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ロスジェネ美食論(仕事探しの活力の為に)

出前一丁と「うぐいすきな粉揚げパン」と香港人のおかゆの思い出

 思い出深い料理ってなんだろう?そう考えてみた。料理に限らず、人間にとっての価値は、そのものだけの価値を意味するのではなく、味わうシチュエーションとかタイミングとか、その時々の僕たちの気分や感情に大きく左右されて意味を決定されるから、ただのインスタント袋麺だって「あのとき兄貴が作ってくれた出前一丁の味は心に沁みたなぁ」なんてなことも十分にあり得る。美味しい、という思い出は、味が味覚的に美味しかった事だけじゃなく、料理にまつわるいろんな物語なんかが付随して、初めて僕たちの「美味しかった思い出」になる。

 小学校に入ったばかりの頃、3つ年上の兄貴と留守番をしていて、兄貴が出前一丁を作ってくれた。なんだかガスコンロを使ってお湯を沸かすという大人の仕事ができる兄貴を、台所ですごく頼もしく見ていた記憶がある。後々分かるのだが兄貴はひどい味オンチで、美味しいとか不味いとか言わない代わりに、何を食べても全く無頓着で、お腹が詰めばそれでいいいみたいな感じの人だった。それで、兄弟二人で留守番するときはお湯を沸かしてできる簡単なインスタント物が多かったけど、兄貴がつくるラーメンや焼きそばは、必ずお湯をたっぷり吸ったブヨブヨの代物だった。ブヨブヨだから確かにお腹はいっぱいになる。味はどうか?もちろん不味かったのだろう。でも子供の僕は、母親以外の家族が作る料理をとても新鮮に感じて、すごく美味しく味わうことが出来た。人間にとって価値の決定とはそういうものだ。今でも僕は、UFO焼きそばを作るときは、わざとブヨブヨにしてちょっと家にあるソースも加え、懐かしい気分を味わいながら食べている。

 思い出深い料理と言えば学校の給食は外せない。考えてみると昭和の給食はヘンな食べ物も多かったかな。どう考えたってカビが生えているようにしか見えない湿った緑色の揚げパンが出てきて、甘ったるく、油っこくて、とてもじゃないがなかなか全部食べられなかった。昭和の小学校の先生というのは今の先生と違って、言う事をきかない子供がいたらぶん殴る場合もあったし、ちゃんと給食を食べない子供には食べ終わるまで周りで掃除が始まろうと机に座らせ続けることも可能だったから、僕はこの悪魔のパンが出た時だけは、半べそをかきながら必死で牛乳で胃に流し込んだ。ネットで調べるとこれは「うぐいすきな粉揚げパン」と言うらしく、好きな人は好きみたいだが、今でもやっぱり食べる気がしない。なんで湿った緑色なんだ?逆に鶏肉にチーズを挟んでアルミホイルで焼いた料理が給食に出て来ると無茶苦茶嬉しかった。あまりに美味しかったので、いつも僕は最後に食べるようにしていた。これは大人になった今でも普通に料理して家人に食べさせている。たれは醤油ベースの甘辛いやつにし、焦げた匂いが食欲をそそるよう工夫して焼き上げる。

 母親の手料理は、母親が地方のさらに田舎の出身だったので、やたらみりんを使った甘い煮物が多かった。何でもかんでもたっぷりみりんを使うので、肉じゃがも煮魚も同じ味がした。食感と風味が野菜っぽいか魚っぽいかの違いだけだ。ちなみに父親も味オンチで全く文句を言わずにもくもくと食べる人だったから、またかよぉ、またみりん味の煮物がおかずかよぉ、と一番下の僕が不満を言える食卓の雰囲気でもなく、ただもくもくと食べる父親と兄貴に挟まれて、だまってその甘ったるい料理を食べるしかなかった。でもこの母親の「みりんたっぷりの煮物」の中でたまにスマッシュヒットがあって、ニンジンのシーチキン煮がまさにそれだ。すごくシンプルな作り方で、ニンジンを乱切りにして、シーチキンと醤油とみりんで煮込んだだけの料理なのだが、本当にこれが美味しかった。シーチキンの油が浮いた残り汁は捨てずに大事に冷蔵庫に入れておいて、翌日の朝、レンジでチンしてご飯にかけて猫まんまにして食べるのが僕の楽しみだった。母親の手料理といえばこのニンジンのシーチキン煮を思い出す。

