史だからね。

という訳で、父の遺産は、郵便貯金の15万円だけだった。借金は一切残さず、きれいな生き方をして、ジャズを聴いて楽しんで、愛する妻が大好きで、あっという間に死んだ。羨ましい限りだ。

その後も、僕は地元にUターンして来たが、兄は実家に帰ることなく、立ち寄ることもなかった。父が死んでだいぶたつけど、僕が年老いた母が住む実家の近くにいるから、なおさら安心して、1回も帰って来なくなった。兄はまだ、思春期に感じたあの不公平感と不利な状況を覆すために、外で戦い続けているのだろうな、なんて想像し、同じ兄弟として半分は理解でき、でもそんな風な価値観や生き方を選ばなかった僕との違いを不思議に思っている。

きっとあと数十年たって、それまで一生をかけて築いて来たものが、一方は会社だったり、一方は家庭だったりして、でもその頃にはいずれも全て失っていて、老人ホームで再会したら、僕たち兄弟はプリモとセコンドみたいに肩を叩きあって、黙ってご飯を食べるのかな?生き方も価値観も違う二人が、でも必死で生きて来た結論が、こんな感じのしょぼくれた老人たち、っていう哀愁を感じながら、僕たちは再会するのだろうか?

そう、その時はきっと、僕たち兄弟は、それまでの生き方や価値観の違いを越えて、長い道のりを越えて、生まれて来た宿命と一緒に育った運命を改めて共有し、世界中の誰よりも繋がりを感じることが出来るのかもしれない。それはもはや年老いて、互いにこの世を去る直前の話かもしれないけど。

ちなみに、この作品にはプリモが渾身の力を込めて作った「ティンパーノ」という料理が登場し、僕はこの作品を通じて初めてこのイタリアの郷土料理を知った。色々な具材をパスタで包み込み、大きなボールで焼いた料理である。糖質制限の食品が全盛の今のこの国にあってはトンデモ料理だけど、自分たちが美味しいと思うものを全力でぶち込んでそれらにハーモニーを与え、一つの真心を込めた料理に完成させる、という昔ながらの郷土料理の、ニンゲンの気持ちの温かさを感じることが出来る、まぁその作品を見たら必ず食べたくなる料理だ。いつか挑戦してみたいな、なんて思っていたら、結構これに挑戦して料理している(やはりこの映画を見て)人がいるのをネットを見て知った。なるほどね。いいものは皆いいと評価するんだね。

 兄は人に使われるのは絶対イヤだから、人を使う側になりたい、と若い頃から言って、血の滲む努力をして来たみたいだが、実は「人に使われるのは絶対イヤ」というのは、まさに兄が軽蔑した、誇り高い職人の父の口からよく聞く言葉だった。だから父は一つのアルバイトが長続きしなかった。そして料理の味には無頓着で、子供時代に母親が大失敗したヒドイ味付けの料理を、父も兄も同じ顔をして、文句を言わずにむしゃむしゃ食っていた。要するに、子供の僕から見たらそっくりだった。

というのを、弟の僕はいつか、老人ホームの食堂で兄の肩を叩きながら、言ってやろうと思っている。

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ロスジェネ映画論(仕事探しの合間に一息)

怪人プチオは今でいう無敵の人とは全然違うけど、この世で最悪である

 学生時代に銀座の地下通路にあった映画館「銀座シネパトス」で「怪人プチオの密かな愉しみ」という映画を見た。おそろしくマイナーな映画で、でも迫力のある内容で、第二次世界大戦中のナチス占領下のパリに実在した医師プチオの話である。

占領下という異常な状況、混沌とした時代背景の中で、プチオは国外逃亡を手助けすると言ってユダヤ人をだまして自宅へ匿い(所有する貴金属も持って来いと指示した上で)、ワクチンの接種証明が必要と偽って毒薬らしきものを注射し、一室に閉じ込め死んでいくのを待つ。そして死体は焼却炉で焼いて、金品を自分のものにしてしまう、を繰り返した。