 中国の田舎で駐在中に疲れを溜め過ぎて扁桃腺を腫らし、39度の熱を7日間出した。地元の役人に紹介された地元で一番の病院は、お世辞にも医療設備は整っているとは言えず、受けられる治療も点滴のみだった。ちょと尿の匂いがする大部屋のベッドの一つで天井を回る換気扇の羽を見ながら毎日うなされ、5日目を越えるころには幻覚も見た。7日目には「肺炎の初期」と言われ、いよいよ明日は上海へフライトをとって病院を変えるかどうか、というところまで行ったが、8日目に急に熱が下がり始め、僕は生き延びた。10日もすると完全に熱は下がったが、扁桃腺は腫れ続けて痛みが残り、何も食べ物が喉を通らなかった。近辺には日本料理店などなく、地元の料理は油と鷹の爪がたっぷり入った地方料理で、本来は美味しいのだが、少なくとも病み上がりの日本人の口は全く受け付けなかった。食べなきゃ回復しないぞと頭では分かっていても、ちっとも飲み込めない、そういう状態だった。

 そんな時、同じプロジェクトに参加していた香港人が自分の借りているアパートへ僕を食事に招いた。僕は正直、まだ病み上がりでスイカくらいしか口に出来ずどんどんやつれて行く自分の状況だったので、それを知っていてどうしてこの香港人は食事に招くんだろと、ちょっと迷惑に感じたが、仕事上でだいぶお世話になっていた年配の方だったので、むげに断れずアパートを訪ねた。上司からは数日したら仕事に復帰するよう言われていた。

 香港人の奥さんがその時食べさせてくれたお粥料理の味を僕は一生忘れることが出来ない。どんな料理も痛みで通さなかった喉が、その温かい薬味の効いたお粥をつるつると食道へ招き入れ、久しぶりに胃に入った固形物の感覚は、なんだかエネルギーが体の中心にふわっと入ったようなそんな気持ちだった。僕は大きめのお椀に入れたそのお粥料理をペロリと平らげ、香港人とその奥さんにお礼を言った。香港人はしたり顔で「ほらね、来てよかったでしょ」みたいな感じだったので、あぁなるほど、そういう親切の仕方をしてくれたのだと、改めて感謝した。それ以降、あれより美味しいお粥料理を食べたことがない。

 料理を食すというのはだから、美味しいとか不味いとかの話ではなく、生きている人間の物語が常に取り巻いて、味付けをし、僕たちの人生の前に現れるものなのだと、僕は思っている。

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ロスジェネ人生論(仕事探しに迷ったら)

第2次ベビーブーマーが受験戦争をくぐって就職戦線をくぐった先の話

 第2次ベビーブーマーと呼ばれる大集団に属する一人として、史上最悪の受験戦争をくぐり抜け、くぐり抜けたあとで入った大学を卒業するころには、史上最悪の就職戦線に投入されて、大半はくぐり抜けられずに玉砕し、それでも何とかくぐり抜けてようやく社会にもぐり込んだら、時代こそ平成という年号だったけど要するに昭和の最後の旧式軍隊方式が全盛の頃で、もしそんな古い方式に付いていけず脱落して心を病み病院に行く者がいたとしても、そこはほら第2次 ベビーブーマー って数が多いし、第1次 ベビーブーマー もまだ働いているし、需要に対して供給が多いからぜんぜん大丈夫、てな具合で誰も気にしなかった。

僕たちは死ぬほどパワハラを受け、死ぬほどサービス残業をした。が、それは昔からあったフツーの話で、フツーに対して誰も拳を振り上げることはなかった。

 で、マジで玉砕してダイブしたり、実家に引きこもって出てこれなくなる連中が本当に近所に現れ初めてびっくりし、テレビの話じゃないんだ、ヤバイぞこれ、こんなとこで潰れたって誰も気にせんぞって必死でしがみつき続け、働き続け、そのまま年を取り、もはや転職できないくらい年をとった頃には、時代がすっかり変わっていた。

 今や昭和式日本スタイルはアジアの各国で敗れ去り、生産性が低いと馬鹿にされ、ついに昭和は終わった。昭和を信じて輝いていた第1次 ベビーブーマー たちは無事に逃げ切り、21世紀に敗れた国がこの先傾いて行こうが、少子化で滅ぼうが、特に気にしていないみたいで、たんまり貯めたお金で「人生の楽園」を謳歌して長野あたりの田舎で念願だったそばを打ち、奥さんとおしゃれな隠居生活をしている。