なんと30人以上が犠牲になったというのだから、いわばサイコパスによる連続殺人である。サイコパスというと快楽殺人と結び付けて考えてしまうけど、たいていのサイコパスはもっと人を殺す動機が平凡であり、「だってご飯食べるにはお金がいるでしょ?殺したらお金が手に入るでしょ?だからやるだけ」という、生活のためにバイトしなきゃ、と同じニュアンスで人を殺すサイコパスの方が圧倒的に多く、実は人間の自由意志と対極の生き方をしていて、プチオはその典型だった。

どういうことかと言うと、もしこの世に善悪などなく、すべての価値は相対的で、実際には自然法則の一部として我々はただ生きて死ぬのであれば、「生活のためにバイトしなきゃ」と「生活のために人を殺しに行かなきゃ」に大きな違いはない。だって、たまたまバイトは合法(無罪)で、人殺しが非合法(有罪)な価値観をもった文化に我々はいるだけであり、そんなものは未来永劫に持つかどうか分からない。現に、殺人は悪、と言う一方で、我々は正義の為の戦争、という矛盾した概念をフツーに受け入れている。文化とか、そこから導き出された善悪の価値観なんて一面ではそれ程度のものだ。だから、サイコパスたちからすれば、「いや・・別に特別なことをしてる訳じゃなくて、ほら、食べるためにはお金がいるでしょ?そのためには・・」と簡単に一般的な人々が持つ善悪の彼岸を乗り越えて行ってしまえるのは、別に不思議なことではない。

 でも、1+1=2の数式みたいに、簡単に考えて割り切れないのが人間であり、そこに自由意志という不思議なものが見え隠れする。

「やっぱり人は殺せない・・」もしそれが合法的であったとしても、正義の為と言われても、なんとなくザラッとした抵抗があるなら、それは、自然法則に支配されない自由な選択(より良くあろうとする選択)が人間にはあるはずであり、だから善悪が存在すると我々は実感でき、「殺さないという選択肢もあったはず」という自由意志を前提に裁判所で罪人は裁かれる。

まぁ真実はともかく、人間は自然法則に抗えないまま生きて行くしかないのかもしれないけど、それじゃ嫌だ、自由な選択があって、だからこそ善悪というものがあって、だからより良い方を選択し、善良に生きたいんだ!というワガママな感じがいわば人間と言う種である。

一方、お金の為にバイトするように人殺しをするサイコパスが一定割合でいて、昔からいたし、これからもいる。彼らにとって他人は仕事の対象であり、同情や共感の対象ではない。そもそも同情や共感というものがない。

ということで、この類のテーマは繰り返し今までも映画で取り上げられ、これも古い映画で恐縮だけど、コーエン兄弟の「ファーゴ」とか「ノーカントリー」にもこの手の平凡なサイコパスは登場する。いずれも主人公(こっちは真人間)が「どうしてそんなことが出来るのか、私には全く理解できない」と言うのだが、それはメジャーがマイノリティに対して言うコトバであり、言われた側には何も響かない。

 なぜこんな話を長々したかというと、最近「無敵の人」という言葉をよく耳にするようになり、実際にそういう人が怒りのやり場を求めて彷徨い、どこかで発散して社会的な事件を起こし、それを見て、したり顔で世の中が終わったみたいな言説を吐く人が多いから。

 無敵の人は一定割合で昔からいたし、これからもいる。でもそんな話ではなく、無敵の人はいわばプチオとは違うということ。無敵の人は怒りの源(みなもと)に高すぎるプライドがあり、自分の作りたかったストーリーが破綻した上で善悪の彼岸を越えてしまっているが、プチオはそもそもストーリーとか破綻とか苦しみとかがなく、そもそもプライドといった価値に付随する概念もなく、本棚から本を取り出すように人を殺してしまった。それはある意味、本当の無敵であり、最悪である。最悪の中の最悪である。

「常識よりもお菓子がいい」

自転車に乗って街を疾走するプチオの言葉だ。常識って曖昧なものよりも、ってお話だが、だからこそ逆に、僕たちは常識と言うカビ臭いけど、人の手渡しで伝わった、信じるに値するはずのものを大切に、今日も愚直に生きて行く。それは矛盾を抱えつつ、自然法則という殺伐としたものに抗い続けて来た、つまりは、より良く生きて行くために戦って文化や道徳を築いて来た人間の歴史そのものである。

 だから、プチオのような本当の意味で無敵の人が一定割合を越えて現われない限り、僕たちは、僕たちのこの世界を決して簡単に「終わった」なんて言ってはいけない。

それは人間の尊厳に対する本物の最悪とは何かを、全然理解していない、生悟りの、ぬるま湯説法に聞こえるのである。

僕たちは、どんな不遇でも、惨めでも、それでも人生に価値がある、人を愛することに意味があると言い続けてこそ、日々の生活に感動し、人間でいられる。

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ロスジェネ映画論(仕事探しの合間に一息)

パルプフィクションと横浜の子供たち

 もう四半世紀以上前の話だ。地方から上京してきた僕は、専門課程は都内にあったけど教養課程はキャンパスが横浜にあったので、出だしは横浜の寄宿舎で暮らし、横浜でアルバイトし、横浜で友達を作って、横浜で青春時代を謳歌した。

 90年代というのは本当に暗い時代で、バブル崩壊後の長い冬の時代が続き(そのころはそのあと更に何十年も冬が続くとは思っていなかったが)、自然災害が立て続いて発生したり、得体のしれない猟奇犯罪も立て続けに起こったり、前代未聞の都市型テロが起こったり、そんな中、山手線や中央線へダイブする中年サラリーマンの横を、茶髪のルーズソックスがチーマーと腕を組んで闊歩するような、魑魅魍魎(ちみもうりょう)とした人の欲動が渦巻くどす黒い時代だった。

 そんな中、僕は人格形成の最期を完成させ、そこで暮らしていた。横浜の友達は生粋のハマっ子が多く、地方都市出身の僕にはその遊び方、人との距離感、ファッション、タバコの銘柄の選び方や使っているジッポライターの絵柄まで、すんごくオシャレだなぁ、と思ったものだ。当時、タランティーノが流行っていて、大ヒットしたパルプフィクションを映画館に何度も見に行ったが、映画館を一緒に出て、バーでたくさん飲んで、ちょっと酔っ払ったハマっ子の女友達が、映画でユマ・サーマンが演じていたミアのダンスを駅に向かう路上で真似した時、「あぁ、こういう人たちがいるのが都会なんだ」なんてしみじみ思ったのを覚えている。青春時代のまばゆい一瞬の光の光景である。

 パンデミックの前、家人を助手席に乗せてなんとなくドライブで走り、なんとなく高速に乗って、なんとなく何時間も走らせているうちに横浜にたどり着いた。すっかり日が暮れて、横浜はきれいな夜景を港の水辺の表面に浮かべ相変わらず光り輝いていた。仕事では出張で立ち寄ることがあっても、オフィスや倉庫と駅をまっすぐ行き来するだけで、とても街の風景なんて見ていない。が、こうして休暇になんとなくたどり着いてじっくり街を見ていると、なんだか青春時代を思い出して感傷的になった。あぁあのあたりを二十歳前後の自分が一人でテクテク歩きながらバイトに向かい、自分が何者でもない大きな不安と大きな希望を胸に、一生懸命前に進もうとしていたなぁ、とか、まさに友達のハマっ子たちと一晩中飲み明かした裏通りの場末感が今もそのまま残っているなぁとか、いろいろと昔の場面が思い出される。

宿泊なんて計画外だったから、家人が慌てて予約したホテルだったが、みなとみらいの観覧車の前にあって、ベイブリッジを正面に、部屋からは美しい夜景を見渡せた。お上り(のぼり)さんとして今夜は楽しもうと思い、風呂に入ってバルコニーに出ると、缶ビールを一気に飲み干し、横浜の港を見渡した。

 もうすっかり年を取り、初老に近づいた自分は、十分に何者かになっている。さすがに四半世紀の間に、誰かにとっての何者かであり、どこかの組織にとっての何者かに落ち着いている。不安もないが新しい希望といったものも既に失いつつある。そんな感じだ。でもロスジェネとして生きて、生き延びて、しみじみ人生を味わっている。そう思った。いつだって目の前には大きな割れ目や落とし穴があり、それでもそこを僕たちは歩いている。

あの90年代の青春時代に出会った超おしゃれなハマっ子たちは今何をしているのかな?きっとおしゃれな大人としてこの横浜のどこかで暮らしているんだろな。またいつか会えるといいな。なんてちょっと酔いが回りながら、夜景をみてそう思った。