 一方、敗戦国の管理職になった第2次 ベビーブーマー たちは「仕事が辛いので朝起きられない」と言う新入社員を相手に、「そうだねぇ、どうすれば君が生き生きと働ける職場づくりができるかねぇ」なんて面談しながら、そうそう常にスマホでこいつらに録音されていることを意識して言葉遣いに気を付けなきゃ、ウン、「若者に寄り添う」を実践しなきゃね、なんて人事で受けたマネジメント講習よろしく生真面目に頑張り続けている。

 大学卒業直後、就職戦線で敗れた連中のかなりの数が、資格試験や公務員試験を受験していた。受験戦争をくぐり抜けた世代の悲しい性(さが)で、勉強して試験で頑張れば必ず報われるんだと皆が同じことを考えたからだ。でも需要と供給というのはこれ以上ないくらい世界のど真ん中の法則だと思う。せっかく教員免許を取っても先生になれない連中がゴマンといたし、公務員なんてどれだけ門戸を閉じていたか分からない。当時、第1次 ベビーブーマー たちはまだ現役だった。椅子は埋まっていた。やたらめったら資格を持っていて英語ペラペラの奴が、工場でアルバイトとして油まみれで作業していたとしても、誰も気にせず、何とも思わず、そして僕たちはそのまま年を取り続けた。

 なので、いよいよ今さら資格を取ろうがスキルアップしようが、もう年齢的にそんな勉強によって今よりお金がたくさんもらえるチャンスは来ないよね、あとは先細りする給料明細を見つめながら、死ぬ直前までバイトでもなんでもして食べていかないとね、という状況になった今では、逆に何かの為ではなく、自分の好きに自分が好きなことを勉強すればよい、という結論に至った。開き直りができるようになったということだ。

 がっつり文系だった僕は、歴史が好きで古典や現代文も好きだったし、趣味の範囲で経済学も会計学も民法も勉強した。外国語の勉強が一番好きだった。

 でも高校時代までは物理も化学も生物も大好きだったのだ。兄貴の影響で(兄貴は分子生物学が専攻だった)理系の勉強は好きだったけど、文系科目ほど得意じゃなかったので、受験科目を決める時に捨てた。今でも時々、書店で見つけた生物学の一般教養書をずっと立ち読みし、そのまま読み切るまで何時間も読み続けることがある。数字で表現される世界はいつも公平で、全てが平等で、ちょっとオカシな人がオカシな理屈をこねて無理強いできる余地がなく、要するにノイズが入らないからとても気持ちがいい。生命の活動も死という現象も、公平で厳然とした数字で表現され、そのプロセスも数字で説明される。

 でもやっぱり、やっていて一番楽しいのは語学の勉強だ。これは不思議。音楽に似ているからかな?学生時代に第二外国語や原典購読で学んだロシア語もスペイン語も初頭文法で終わってしまったし、英語だって大したはことはない。でも外国語を勉強している間はリラックスし、無になれる。写経をしている時とよく似た気分がそこにある。

 なので、休日の午前中は自分の書斎にこもって、特に先々役立てるつもりもない語学の勉強をよくしている。英語だったり中国語だったり、とにかく日本語以外のコトバを学んでいる間は、ウィークデーの仕事中にどっぷり浸かっている日本人相手のナイーブな世界(日本人は本当にナイーブで難しい)から遠く離れた感覚を味わい、一種の現実逃避ができる。語学の勉強はやはり声に出しながらやるのが一番だけど、それは学習効果よりも何より気分がよくなるということ。

大きな声で発音すれば、なんだか遠く離れた場所に飛翔して行くみたいで、そのくせ頭は真っ白、気分は最高。

 役に立てなくてよい。自分の好きに自分の好きな勉強をすればよい。

いまさら頑張ったって役には立たないという諦めは、年齢を重ねたことによる仕打ちではなく、年齢を重ねたことによって得た贈り物である。

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ロスジェネ映画論(仕事探しの合間に一息)

映画館と高田馬場と「きみに読む物語」

 ごたぶんに漏れず映画好きで、子供のころから映画館に通いつめた。高校時代には授業をサボって映画館で半日過ごし、「バックドラフト」を連続で2回見て、こんな味気ない受験生活なんかやめて消防士になろうかと本気で思った。大学に入ってからは毎晩のようにレンタルビデオ屋へ足を運んで、借りてきた映画を寄宿舎の自分の部屋のテレビデオで夜通し見ていた。当時「ぴあ」のリストでチェックしたら、その時点で1,500本以上を見ていた。これは、若い頃たくさん見たよという自慢をしたいのではなく、逆に今思えば失敗したなぁ、と後悔しているという話。