ダメだダメだ。こんなとこで感傷的になっていてはダメだ。まだまだ人生は続き、まだまだ厳しい時代を、僕たちは死ぬ直前まで必死で働き続け、明るく生きて行かなきゃいけない。

僕はバルコニーから部屋に戻ると、もう一本缶ビールをあけた。こういう気まぐれ旅行をニコニコひっついて来て楽しそうにしている家人がそこにいた。

「何を思い出していたの?」

「別に」

明日はまた、数百キロを無事にこの人を乗せて家に帰らなきゃね、なんて独りごちて、僕はまたビールを飲み、90年代の若者だった自分に語り掛けていた。そしてベッドの上に寝転んだ。

 すっかり年をとってしまった自分がここにいる。

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ロスジェネ映画論(仕事探しの合間に一息)

ベティ・ブルーにみる過剰に自由な恋愛はいずれ破滅するしかない

 大好きな映画は何?と言われれば、いっぱいあり過ぎて悩んでしまうけど、これまで繰り返し何回も見てきた映画は何?と言われれば、ジャン=ジャック・ベネックスの「ベティ・ブルー」を挙げる。要するに好きか嫌いかはともかく、ついつい何度も見てしまう映画なのである。

 初めて見たのは大学生になったばかりの頃だ。実際にこの作品が発表されてから8年くらいたった後だったから、レンタルビデオ屋では既に「昔の名作コーナー」に並び始めた頃だった。因みにベティ・ブルーというのは英題であって、フランス語の原題は「朝、摂氏37.2度」という女性が妊娠しやすい体温とのことで、これだけで相当クセの強い監督が、相当クセの強い役者を使って、相当クセの強いストーリーに仕上げているのが十分想像できると思う。じっさい、主人公の男前(ゾルグ)を演じたジャン=ユーグ・アングラードは、その後「キリング・ゾーイ」で、汚らしいハイパーダーティな役を演じた稀代のカメレオン役者だ。

 物語は主人公ゾルグがベティという女性に出会い、恋をするという単純な話である。テーマも古典で言うところのボニー・アンド・クライド、90年代のナチュラル・ボーン・キラーズに見られるような、社会的な道徳や法をどんどん逸脱して、追われながら更に激情が増して行くような、そういう激しい恋愛である。ちょっと違うのは、ゾルグもベティも基本的には社会的な道徳や法を破るということはなく、従ってボニーやクライドのように警察に追われることもなく、ただただ、ベティの激しい愛情に振り回されながら、ゾルグが新しい生活へ、新しい生活へと巻き込まれて行く話だ。ベティのゾルグへの思いは、何かに取り憑かれたような、何かから逃げ出すような激しさだったから、やはり、二人は流浪していく生活の中で、つまり、追われるような緊迫感の中で激しく愛し合って行く。

 ゾルグは小説家志望のフラフラ生きていた優男(やさおとこ)だったから、ベティに振り回され放題だった。これがこの物語の肝(きも)だ。家族との結びつきや社会との結びつきがあれば、我々はそうそう振り回される訳にはいかない。サラリーマンをしていたら、どんなに大好きな女性であっても、朝、目覚めたベッドの中で「今日もスーツ着て頭ペコペコ下げに行く気なの?あなたはもっと偉大な人間よ。あなたの上司はもっとあなたに敬意を払うべきなのよ。今日は私があなたと一緒に会社に行って、その馬鹿上司にはっきりと言ってあげるわ。俗物は俗物らしくもっと謙虚にしなさいってね」みたいな感じで言ったら、そりゃ自尊心は満たされ、すごく嬉しい一方、マジごめん、それ本気でやられたら俺、無理だわ、ごめん、さようなら、というのが普通である。我々は家族や社会との結びつきの中でしがらみを抱いて不自由に生き、この不自由さの制約の中で恋愛する。相手に理解を求めるというのは、そういう不自由さ(ごめん、急な出張が入ったから土日に予定していた旅行はキャンセルだ、みたいなこと)に対する許しを請うということである。

でもゾルグはそんな制約がなかったから、自由に振り回され続けることが出来た。ベティはゾルグの雇い主を2階から突き落とし、火の灯ったランプをその家主の家に投げ込だ。二人はそのまま走り出す。果てしなく自由な、過剰に自由な大恋愛の始まりだ。

 自由というのは大昔から人間にとって哲学上の主要なテーマの一つで、それだけ人間にとって厄介な代物ということである。エーリッヒ・フロムというドイツ人が「自由からの逃走」という題名そのまんまの内容に沿って、自由主義的なワイマール共和国がナチスの独裁国家へなぜ変貌して行ったのか、なぜ人間は過剰な自由から逃げ出すのかを書いていたけど、そんな小難しい話は別にしても、あんまり自由過ぎると人間は不安で不安定になり、バランスを崩して過激な方へ走りがちだよね、そして立て直せないとそのまんま身を持ち崩すよね、という普通に年齢を重ねて行くうちにほとんどの人が理解する話のことだ。

僕たちはある程度の不自由さの中で、ブチブチと文句言いながら、平凡に生きるのが一番幸せなのである。恋愛もおんなじだ。若くして大成功を収めたIT長者たちの恋愛はだいたい長続きしない。お金が溢れ返っているということは、過剰に自由ということだ。確かにお金がうなるほどあれば、彼女を誕生日にサプライズで自家用ジェットに乗せてどこかへ飛んで行けるかもしれない。機内でシャンパンを空ければ、この世の天国、自分たちが世界の中心であるかのような高揚感の中で、愛し合うことが出来る。が、その彼女とは最後まで添い遂げることが出来ないだろう。ボニーとクライドは銃撃戦の中で激しく恋愛の炎を燃やし尽くし、ゾルグとベティはフランス映画の瑞々しいお洒落な舞台の上で、どこまでも自由に、過剰に自由に愛し合い、走り続けた。そして結果は決まっている。いつまでも二人で仲良く暮らしましたとサ・・・なんてハッピーエンドはあり得ない。過剰に自由な恋愛は必ず破滅するように出来ている。それは人間の性(さが)でもある。

 じゃあなんで何回もこの映画を見るの?というと、典型的なフランス映画でとにかくお洒落なのだ。撮り方も音楽も、登場する人物も、衣装も、家具も小物も、登場人物が食べる料理もそれが載せられている食器も、全てがお洒落全開で、そこで主人公たちによる過剰に自由な恋愛が繰り広げられ、ついつい見入ってしまうのだ。好きとか嫌いとかじゃなく、見入ってしまう。過剰な自由はちょっとゴメンだけど、休日のちょっとした贅沢は、小市民的な自由恋愛としてささやかな楽しみになる。ベティ・ブルーはそのヒントをくれるオシャレ教科書だ。

 だから僕は、ベティ・ブルーを見返すと、時々は奮発して、安月給のサラリーマンには似つかわしくないお洒落な高級レストランで、たまには家人と美味しいご飯を食べてみたくなる。ハメをはずして束の間の過剰な自由を味わいたいのだ。店の雰囲気を楽しみ、食事を楽しむ。そして時々そんなことが出来れば、僕はそれで十分だ。過剰に自由な恋愛は素敵だが、僕の人生にはちっともいらない。

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ロスジェネ映画論(仕事探しの合間に一息)

映画館と高田馬場と「きみに読む物語」

 ごたぶんに漏れず映画好きで、子供のころから映画館に通いつめた。高校時代には授業をサボって映画館で半日過ごし、「バックドラフト」を連続で2回見て、こんな味気ない受験生活なんかやめて消防士になろうかと本気で思った。大学に入ってからは毎晩のようにレンタルビデオ屋へ足を運んで、借りてきた映画を寄宿舎の自分の部屋のテレビデオで夜通し見ていた。当時「ぴあ」のリストでチェックしたら、その時点で1,500本以上を見ていた。これは、若い頃たくさん見たよという自慢をしたいのではなく、逆に今思えば失敗したなぁ、と後悔しているという話。

 大学生だった僕は映画も芝居も大好きで、都内のミニシアターに行ってオールナイトで大昔の白黒映画を見たり、高田馬場あたりの芝居小屋へ行って学生演劇をよく見に行った。ストーリー構成をノートに書き出して分析したり、ジャンルごとにお気に入りの監督を見つけ自叙伝を読みふけったり、いかにも東京にいそうな大学生が、いかにもやりそうな事に熱中していた。