 大学生だった僕は映画も芝居も大好きで、都内のミニシアターに行ってオールナイトで大昔の白黒映画を見たり、高田馬場あたりの芝居小屋へ行って学生演劇をよく見に行った。ストーリー構成をノートに書き出して分析したり、ジャンルごとにお気に入りの監督を見つけ自叙伝を読みふけったり、いかにも東京にいそうな大学生が、いかにもやりそうな事に熱中していた。

 二十歳前後というのは人格形成が出来上がった直後なので考え方や感じ方のベースは完成しており、そのくせ経験値が圧倒的に低いから、世界は狭く、脳ミソでは知識として知っていても、本当の幸福感とか本当の惨めさとか、本当の美しさとか本当の醜さとか、本当の気持ちよさとか本当の苦しみを、まだ実際に味わった訳ではなく、更には繰り返し味わって飽きた訳でもなく、映画でキャラクターたちが展開する巧みなストーリーの中で、それらを半分想像しながら感じ、想像し、だから世界や人生には深い意味があるとまだ感じることが出来た。要するにストーリーの面白さや、そこから導き出される意外性や強烈な感情やメッセージに、心の底から感動が出来たし、エンドロールを眺めながら胸が詰まって言葉を失うようなそんな時間も味わうことが出来た。パトリス・ルコント、クリシュトフ・キシェロフスキ、ペドロ・アルモドバル・・・90年代に輝いていた天才たちのみずみずしい表現に熱中し、口角泡を飛ばしながら、タランティーノの暴力性といやらしさと脚本の偏執性を、コーエン兄弟のペーソスとユーモアを同じく映画好きの連中相手に論じていた。

 がその後、ながながと生き続け、氷のように拒絶し続ける世の中へ、僕たちは自分の意志で自分たちを埋没させ、耐え抜き、お金を稼ぎ、家賃を支払い、ご飯を食べ、時々は気持ちのいいこともし、そんな仕事や生活や恋愛の中で、本当の幸福感とか本当の惨めさとか、本当の美しさとか本当の醜さとか、本当の気持ちよさとか本当の苦しみを実際に味わい、しかも繰り返し味わい、いい加減飽きはじめる30歳前後になると、もう何だかどんな映画を見たって、なんとなく先が想像出来てしまって、結果やっぱりそんな内容で、そのうち最後まで映画を見終えるという忍耐力がなくなってしまった。30代の10年間は大げさでなく1本も映画を見ることがなかった。だって見始めるとすぐに、ひどく退屈を感じたから。

 40歳を越えて、たまたまテレビで「きみに読む物語」を見た。家で仕事しながらついでで何となく見ていたのに、いつのまに手を休め、テレビの前に座って見ていた。そして号泣。どうして?こんなコテコテの恋愛映画が?なんでこんなに胸を打つの?何が新鮮?何が?20代の自分だったらきっとバカにしていただろう、こんなのハリウッドが作った商業主義ど真ん中の作品では?って・・・・

 その後、AmazonプライムやNetflixで休日に見始めた映画も、胸を打ったのは「グラン・トリノ」「ベンジャミン・バトン」「ハッピーエンドの選び方」だった。分かるでしょ?要するに僕たちは初老に入ったということ。そして大学生のころ、頭だけで分かっていた大人の人生に対し、恐れと期待を抱きながら想像を膨らませ映画を見ていたように、中年になった僕たちは、まだまだ頭だけで分かっている老いとか死に対して、恐れと期待を抱きながら想像を膨らませて映画を見始めたということ。数十年後、本当の老いや死が近づいてきたころには、そんな類の映画はきっと退屈に感じて見もしないかもしれない。ただ今回は熱中して人生を先取りし、片っ端から見てやろうなんて考えないようにしようと思っている。だって久しぶりに見始めて、やっぱり映画はいいなぁと思う。映画に付随するコーヒーの香りとか休日の昼下がりの眠気とか、夜更のリビングの不思議な高揚とか、映画館の暗がりに映るドリンクとポップコーンを載せた青いトレーの面白い形とか、ぜんぶ人生に必要。なんにも見なかった30代はちょっともったいなかったと後悔をしている。

 人生をじっくり味わいたければ、生き急がず、だから熱中せず、少しずつ、たまたま何となく出会った作品を見て行った方が、僕たちは人生をもったいなく過ごさずに済むような気がする。だからもう失敗しないように、ぽつりぽつりと、僕は映画を見ている。

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ロスジェネ藝術論(仕事探しの間の休日に)

ジャズとタバコと仕立屋と

 音楽は何が好きって言われれば、迷わずジャズって答える。またまたぁ、カッコつけちゃってさぁってからかわれそうで、27歳まで正直に答えず、そうだねぇ、何だって聞くけどねぇ・・・という具合にその時まで適当に友達に答えていた。

 僕が27歳の時に父親が肺がんで死んだ。父親はジャズとタバコが大好きな仕立屋の職人だった。仕事場にはいつもタバコの煙が充満していて、そこが子供時代の僕と兄貴の遊び場だった。今思うと副流煙がマジでやばかったろうなという環境だったけど、タバコくさいその仕事場には、いつもジャズがかかっていた。高級紳士服の生地は子供の僕の目から見ても別格の色合いと艶があって、父親がタバコをくゆらせ、その生地を眺めてちょっと考えた後、銀色の灰皿にキュッと押し付けて火を消し、それから大きな裁断バサミを手に立ち向かって行く姿は、ものすごく格好良かった。そしていつもジャズのリズムが仕事場に鳴り響いていた。だから、たいていどんなジャズも、僕たちは耳に馴染みのあるものだったし、やっぱり耳にすると落ち着いた。それは大人になってからもだ。

 地方のさらに田舎で育った父親は、戦後に子供時代を過ごし、中学を出たらほかの同級生といっしょに集団就職した。全員が金の卵だ。社会は金の卵たちを大切に迎え入れ、金の卵たちは一生懸命働き続ければ確実に豊かで幸せになれた、そんな幸福の時代だった。いつか「なんで仕立屋の仕事を選んだの?」と聞いたら父親はちょっと恥ずかしそうに「カッコいいスーツを自分で作って着てみたかったからな」と言っていたのを覚えている。そのカッコいいスーツとは要するに、50年代のジャズシーンで輝いていたマイルス・デイビスとかが着ているようなアイビースーツだった。

 そのくせ、父親が一番お気に入りだったのは、40年代でも50年代でもなく30年代に活躍したベニー・クッドマンだった。何でだろう?格好いいと自分で思って作っていたスーツのスタイルは、まさにマイルスが着ていたようなちょっとラフなスーツだったし、僕の高校卒業のお祝いに作ってくれたスーツもそんなモダンジャズばりのちょいワルな感じだった(僕はそれが無茶苦茶ダサくて嫌だった)。でも自分が本当に大好きでカセットテープに何本も録音してナショナルのラジカセでかけていたのは、あの黒縁メガネで生真面目に蝶ネクタイをしていたベニー・グッドマンだったのだ。だからいつかの誕生日のプレゼントに、僕はベニー・グッドマン全集なるCDを贈ったあげた。たいていはナショナルでカセットテープを聞いている人で、家に1台だけあったCDラジカセを使うこともしなかったから、結局、せっかくあげたそのCDも一度も聞いているのを見たことがなかった。

 27歳の時、肺がんは父親の全身を駆け巡り、いよい危篤かもって母親から電話があった。僕は当時、東京にいてその場で上司に電話し、電車に飛び乗った。渋谷まで出て、喪服を持ってきたけど革靴を忘れたことに気づき、いったんアパートへ取りに戻った。途中で買ってそのまま行けばよかったけど、急いでいたのにわざわざ引き返したのは、なんだか死に目に会いたくない、母親が泣き叫んでいるそんな場面は一通り終わってから到着したいな、なんてちょっと頭の片隅にあったから。

 結局、病院に到着したのは、ちょうど母親が泣き叫んでしがみついている、死んだ直後のど真ん中だった。自分はずいぶん間が抜けているなぁ、と思ったのを覚えている。そのあと葬式という忙しい儀式があって、その忙しさは昔の人々から引き継いできた一種の知恵であり工夫みたいなもので、僕たち家族はその忙しさの中で悲しさを忘れ、せっせと葬儀の準備や坊さんとの打ち合わせ、親戚をもてなす食事の準備などをしていた。