 二十歳前後というのは人格形成が出来上がった直後なので考え方や感じ方のベースは完成しており、そのくせ経験値が圧倒的に低いから、世界は狭く、脳ミソでは知識として知っていても、本当の幸福感とか本当の惨めさとか、本当の美しさとか本当の醜さとか、本当の気持ちよさとか本当の苦しみを、まだ実際に味わった訳ではなく、更には繰り返し味わって飽きた訳でもなく、映画でキャラクターたちが展開する巧みなストーリーの中で、それらを半分想像しながら感じ、想像し、だから世界や人生には深い意味があるとまだ感じることが出来た。要するにストーリーの面白さや、そこから導き出される意外性や強烈な感情やメッセージに、心の底から感動が出来たし、エンドロールを眺めながら胸が詰まって言葉を失うようなそんな時間も味わうことが出来た。パトリス・ルコント、クリシュトフ・キシェロフスキ、ペドロ・アルモドバル・・・90年代に輝いていた天才たちのみずみずしい表現に熱中し、口角泡を飛ばしながら、タランティーノの暴力性といやらしさと脚本の偏執性を、コーエン兄弟のペーソスとユーモアを同じく映画好きの連中相手に論じていた。

 がその後、ながながと生き続け、氷のように拒絶し続ける世の中へ、僕たちは自分の意志で自分たちを埋没させ、耐え抜き、お金を稼ぎ、家賃を支払い、ご飯を食べ、時々は気持ちのいいこともし、そんな仕事や生活や恋愛の中で、本当の幸福感とか本当の惨めさとか、本当の美しさとか本当の醜さとか、本当の気持ちよさとか本当の苦しみを実際に味わい、しかも繰り返し味わい、いい加減飽きはじめる30歳前後になると、もう何だかどんな映画を見たって、なんとなく先が想像出来てしまって、結果やっぱりそんな内容で、そのうち最後まで映画を見終えるという忍耐力がなくなってしまった。30代の10年間は大げさでなく1本も映画を見ることがなかった。だって見始めるとすぐに、ひどく退屈を感じたから。

 40歳を越えて、たまたまテレビで「きみに読む物語」を見た。家で仕事しながらついでで何となく見ていたのに、いつのまに手を休め、テレビの前に座って見ていた。そして号泣。どうして?こんなコテコテの恋愛映画が?なんでこんなに胸を打つの?何が新鮮?何が?20代の自分だったらきっとバカにしていただろう、こんなのハリウッドが作った商業主義ど真ん中の作品では?って・・・・

 その後、AmazonプライムやNetflixで休日に見始めた映画も、胸を打ったのは「グラン・トリノ」「ベンジャミン・バトン」「ハッピーエンドの選び方」だった。分かるでしょ?要するに僕たちは初老に入ったということ。そして大学生のころ、頭だけで分かっていた大人の人生に対し、恐れと期待を抱きながら想像を膨らませ映画を見ていたように、中年になった僕たちは、まだまだ頭だけで分かっている老いとか死に対して、恐れと期待を抱きながら想像を膨らませて映画を見始めたということ。数十年後、本当の老いや死が近づいてきたころには、そんな類の映画はきっと退屈に感じて見もしないかもしれない。ただ今回は熱中して人生を先取りし、片っ端から見てやろうなんて考えないようにしようと思っている。だって久しぶりに見始めて、やっぱり映画はいいなぁと思う。映画に付随するコーヒーの香りとか休日の昼下がりの眠気とか、夜更のリビングの不思議な高揚とか、映画館の暗がりに映るドリンクとポップコーンを載せた青いトレーの面白い形とか、ぜんぶ人生に必要。なんにも見なかった30代はちょっともったいなかったと後悔をしている。

 人生をじっくり味わいたければ、生き急がず、だから熱中せず、少しずつ、たまたま何となく出会った作品を見て行った方が、僕たちは人生をもったいなく過ごさずに済むような気がする。だからもう失敗しないように、ぽつりぽつりと、僕は映画を見ている。