 荼毘に付す前日、棺桶に入れる思い出の品を持って来るように言われた。僕はかつて仕事場だった父親の部屋に入り、それらしいものを探そうとした。既に使わなくなっていた仕立屋の道具は、たいていは金属で出来ていたから、燃えやすそうな日記帳とかアルバムとか、そんなのをかき集めた。

そして引き出しの奥に、そのベニー・グッドマンのCDを見つけた。まっさらで新品みたいにそこにしまってあった。やっぱり聞かなかったのかなって、蓋を開けCDを取り出すと、ケースの裏にマジックで年月日と「47歳の誕生日に息子から貰う」と書いてあった。昭和の初めのほうに生まれた人は、みんなやたらめったら手に入れた日付とかをこうやってモノに書く習慣があり、父親もそうだった。僕はクスっと笑ってから少し泣いた。段ボールに詰め込んだ副葬品を葬儀屋に渡すと、葬儀屋は燃えるものと燃えないものを峻別し、そのCDを手に「これもですか?」と僕に聞いた。僕はダイオキシンが出るとかでプラスチック製のものも燃やせないのを知っていたけど、葬儀屋の目をまっすぐ見据え「それもです」とはっきり言った。

ベニー・グッドマンは翌日、そのまま父親の体と一緒に煙になった。

それ以降、好きな音楽はと人に聞かれれば、僕は迷わずジャズと答えている。

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ロスジェネ人生論(仕事探しに迷ったら)

しみじみ探し続けるということ

 ロストとは失ったということ。氷河期とは時間が止まったということ。でも僕たちはそれでも息をしてご飯を食べて服を着替え、毎日、ドアを開けて家を飛び出して行く。そうやって前へ歩き続けて来たし、これからも歩き続ける。

 だいぶ無理をさせて来た体はそろそろあっちこっちがメンテナンスを必要としているけど、胸の内の雑草たるマインドは青々と茂り、まだまだ僕たちは前を向いて歩き続ける。失ったものとか手に入らなかった時間があったとしても、それはそれ。嘆いても仕方ない。目が覚めたら息をし続けるしかない。だから僕たちはやっぱりドアを開け前を向いて歩いて行く。

 頑張ったって何ともならないかもしれない、結論も理由もないままひどい目に遭うこともあれば、決して努力したわけでもないのに上手く行くこともある、そういう子供のころには教えてもらわなかった不思議な世界の中で、それでも頑張らなきゃって坂道を上りながら、僕たちはときどき立ち止まり、あぁ長いや、なんだこの坂は、疲れちゃったよ、どこまで続くんだ?このずっと先は何があるのかな?今さら期待はしちゃいけないのは知っているけど、でも目を凝らしたらあの向こうにはきっと・・・僕たちが失った世界とか手に入らなかった世界が広がっているのかもって、しみじみ考える。ちょっと周りを見渡しながら、しみじみ考えてみる。

 そう、立ち止まった瞬間に人生のずっと向こうを眺めながら、そんな風にしみじみと考えるってことは、僕たちはまだ、しみじみと探し続けているってことなんだろう。

 しみじみ探し続ける。何を?

 僕にとって何を?

 あなたにとっては何を?

  息をし続ける僕たちは、坂道を上りながら、焦らず、投げ出さず、あきらめず、卑屈にならず、そして長期戦なんだから肩の力はたっぷり抜いて、しみじみと人生を味わいながら、それを探し続けている。

  10年前にアジアの僻地に飛ばされた。舗装もされていない赤土の道路を、スラックスの裾をドロドロに汚しながらテクテク歩き、毎日仕事していた。40度を超す気温に身をさらし、汗を流して働いていた。

 ブラック?

いやそんな感覚ではなく、ハエのたかった食事とか、ゴミだらけの路地裏とか、日に焼けた坊主頭の少年の白い歯とか、要するに自分が育った国はたいがい豊かで、小さいけど高品質で高性能な幸せや楽しみが、あそこにはたくさん溢れていたんだと思い知った。

 あれから10年。今もまだ僕は坂道を上っている。小さいけど高品質で高性能な幸せや楽しみがたくさんあるこの国で、生活を楽しみ、テクテク歩いている。上り切った最後の場所には結局、何にもなく空っぽかもしれないけど、そんなことは多分知っているけど、僕は歩き続け、時々立ち止まり、周りを見渡し、やっぱりしみじみ探している。失われた世界が、まだどこかにあると信じているからだ。